日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の選びの中で

2021-01-04 11:46:57 | 礼拝説教
【詩編89編20~30節】
【コリントの信徒への手紙一 1章26~31節】

 2021年最初の礼拝では、詩編89編が与えられました。詩編は53節まである割合に長い詩編となっています。内容としては三つに分けられまして、1~19節が神様に対する賛美と感謝、20~38節までは、主なる神の言葉、神の意志、神の祝福が告げられます。39節からは内容が大きく変わり神の怒り、憤りが記されて締めくくられることになります。
 
 今日、最初に申し上げたいと思いますのは、私たちが信じるところの神の姿は「天地創造なる神」であるということです。89編12節以降を読みますとこうあります。
「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置き、北と南を創造されました。タボル山、ヘルモン山は御名を喜び歌います。あなたは力強い業を成し遂げる腕を備え 御手の力を振るい 右の御手を高く上げられます。」
 
 この世の天も、この世の地も、世界とそこに満ちるもの、海も山も主のものと詩編の作者は記します。聖書は天地創造の場面から記されますが、その意味はこの世は神様、それはあなたのものですという意味でしょう。
私たち人間は、神の創造の最後に、もっとも神に似た者として、しかし、神にわずかに劣るものとして造られました。
 
 けれど僅かに劣るとしても、この世で唯一、世を造られた神を認識し、神から与えられた世界の管理者としての責任を持ち、何よりも主なる神の思いに応答する者としての役割が与えられているのだと思います。
 応答する者として、神はアブラハムを選び、その子イサク、更にその子のヤコブ、ヤコブの12人の子ども達、そして、出エジプト記に入り、モーセ、ヨシュアといったイスラエルの指導者たちをはじめとする、それぞれの時代の祭司、王、預言者、神に応答する者の歴史が旧約聖書に記されている内容と言っても過言ではありません。

 そして今日読みました詩編89編20節からは、イスラエルの二代目の王として、人々から愛されたダビデについて記されています。
 
 20節、21節を読みます。「あなたの慈しみに生きる人々に かつて、あなたは幻によってお告げになりました。「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。わたしはわたしの僕ダビデを見いだし、彼に聖なる油を注いだ。」

 ダビデ王はイスラエルの歴史の中で、人々から愛された王として、最も栄えた時代の王として知られています。主イエスの父ヨセフもダビデ家の家に属する者でありました。ダビデの家柄である、ユダヤの人々にとっては一つの誇りであったと思います。

 ダビデは主なる神から選ばれ、祭司サムエルによって油注がれ王となりました。けれど、ダビデも人の子ですから、人としての失敗や過ちがあり、人の妻であったバトシェバと懇ろになるという出来事が記されているように、少しも完全ではなく、罪人としてのダビデの姿も聖書には記されています。
 けれど、ダビデは、その生涯において、何度失敗しても、尚主なる神に応答しようとする王でありました。その姿に人々は自分もこのようにして生きていきたいと思わせるものがあったと思います。
 主なる神を見上げて生きたダビデがいかに主なる神から愛されていたかが、詩編89編の中盤に記されている内容となります。
 
 後半31節からは、それにも関わらず神の怒りが表されます。31節~33節を読みますとこうあります。「しかし、彼の子らがわたしの教えを捨て、わたしの裁ききによって歩まず わたしの掟を破り わたしの戒めを守らないならば 彼らの背きに対しては杖を 悪に対しては疫病を罰として下す。」
 
 ダビデ王の息子であるソロモン王の時代までは、イスラエルは割合に良い時代でありました。けれどソロモン王の次の時代からは後継者問題が発端となり、イスラエルが二つに別れてしまう。そして、そこから以降、立てられた王の多くは、主の御旨に叶わない王として記されています。
 
 人が王となる。その意味は権力を持つということです。富を持つということです。家臣や部下や国民が自分の思い通りに動くようになるのです。その誘惑がどれほどのものでありましょうか。

 主イエスは福音書の中で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑をとらせてください』 とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」と話されました。

 誰が王様に、「王様、王様の目の中におが屑がありますから、取らせてください」と言うでしょうか。おが屑ならまだしも、明らかに丸太が入っているとしても、「王様、丸太がありますから取らせてください」と誰が言うでしょうか。いつの間にか、誰も、リスクを冒してまで、言おうとしなくなっていくでしょう。多くの場合、自分に厳しい人の意見や、言葉こそがその人を成長させるものですが、王様は逆にそのような人を排除することでしょう。

ダ ビデは、バトシェバと関係を持った後、バトシェバが子を宿しましたと告げたものですから、彼女の夫のウリヤとの子にしようと策を練りましたが上手くいかず、ウリヤを戦いの最前線に出して、戦死させてしまいます。しかし、その後預言者ナタンがやって来てダビデよ、それは正しいことなのかと迫った時に、ダビデはすぐに罪を認め「私は罪を犯しました」と自らの罪を認め、悔い改めました。
当たり前の事のように記されていますが、それ以降に立った国王の中で、果たして預言者の言葉をダビデのように、受け止めた国王はいなかったのではないでしょうか。

 逆に自分にとって都合のよい預言者を重宝し、厳しい言葉を告げる預言者は排除されて行ったと言えるでありましょう。

 何よりいつの間にか、自分が王ではなく、神のようになり、真の神の御言葉を軽んじて、罪を重ねるようになっていったのではないでしょうか。

 そのような状況は何もイスラエルだけの話ではありません。どこの国においても起こることですし、主イエスが、ファリサイ派、サドカイ派といった宗教的指導者に厳しくあたったのも、あなたがたは神の御名を用いて、神のように振舞い人を裁いている、それは神を軽んじていることなのだと告げたかったのだと思うのです。

 新しい2021年という年が始まりましたが、この世の状況はコロナウィルス感染が治まりません。そんな中にあって、この世の風潮としては政府に対する批判が高まっていることは確かでしょう。感染が治まらない中で、近い将来に私たちの地域は緊急事態宣言地域となる可能性がありますが、仮にそうなったとしても、遅すぎるとか、もっと素早い対応を、と言った批判が繰り返されるだろうと思われます。 

 けれど、大切なのは、誰かの批判、批評に終始しないということではないでしょうか。あの人、この人と私たちが自分以外の誰かを批判、批評しているとしたら、十分に気を付けなければならないと思います。自分がいつの間にか王になってはいないだろうか。
 繰り返し申し上げますが、ダビデが愛されたのは、悔い改めることが出来る人であったからです。そのような者こそが、神の選びの民とされている。
 
 詩編89編は時として、クリスマスの時期にも読まれる詩編です。20節に記される「わたしは一人の勇士に助けを約束する。わたしは彼を民の中から選んで高く上げた。」という御言葉があります。一人の勇士とは、ダビデのことですが、キリスト教の信仰を持つ者にとって、この御言葉は、主イエス・キリストを示していると受け止めて考えるからです。

 ダビデ家の血筋として誕生された御子イエスは、その宣教にあたり、私たち一人一人も神の選びにある一人一人だと告げられました。私たちが神を選んだのではなく、主なる神が私たちの一人ひとりを選び、神の民としてくださいました。そのことは私たちにとって喜びであり、誇りでもありますが、しかし一方においては、コリント書にあったように「神は世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられているものを選ばれました。それは誰一人、神の前で誇れることが無いようにするため」でもありました。

 新しい年を、神の御前に謙遜となって、与えられている人生に感謝して希望を持って過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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