日本キリスト教団 大塚平安教会 

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主のための場所

2021-11-22 16:07:31 | 礼拝説教
【詩編132編1~9節】
【フィリピの信徒への手紙1章12~20節】


 毎週水曜日の10時30分から聖書研究祈祷会が行われています。毎週7名、8名、9名と集まって下さり良い祈りの時間となっていますが、今、旧約聖書の出エジプト記を1章ずつ読んでいます。最近、読んでいる箇所は、出エジプトを果たした民が、エジプト脱出から三か月後にシナイ山に到着し、指導者モーセが山に登り、そこで主なる神から十の教え、十戒をいただいた場面です。
更に、具体的に、十戒を掘り下げるようにして、例えば人に危害を加えるとどうなるとか、人のものを盗むとどうなるとか、安息日の意味であるとか、祭りを行うには、といった、細かい規則も主なる神から聞くことになります。それから続いて主は、あなた方は主なる神が臨在する幕屋を造りなさいとモーセに告げます。
 
 幕屋とはテントのことです。イスラエルは荒野を旅する民ですから、旅をしながら、移動しながら40年の間テントを張って仮の住まいに住み続けるわけですが、主なる神がおられる幕屋、礼拝、祈り、犠牲の献げ物を献げる場所を作らなければなりません。「このところに私は住むであろう」と主なる神は言われました。
 幕屋の一番奥には、至聖所という特別な場所を作り、その場所に契約の箱を置きなさいと伝えます。契約の箱とは、十戒が刻まれた石の板二枚を入れてしまっておく箱です。この箱に蓋をして、その蓋の上から、主なる神はイスラエルに臨むであろうと告げられました。

 主の教えに従い、イスラエルの民は幕屋を作り、契約の箱が置かれ、長い間、契約の箱はイスラエルの信仰の証しとして、民の中心に位置することになります。40年の旅の後、いよいよ目の前のヨルダン川を渡れば神様が約束された土地、カナンの地という場面では、祭司が先頭となり、金の棒でもって契約の箱を担いで水の量が多いヨルダン川に入っていくのですが、川の水が二つに分かれて乾いた土地となったとあります。彼らは川と川の間を安全に進んで、それからエリコの街に向かうことになります。
 
時には先頭になり、時には中心となり、イスラエルの民に大切に守られた契約の箱、カナンの土地侵入後も大切にされ続けますが、敵国として度々争ったペリシテ民族に奪われてしまったり、最終的にはダビデ王が取り戻し、取り戻すだけでなく、ダビデは礼拝を整え、数千人が奏でる楽器、讃美の歌声でもって、主を賛美しました。その中心に契約の箱がいつも備えられていました。

そして、ダビデ王の願いは、主なる神のために幕屋ではなく、神殿を建設したいという思い、それが詩編132編に記され、綴られている内容となります。
 
「主よ、御心に留めてください。ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。彼は主に誓い ヤコブの勇者である神に願をかけました。「わたしは決してわたしの家に、天幕に入らず、わたしの寝室に、寝床に上らず、わたしの目に眠りを与えず まぶたにまどろむことを許すまい 主のために一つの場所を見いだし ヤコブの勇者である神のために 神のいますところを定めるまでは。」

ダビデは王として、主なる神を信じる者として、なんとしても神殿建設をと願っていました。
 
7節には、「わたしたちは主のいます所に行き 御足を置かれる所に向かって伏し拝もう」8節には「主よ、立ち上がり あなたの憩いの地にお進みください。あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。」と続きます。

主なる神はイスラエルをエジプトから救い出し、カナンの土地を与え、更に国として成長し王が立てられた。そのようにして導かれた神の印である「契約の箱」に憩いの場所をと願いつつ、ダビデは神殿建設を求め続けたのであろうと思います。
 そのための準備として、ダビデは金10万キカル、銀100万キカルを集めたと聖書にあります。これは現在のお金に換算すると、私の計算が間違っていなければ、金だけで272兆円となります。日本の国家予算が100兆円を超えたと言われていますが、いずれにしてもとんでもない金額で、この計算が正しいのかどうかよくわかりませんが、もの凄い金額であることがわかります。
更に、金、銀だけでなく、青銅、鉄、材木、石材、労働者として職人、石工、大工、あらゆる分野の達人を整えます。いよいよ神殿建設へと進むのです。

 けれど、そんな時に主の言葉がダビデの耳に届きました。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。」それがダビデへの御言葉でした。
 けれど、だから出来ないではなく、「見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる」そう告げられました。安らぎの人であり、安らぎが与えられた人、安らぎとは、シャローム、平安です。ソロモンは神にシャローム、平安が与えられた人でありました。
神殿の建設は、ダビデの子である、ソロモンへと引き継がれることになるわけです。
 
 ある文章に、ダビデの戦いは主なる神の名による戦いなので、多くの血を流したことは間違いないとしても、それが神に対する罪とはならなかったはずだとありました。けれど、ダビデが戦い、ダビデが勝利し、ダビデが整え、ダビデが建てたとなると、ダビデだけに焦点が集まり、ダビデが讃えられかねません。それ故に、主なる神は、平安の子であるソロモンに神殿建設の栄誉を与え、そのことによって、どのような思い、どのような計画でさえも、主なる神の思いこそが実現し、神御自身の働きによるということを、聖書を読む者に対して示し続けているのではないかとありました。
使徒パウロは、「わたしは飢え、アポロは水を注いだ、しかし、成長させてくださったのは神である」と記しましたが、ダビデにはダビデの、ソロモンにはソロモンの役割が備えられていたのであろうと思います。

 けれど、神の栄光を指し示すために、主なる神は、神を信じる者を用いられることも確かです。ダビデの思い、信仰が息子のソロモンへと続き、神殿は建てられ、契約の箱が至聖所に納められた時、雲が神殿覆い、主の栄光が神殿に満ち溢れました。ソロモンは全会衆に向かって、「イスラエルの神、主はたたえられますように。」と祈り、主の御計画に感謝し、罪の赦し願い、主の道を歩む者として誓いをたて、そのような生き様を願います。

 神の契約の箱が、モーセの手に与えられたのが紀元前13世紀、ダビデが集め、ソロモンが神殿を建てたのは紀元前900年代です。その間凡そ400年の間、契約の箱は、神御自身の印として、イスラエルを守り、イスラエルの信仰の中心でありました。その後、数百年、幾多の戦いを経て、ソロモンの神殿も破壊され、契約の箱の消息は途絶えてしまうことになります。一説にはエチオピア正教会が所有していると主張しているようですが、そうであるかもしれませんし、そうではないかもしれません。現代に至ってはもはや、存在しているのかどうかも分かりません。途絶えてしまっているかもしれません。
けれど、その消息が途絶えようとも、尚、途絶えないで続いているものがあって、それは、ダビデの、またソロモンの主なる神に対する思い、信仰でありましょう。
 
 いつかの礼拝でも話しましたが、ダビデが生き、ダビデが残した物の中で偉大な物は詩編であると申しました。聖書に記され、神を讃える詩編の御言葉は、3000年後の時代を経てなお、私たちの心に語り掛け、私たちの心の拠り所となって生き生きと息づいています。更に、ダビデが私たちに残したものは神を賛美する礼拝だとも言われます。ダビデは竪琴の名手だと言われていますが神を讃える際に、楽器を奏で、讃美を歌声でもって賛美しました。この礼拝の姿もまた、現代を生きる私たちの礼拝へと受け継がれたものでありました。
なにより、ダビデが私たちに残した最も大切なものは、神に対する揺るぎのない信仰でありましょう。ダビデが備え、ソロモンが建てた神殿ですけれど、ダビデは備えましたが、備わったから神殿を建てようとしたのではありません。 

 主なる神の神殿を建て、契約の箱に憩いの場所をと願い続けた思いが実現していっただけであります。物質や金銭が先にあるのではありません。それらは一番後であって、その前に人の願いと思いがあるのです。けれど、更にその前に主なる神の思い、神の時があるのだとも思います。
 
 今日、たまたまですが、私は午後から町田市の以前奉仕させていただいた教会の献堂式だとお知らせをいただき伺うことにしています。
町田の教会は、私が牧師をしていた時代から既に、会堂建築の相談が年に何度も行われていました。もっと言えば、私の前の牧師の時代から話し合われていました。けれど、それから10数年後の今日の献堂式となりました。嬉しい思いがしています。しかしまた、改めて人の思いではなく、主なる神の思いこそが実現することを思わされます。主イエスは「人にはできないが、神にはできる」と話されました。私たちの会堂建設の際にも思いましたが、人の思いではなく、主なる神の思いがあり、神の時があって物事が進んで行く、そのことを信じ、感謝し願い続ける信仰もまた主なる神は私たちに備えてくださいます。

 私たちにとっての契約の箱は、主イエス・キリストです。新約聖書からフィリピの信徒への手紙を読んでいただきました。使徒パウロはどんな状況にあっても、主イエス・キリストの名が告げられるのは良いことであり、それは喜びだと記しました。
「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」

 状況によらず、しかし喜ぶ信仰を歩んで参りましょう。与えられている状況から物事を判断する知恵も大切であり、必要です。でも神の思いこそが実現すると信じる者の信仰は幸いな信仰です。そして、それを喜んで受け入れる謙遜な心を私たちは養い育てていきたいと願います。考えればヘブライ書の11章に記されているように、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、ダビデも、ソロモンも、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とありますが、そのようにして地上を生きて、目で見えなくとも、しかし信仰によって与えられたと喜び、祝福された人生を歩んだことをお思います。
そこには一人一人が切に願い、神を信じ、幸い願い、更にを祝福に生きた姿を思います。私たちも、その一人ひとりに倣いつつ、地上を生きる時も、天に凱旋する時も、どんな時も、主イエス・キリストが共におられ、主なる神のお守りの中にあることに感謝して過ごして参りましょう。 
お祈りいたします。

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