日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

恵みの時、救いの日

2018-07-17 09:04:29 | 礼拝説教
【ヨブ記38章4~7節】
【コリントの信徒への手紙二 6章1~10節】


 思いがけなく、先週の金、土は教会員のTさんの葬儀となりました。水曜日の祈祷会の、まさに共に祈り始めようとするとき、夜の8時過ぎでしたが息子さんから電話が入りまして、「今、母が召されました。」と告げられました。

 後で気が付いたのですが、電話の前に私の携帯にメールが入っていまして、そこには「今、母が危篤です。お祈り下さい」と短くありました。その時間は7時54分、そこからわかることは、息子さんも話しておられましたが、Tさんは殆ど苦しむことなく、あっという間に召されていかれたのだろうと思われます。

 これから抗がん剤治療を行う予定になっていたそうですが、その苦しみを思うと苦しむことなく召されたのはある意味においては、神様の思いがそこにあったのかもしれませんと話しておられました。
 息子さんご夫妻は本当にTさんの為に、献身的な世話をしておられました。ご主人をホームに移してから、Tさんは一人暮らしになりまして、一人暮らしですけれど、元々、一人では暮らしていける状態ではなかったと思います。
ですから朝に、昼に、夜に、食事の準備の為に義娘さんが通われたり、息子さんが泊まり込んだり、そして、ついにお二人はTさんの為に、生活の拠点をTさんの家に移した程でありました。それでも、色々な面において、ギリギリの生活だったと思います。Tさんは5月27日の礼拝に息子さんご夫妻と共に出席されておられますが、その時には、ご夫妻には一つの覚悟のようなものがあったのかな、今となって改めて思わされてるいわけです。

 そして、またTさんが亡くなった二日前のことですが、教会に電話がありまして、ご存知の方も多いと思いますが古い教会員で、今はM教会の礼拝に連なっておられるWさんからの電話でありました。お嬢さんが召されたというのです。
49歳であったと言うのです。本当に驚きました。驚きましたけれど、Wさんは私にこう話して下さった。正確ではないと思いますが「人の命は、人間ではどうすることも出来ません。神様が決められることだから。」そういうことを話された。
本当にお辛いと思いますけれど信仰をもってそう伝えて下さいました。それから「でも、先生、先生のテレフォン・メッセージを聞かせると博子はとっても喜んでいました。」と言って下さいました。
 ですからこちらの方が恐縮してしまいました。考えてみれば、今の時代は、携帯電話やスマートフォンは、誰もが持っている時代ですから、病院で聞かせることも出来るのだとわかりまして、ですからつまりは、人生これからテレフォン・メッセージを頑張ってくれということだと思いますので、頑張っていきたいと思うのです。

 話は変わりますが、先日から昼の祈祷会で創世記を読み始めました。いま5章まで進みましたが創世記の3章に記されていることは、蛇の誘惑に乗ったアダムとエバがエデンの園から追い出されたという話しです。園の中央に植えられていた二本の木、善悪を知る木と、命の木、この二本の木の実は食べてはいけない、と言われていたのに、蛇がエバを唆し、誘惑して食べても死なないからと言って食べさせて、エバは、その実をアダムにも渡して、二人で食べてしまうわけです。
この出来事は様々な示唆を私たちに与えていると思います。一つは蛇が誘惑したという点です。蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開ける」と告げました。
 目が開けるとは、あなたは、まだ目が開いていない、あなたはまだ物事がわかっていないということでしょう。もし、私たちの所に、どこからか賢い人がやって来て、あなたはまだ目が開いていない、物事がわかっていないと言われたとしたらどうでしょうか。私などは、すぐにあ~そうなんだな、まだ何もわかっていないのだなと思ってしまう。つまり、自分ってダメだなと思うのです。蛇は間接的に、あなたはダメだと伝えているのです。

 そしてダメなあなたが、この木の実を食べると「目が開ける」つまり、ダメでなくなるよということでしょう。ですから誘惑なのです。人はダメでない自分になりたい、そう思うからです。

 アダムとエバもダメでない自分になりたいと思ったのではないでしょうか。その誘惑に負けて善悪を知る木の実を食べてしまいました。
 しかし、その善悪を知る木の実を食べた後、二人はどうなったのか、ダメでなくなったのか。全くその逆になりました。目が開けて、自分達が裸であると知りました。二人はあわてていちじくの葉を綴り合せて、腰を覆うものとしたとあります。それから神の前に出ることが出来なくなった。なぜか?

 目が開けて、はっきりわかったのは、自分達は裸で、とても人前には、この場合は神の前になりますが、出られない、自分達は何も知らないし、何も出来ないと知ったからです。善悪を知る木の実の正体は何か?この木の実を食べたことによって、人の心の中に「善悪」という概念が生まれたと言うとでしょう。人間の心の中に、善と悪があると分かったのです。本来、神様こそが、善と悪を決められるはずだったものが、人が決められるようになった、そして少なくとも、アダムとエバは益々自分達はダメなものだと、取るに足りないものだと判断してしまいした。自分は取るに足らないものだと思うと生きる勇気が湧いて来ないのです。

 自分は取るに足らない者だと思えば思う程、人は人生を憂いて、内向的な人は家にこもって引きこもりのようにもなりますし、外交的な人は人生を憂いて、外に出て人を傷つけるようにもなると言われています。

 ですから主なる神が聖書を通じて一貫して私たちに伝えていることの一つは、「善悪を決めるな」ということです。本来、善悪を決める、それは神の業であるはずなのに、人が善悪を決める、まさにそこで、様々な問題や、葛藤、また、争い毎を起こすのではないでしょうか。
 
 ヨブ記という箇所を読んで頂きましたが、ヨブ記の中心も神の正しさとは何か? と言う根本的な問題を取り扱っている物語だと言えます。健康でしかも裕福であったヨブが、神様とサタンとの会話の中で、ヨブからすれば思いがけず財産が取られる、牛、羊、らくだ、家族が取られていくのです。
 けれどヨブは嘆きつつも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言って神を呪うことはしませんでした。しかし、更にヨブには試練が与えられ、ヨブ自身が頭から足の裏まで酷い皮膚病になり、体中をかきむしるほどの重い病気になるわけです。ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って神を呪うことをしませんでした。

 しかし、そこから、ヨブと三人の友と、後に一人増えて四人との会話が続くのです、友達は、神様が何もしていない者に対して、罰を与えられるようなことはしないはずだから、ヨブよ、あなたは悔い改めて、神に懺悔しなければならいと迫ります。けれど、ヨブにしてみれば、神に対して何も罰を受けるようなことはしてないし、思い当たるところもない、と自分の正しさを主張するのです。

 この四人とヨブとの果てしない会話が実にヨブ記の8割を占めて、3章から37章まで続くことになります。
 結論からいいますと、38章になりまして、ここで主なる神が登場してヨブに話しかけます。38章の4節から読みますが「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたの。誰が隅の親石を置いたのか。」

 つまり、ヨブよ、この世を作ったのは誰で、誰が神であり、誰が善悪を決めることが出来るのかと、主なる神がヨブに迫ったのです。ヨブに、善悪を決めるのは、あなたではなく、このわたしであると宣言している場面なのです。その宣言において、「わたしはそれに限界を定め 二つの扉にかんぬきを付け「ここまで来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた、とあります。二つの扉にかんぬきとは何か、私は、この扉こそ、命の扉ではないかと思うのです。

 人は善悪を知ることによって、ヨブと友達との間に見られるように、絶え間ない争いを起こします。しかし、人は人の命を自分で決めることは出来ません。どんなに医学が進歩しようとも、どんなに衛生面、環境が整っても、人は命を自分では決めることが出来ません。なぜなら、聖書的に言えば、人は「命の木の実」を食べていないからです。

 ですから、どんなに医学が進歩するとしても人の命は神の御手の中にあるのだと思います。神が決めて下さるところで、私たちの地上の命があるのです。

 だから、大切なのは、長寿であることにこしたことはないとは思いますが、しかし、残念ながら誰もが願う年月を生きられるわけでもありません。だから、大切なのは、その人がどう生きるのか、生きようとしているのか、どう生きているのか、そしてどう生き切ったのかという点ではないでしょうか。

 本日の説教題を「恵の時、救いの日」としました。読んで頂いた新約聖書コリントの信徒への手紙6章2節に記されているみ言葉です。使徒パウロが私たちに伝える御言葉「今や、恵の時、今こそ、救いの日」パウロはこの御言葉を喜びにあふれて告げているわけではありません。
 元々コリントの信徒への手紙は、喜びの手紙として記しているわけではありません。むしろ、パウロがあらぬ誤解を受けて、主イエスの福音から離れて行こうとする人々へ、誤解しないでいただきたい、主イエスから離れてはならないと一生懸命に書き記している手紙です。
 そしてこれまで、自分がどれほどの忍耐を持って主イエスの福音を宣べ伝えてきたのかということを書き記しているのが今日読まれた箇所となります。

「今や、恵の時、今こそ、救いの日」として生きていくために、必要なことは忍耐だというのです。例えるなら諦めないということです。

 諦める理由は幾つでも挙げることが出来ます。「いや~、今不景気だしなぁ」「もう、歳だしなぁ」、「何回かやってみたけれどだめだったからなぁ」そうやって自分達は自分達が考える善悪の中で、判断するのではないでしょうか。しかし、そこで神の命が生き生きとしてくるわけではありません。生き生きとしてくるのはその逆です。

 一晩中、漁をして、一匹も採れなかったシモンに対して主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは「イヤ~、先生、無理ですよ、だって一晩漁しましたもの。これから採れるわけがないでしょう」とは言いませんでした。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」その結果は、2そうの船が沈みそうになるほどの魚が取れたのです。

「今や恵の時、今こそ救いの日。」主の恵は私達の力や思いを超えて、多くの祝福を与えて下さると信じている人にこそ、神は豊かに与えて下さいます。

 皆さん、だから様々な誘惑に惑わされない事です。惑わされない為には、命の主である神につながることです。私はぶどうの木、あなた方はその枝であると主イエスは話されました。ぶどうの木を植えると凡そ5年で成木になるそうです。そして、最も元気な時期が15年から20年ぐらい。30年ぐらいで衰えが見え始め、すこしずつ、ぶどうの房をつけなくなる、物によっては50年から80年、長ければ100年ぶどうは生きるそうですが、だから、最盛期を過ぎぶどうの木をどうするのか、切ってしまわれると思いますか、切らないんですね、なぜなら、最も実りのある15年から20年ぐらいのぶどうの実からのワインはいわば流通しているワインの味だそうです。高級な深みのあるぶどう酒は50年以上たったぶどうの木に実る実で造るのだそうです。

 何かそのまま、人間の人生を見ているような思いもいたしますが、段々年を取る、しかし、もう人生も、先が見えて来たかなと思う頃から、実は、本当に味わい深い人生が始まるのではないでしょうか。益々命が燃え上がるように主がそのように定めておられるのではないでしょうか。幾つになっても、そこに深い味わいのある人生がある。その事を私達は覚えて歩んで参りたいと思います。そのようにしてTさんも生きてこられた一人でありました。

 人の幸せ、不幸せは、善悪によって決めることではありませんし、物でもありません。勿論、歳でも無い。財産でも無いでしょう。

 与えられた今を常に喜ぶことです。悲しみも、苦痛も、沢山抱えながら、けれど、その時、その時、今や恵の時、今こそ救いの日として、この日に与えられる恵に感謝出来る人、そこにこそ幸いがあるのです。私たちはそのように生きていきましょう。  お祈りいたします。
ジャンル:
きいてきいて
コメント   この記事についてブログを書く
« 神の作品 | トップ | 二つのものを一つに »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事