日本キリスト教団 大塚平安教会 

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「元気が出る」

2017-06-09 11:03:08 | 礼拝説教
使徒言行録2章1~11節
マタイによる福音書12章14~21節

2017年の、ペンテコステ礼拝を迎えました。今日の説教題を「元気が出る」といたしました。何かストレートなタイトルにしたかなと思いますが、でも神の聖霊の働きとは、一言で言うとすれば私たちを元気にして下さる力だろうと思うのです。
主イエスの弟子たちのことを思いましても、この聖霊降臨、ペンテコステの出来事によって、弟子たちが力付けられたからこそ、主の福音が世界へ向けて発信されはじめられたのだと思うのです。

 私たちは一言で神を信じると申しますが、日本の多くの方が信じている神様も、キリスト教が教えるところの神様もどっちも同じ、神、普通名詞で神様ですからね、なんとなく有難い、でも恐れ多いということにおいては変わりがないだろうと思っている方々が多いかもしれません。でもキリスト教が指し示す神様はどういう神かというと、父なる神が子なる神である固有名詞としてのイエス・キリストを誕生させて下さり、この方が私たち人間にもよくわかる姿で、この地上で福音伝道を展開されたことによって分かるのですよと教えます。

 その出来事は今から2000年前の出来事ですが、聖書を読んで主イエスの御業や御言葉を知り、この方こそ私たちの救い主と信じるに足ると思われている方も大勢おられます。更に、主イエスの十字架の死という出来事によって、すなわち、私たちの人としてのどうしようもない、傲慢さや罪や人としての幼さ、未熟さ故の欠けの全てを負って、しかし、父なる神の前に私たちを罪無しするために、付けられた十字架の業、を信じることによって、私たちは救いを得ることが出来るとも言えます。
更には、十字架の死から三日目に、全てが終わったと絶望に打ちひしがれていた弟子たちの所へ復活されて主イエスが現れて下さり、死にさえも勝利される神の姿を示して下さり、どんな絶望のその先にも確かな希望があると教えて下さった、そこからもそうだ、この方を信じようと決心された方もおられるでしょう。
 
 けれど、大切なのは、この一連の出来事が、主なる神の御計画であり、私たちには必要だと知るためには、聖霊なる神の力が必要であるということではないでしょうか。主イエスは救い主である。この方こそが、死から復活された方である。この方によって私たちはいつでも、どんな時でも元気を出して希望を持って、歩むことが出来るのだと共におられて、励まし続けるのが聖霊なる神、この聖霊の働きによって人と人とが繋がって、教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは、教会の誕生日でもあると言われます。

 誕生日といいますのは、幼稚園でも毎月の誕生会を行いますし、子どもの教会でも毎月行いますが、誕生日の何が良いのかというと、やっぱり祝ってもらえることだと思うのです。自分の誕生日を自分で祝う、それもあるかもしれません。でも何が楽しいかと言うとおめでとうと祝ってくれる人がいる。自分の事を祝ってくれる人がいる。これはね、子どもだからとか、大人だからということを超えて、誰もが嬉しい事であると思います。それは、ここにあなたがいてくれて私も嬉しいというメッセージだからです。そのようなメッセージを受けると、人は本当に元気になります。

 五旬際の日に、弟子たちが一つになって集まっているとき、神の聖霊が弟子たちの所へ降って来て、一人ひとりの上にとどまりました。すると、一同が聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。とあります。

 ほかの国々の言葉でというのは、より話が通じるようになったということでしょう。一月ほど前でしょうか、教会に「広報えびな」という広報誌が入っていました。この教会は綾瀬市なのか、海老名市なのか配る方も、迷うと思いますが、それを見ておりましたら、大人のための初心者英会話教室開催の情報がありました。それで、私も初心者英会話なら、参加したら楽しいかなと思いまして、なんとなく申し込みました。それで、先週の金曜日の夜が第1回目でした。私を含めて5人のクラスでしたが、これがまた本当に全員が初心者で挨拶からスタートです。挨拶からスタートと言っても、全員が初心者ですから、何をどう言っていいのか分かりませんので、中々会話が広がっていきません。先生が本当に忍耐して下さっているのが良く分かるのです。なかなか元気が出ないのです。
 それで、ちょっとがっかり感をもって帰宅しまして、改めて使徒言行録のこの箇所を読みまして、「すると、一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに」色々な言葉で話し出して、聞いた人々が驚いたという場面を考えさせられました。言葉が通じるって大事だなぁ。

 言葉がわかるという意味は、心と心が繋がるということでしょう。心がつながるとは話している言葉もそうですが、その語る思いを理解できたということでしょう。特に、聖霊に満たされた弟子たちが告げるその言葉とは、主イエス・キリストこそ、私たちの救い主である。この方こそ、私たちを救いに導いて下さる方ですよ、という言葉でしょう。主イエスの業と教えと十字架と復活の出来事は、真のメシアとしての姿であったと力強く、また、迷いなく語るその心に人々は大いに惹き付けられたのではないでしょうか。

 聖霊を受けると、人は元気になります。主の弟子として主イエスと共に歩んで来た弟子たちの一人ひとりが、主イエスが捕らえられ裁判にかけられ、十字架刑にされてしまう。弟子たちはどんなにか落胆して、失望したことでしょう。けれど、その三日後に主が復活された。彼らはどんなに喜んだことでしょう。でも復活された主は、40日の間、弟子たちと共におられましたが、40日後には天に昇られてしまいました。
再び、弟子たちはここで心を落とすのです。復活された主が共にいて下さると信じていたのに、天に昇られた、これから自分達はどうすれば良いのか、しかし、今回は心を落としながらも一生懸命に祈りました。その祈りの結果、その先に聖霊降臨の出来事が起こりました。聖霊体験とも申しますが、すなわち、この自分を、神は少しも忘れてはおられなかった。この自分を徹底的に受け入れ、肯定して下さった。そういうメッセージを受け取りました。
この出来事によって弟子たちは決定的に元気になりました。と同時に、自分達が何をなし、これからどう生きていくのか、それが明確になった時でもあったと思います。
 
 聖霊を受けて、弟子たちはそれぞれの国の言葉で語りだしました。ところが、人々の反応はどうであったのかというと、12節、13節を読んでみましょう。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言い合った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」とあります。

 この言葉が意味しているのは何か、不思議なことに、元気が出る、それは良い、でもその次は、元気が出る力をはばむ何かの力が働くのだということです。
 どういうことか、難しい話ではありません。先日、家内が久しぶりにクリーニング店に行くと言うのです。行くけど何か出すものがあるかと聞かれたので、丁度良いから、冬物のスーツを出してくれと頼みました。内心はやっと出そうと決死したのかと思っておりましたが、特別何も言わず、宜しくとお願いしたのです。出かけて以外と早く帰って来ましたので、早かったねと声をかけたら、「今日、休みだった。」不思議なことに、決心をはばむものあるということです。何も大きなことではないのです。そばをゆでて食べようとしたら、そばつゆが無かったとか、明日はジムに行こうと思って決心したら、体調が悪くなったとか、日曜日に教会行こうと思っていたら、何かの用事が入ってしまう。不思議なことに、まるで何か迫害のようにしてやって来るのです。
 
 弟子たちは聖霊に満ちて、元気が出て、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えようとしたのです。けれど、必ずのように、あの人たちは酔っているのだと、いうようにして、その元気さをはばむ何かがあるのです。
 この力によって、人はせっかくの決意を持っていたにも関わらず、やっぱり止めようかなと思う。英会話教室に行くと言いましたら、なんであんたが行くの、一人で外国にフラ~っと行く人が、なんで初心者のクラスに行くのと言われました。そうかもしれないと思いましたけれど、人に言う程上手くはないのです。
 だから丁度良いと思い返してやっぱり行ってきました。それでも行く直前になると、やっぱり忙しいからやめようかなと思う。やめるというより、逃げたくなるんですね。決意をはばむ何かの力によって、迫害のようにしてやってくる力はやめたくなる、逃げたくなる、そして、戻りたくなるのです。こんなことなら、申し込まなければよかったと、戻りたくなるのです。
 
 あの出エジプトの出来事を考えると良く分かります。イスラエルの人々が、エジプトの地で奴隷として働かされて、その苦しみの故に叫ぶ声を主なる神が聞いて、モーセを指導者として、エジプトの王と対決しながらも、ついに出エジプトの出来事を果たすのです。けれど、すぐに後悔したエジプトの王は、イスラエルの民を捕えて連れ戻すために、軍隊を派遣する。エジプト軍に追われて逃げるイスラエル、しかし、逃げたその先には、広大な海が待っていました。前は海、後ろはエジプト軍、その中で、イスラエルの民はモーセに不平、不満を語ります。私たちは殺されるために、エジプトを出たのか、これならまだ、エジプトに仕えるほうがましだったというのです。その声を聞きながら、モーセは持っていた杖を高く上げて祈りました。すると海が二つに分かれて道が出き、イスラエルの民は生きながられることが出来た物語です。しかし、その後も、イスラエルの民は、喉が渇いたとモーセを困らし、お腹が減ったとモーセを困らし、こんなことなら、エジプトの方が良かったと、すなわち、戻りたい、戻りたいと訴えるのです。

 決心したにも関わらず、今のこの時が苦しいと、やめたいとか、逃げたいとか、戻りたいとか、誰かに頼りたいとか、そして、最後には死んでしまいたいとさえ思うのではありませんか。死んでしまえばあとは悩まなくていいわけですから、死んでしまいたい。人はそのようにさえ思うものです。だから、そのように祈ることです。神様、私は決心しました。あなたの道を歩もう、でも、苦しみもあり、止めたいと思い、逃げたいと思い、戻りたいと思うのです。最後には死んでしまいたいさえ思うのです。
 そのような時こそ、神の聖霊が働かれる時であると思います。聖書は「死ねば生きる」と記します。主イエスはこう話されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」神様、私はあなたを信じて、過去の自分、これまでの自分に死んで、あなたと共に生きる人生を生きていきます。どうぞ、私をあなたの弟子にして下さい。そう祈って、祈って私たちは主イエス・キリストの弟子になりました。その弟子たちの所へ、聖霊は降りました。

 どんな状況にあっても、止めたいとか、逃げたいとか、戻りたいと思う私たちの所へ、時には死にたいとさえ思う私たちの所へ、神の聖霊がやってきて、私たちを包み込んで下さいました。
主イエスが捕らえられた時、逃げてしまった弟子たちでした。主が十字架につけられている時、あなたもあの人の仲間だと言われて、呪いの言葉さえつぶやきました。十字架で死なれた時、全ては終わったと弟子たちは思いました。復活の主イエスと出会い、喜んだのも40日間でした。主の昇天はどんなにか弟子たちを悲しませたでしょうか。何度も、何度も、喜んだり、悲しんだりの人生でした。でも、祈りの中で与えられた聖霊によって、すべてを超えて元気をいただきました。神様、私はもう、大丈夫です。あなたの聖霊によって汲めども尽きない泉のように、心からの元気を頂きました。どんな人生でも主が共にいて下さいます。だから、安心して今日も生きていきますと私たちは祈り、そして、聖霊降臨の出来事を感謝を持って過ごして参りましょう。

お祈りいたします。


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