日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の岩

2017-03-20 11:16:13 | 礼拝説教

【マタイによる福音書16章13~28節 】

 先週の月曜日、火曜日と息子のKの高校の卒業式に夫婦で行ってまいりました。実際の卒業式は水曜日でしたので、同じ水曜日に幼稚園の卒業式と重なりまして、私はどうしても幼稚園の卒業式にいなければなりませんので、火曜日の夜に、私だけKの学校の荷物と共に帰宅いたしました。

車のタイヤがノーマルタイヤでしたから、雪を心配していましたが、それも守られてホッとしております。途中高速のサービスエリヤに何度か寄りましたが、「雪道の中、ノーマルタイヤで走行して動けなくなった場合、道路交通法違反になります」という張り紙を見ながらドキドキしておりました。(笑)

 私は車の免許を取ったのが二十歳位の時ですから、すでに30年以上になります。皆さんも免許を持っておられる方が多いと思います。車を運転してみたいと思えば、教習所に通います。教習所に通いながら、所定の授業を受け、道路交通法を教えられ、標識の見方を教えられ、車の仕組みを教わり、何よりも直接車の運転席に座り、エンジンをかけて車を運転するわけです。運転しながら、仮免許証から路上運転となり、公道に出て運転の体験をする。その間、何回かの試験にパスしながら、やっと免許証を手にすることになります。免許があるとは、上手か下手かというよりは、所定の段階を踏んだという記しです。

 私は、フランス語の教員免許を持っていますけれど、それも全く同じことで、所定の授業を受けて、所定の単位を取って、仮免許証のような物はありませんが、一定の単位を取得しますと、最後に直接学校に行って子どもたちに授業をしまして、受け持ちの先生にハンコをついて頂いて、学校の卒業証書を貰ってから、やっと免許証となるわけです。今、それが役に立っているのは、幼稚園の書類にそう書けるだけで、それ以上何の役にも立っていませんが、それでも免許があります、と言うことは出来ます。

  それでは、信仰を得るはどういうことでしょうか。信仰を得るために、何か定められた所定の勉強をしなければならないわけではありません。信仰についての仮免許証があるわけでもありませんし、ハンコを貰うこともありません。この試験にパスしなければ認められない、というわけでもありません。古代の教会は、古代といいましても数百年に渡ってですが、洗礼を受ける時には、最低でも使徒信条を暗唱出来なければ認められなかったと言われます。暗唱して、一人で会衆の前で唱えなければならなかったと言われます。

 けれど、少なくとも私たちの教会は洗礼を受けることと、使徒信条を暗唱することが繋がっているわけでもありません。私には信仰がある。と思いながら、私たちは過ごしていますけれど、その信仰とは一体どういうものなのでしょうか。

  ある日の日曜日の礼拝が終わって、教会の玄関を出たとします。その時に、一人の知らない人が教会の看板を見ていて、そして、ふいに尋ねて来るのです。「すみません。キリスト教について教えて下さい。」と言われたらどうされるでしょうか。とっさの事でドギマギするかもしれませんし、もしかしたら、日曜日で良かったと思いながら、「中に牧師がいますから牧師に聞いて下さい」と話されるかもしれません。

 案外、私たちは信仰生活を送っていると言っても、その信仰生活とはどのようなことなのか、改めて考えてみるところが少ないのではないでしょうか。

  先ほどマタイによる福音書の1613節からの箇所を読んで頂きました。主イエスが、弟子たちに向かって問答をしているかのような箇所です。どんな問答かというと、あなたの信仰はどうなっているのか?という問答です。

  主イエスは弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」人の子とは主イエスご自身のことです。ご自身について人々がなんと言っているのか、このような問いかけを私たちも時々行うことがあります。私たち、特に日本人の特徴はなんといってもみんなと一緒かどうか、凄く気になる所があります。 

 日常生活の中で、「自分は自分、人は人」と分けて考えることを苦手としている人が沢山おられます。小学校の子どもを持つ親御さんから時々質問されることの一つは、先生、何年生になったら子どもに携帯電話を持たせたらいいのでしょうかという問いかけです。「特に持たせなくとも良いのではないですか」と話しましても、5年生、6年生にもなると、同級生の皆が持つようになるようですよ。と言われます。皆とはどの位の人ですかと聞くと、実際はそんなに多くはないのです。でも、気になりますし、子どもは「みんなが持っている」と主張します。子どもが言うところの皆という数は3人以上と聞いたことがあります。((笑)クラスに3人以上携帯電話を持っていれば「皆」という言葉を使うようです。

 我が家では中学生の娘がいますが、未だに持っていませんし、どうしても欲しいとも言いません。携帯を持っているのは大学生のSだけです。だから「よそはよそ、うちはうち」で良いのではありませんかと話しても、なかなか納得してくれない時があります。

  そのような生活文化の中に生きていますと、余計に皆が自分のことをどう思っているのかとても気になったりするのです。主イエスもご自分のことが気になっていたのでしょうか。気になっていたとは思いますけれど、けれど、主が問いかけた言葉の意味を知るにはもう少し先になります。

 弟子たちは問に答えました。「洗礼者ヨハネだ」という人がいます。この時既に、主イエスの先駆けとして登場したヨハネは捕らえられて首をはねられ、死んでおりました。ですから、ヨハネの生まれ変わりだと言う意味であったでしょう。預言者エリヤだという人もいます。エリヤは、旧約聖書列王記に登場するイスラエルの預言者であり英雄です。450人のバアルと呼ばれる異教の神を信じる預言者と一人で対決して、勝利し、また、嵐の中を生きたまま天に昇っていった、すなわち死ぬことなく天に昇った預言者して知られています。ですからエリヤはメシアとして再び地上にやって来られると人々は信じていました。だから主イエスこそ、エリヤであると噂がたっていたのでしょう。

 あるはエレミヤだとか、預言者の一人だと言う者もいると、弟子たちは、主イエスに人々が主イエスをなんと言っているのか、口々に話し出しました。

  口に出したと言うことは、どういうことかというと、人が話していたことをあたかも伝えようとしながら、本当は自分もそう思っていることを伝えているわけです。 

 人々は主イエスをエリヤだと言っていた、でも、自分もそう思うから、話が出来るのです。預言者ヨハネだと言っていた、自分もそう思うからそう伝えられるのです。人の言葉にのせて自分もそう思うことを伝える。実際、私たちも案外日常的に行っていることです。例えば私のネクタイが古臭いと言う人がいて、聞いた人もそうだなと思うと教えて下さるのです。先生、あの人が先生のネクタイを古臭いと言っていました。((笑)自分がそう思わない時は、あれは古いのではなく、大切に何年も使っているのではないかと話して、私にまではもって来ることはありません。

 人の思いを伝えるわけですから、自分は無責任ですからで案外話しやすいものです。実際、弟子たちはそのようにして、人々はこう言っていると、自分の思いも込めてここで主に告げているのだと思います。

  けれど、主イエスが本当に問いたかった問いは次の言葉にありました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」弟子たちは驚いたと思います。人はどう言っているのかには次々に答えられた弟子たちですが、では、あなたがたはどう思うのかと問われると、責任が自分にかかって来ますから迂闊な答えを出すわけにはいきません。しかも、問いかけの内容は自分達の信仰にかかわる事柄でもあります。

 改めて問うけれども、あなた方は私とこれまで一緒に旅を続け、共に苦しみ、共に悲しみ、共に喜んできた、そこで、あなたの信仰はどうなっているのか?と問われたのです。弟子たちは、びっくりして、皆黙ってしまったのではないでしょうか。本当は既に自分達の思いをあたかも人の言葉に重ねて、主に伝えているわけですから、それではあなたがたはと問われても答えられなかったかもしれない、どう答えるべきか躊躇してのではないでしょうか。黙って下を向いてしまったかもしれません。

 この場合、主から目をそらして、私ではなく、他の誰かがきっと話すだろうと責任を回避しているようにも思えます。

  少しの間、気まずい時間が流れたかもしれない、その沈黙を破って、良くも悪くも、弟子のひとりであり、一番弟子とも言われる、でも、少しそそっかしく、思ったことはつい話してしまうところがあったペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」ここにメシアとありますが、口語訳聖書では「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」とあります。メシアとはキリスト、すなわち「救い主」という意味があります。このペトロの告白は、人の口をもって、イエス様あなたは私たちの「救い主」」でると明確に答えた瞬間でありました。

 

 この答に主は応答しました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」この言葉は主が願っていた信仰告白の言葉をペトロが告げたという意味でありましょう。けれど続いて主はこう話しました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 この言葉は、あなたがあなたの信仰でもって、信仰告白したというよりは、そういわせてくださった天の父なる神がおられる」と話しているように思えます。それは、あなたがその信仰をもって語る、その言葉もまた神によって与えられているということでしょう。

  実際、読んで頂いた後半の箇所で、あなたはペトロと誉め言葉を頂きながら、しかし、主イエスがご自分は、必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると打ち明けられたその後に、主をわきに連れ出したペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめてしまい、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られてしまう、こちらの箇所は天から与えられた御言葉というよりは人間ペトロとしての姿が露わにされた場面だとも言えるでしょう。

  それでも主イエスはペトロに対してこう告げました。18節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」あなたはペトロ、このペトロという言葉は正しくはペトロスと言います、意味は勿論、岩という意味ですが、むしろ石とか小石とか、岩のかけらと言う意味のようです。「この岩の上に」と言われた岩はペトラという言葉です。ペトラとは大きな岩、鉱脈、巨石を意味するようです。そのような大きな岩の一部としてペトロよ、あなたもその岩に属するものであり、そのあなたに天の国の鍵を授けたよと主は伝えたのです。

 

 アメリカ聖公会のバーバラ・テイラー牧師がこの箇所に触れて、こう告げています。「ペトロがどのような人物であり、何を語り、行うから、天の国の鍵が与えられるのではありません。ペトロが「幸い」であるのは、彼の答えが神の答えであるからであり、ペトロが岩であるのは、「千歳の岩」から取られた一片であるからです。そしてこの関係の上に、教会が建てられるのであり、ペトロの、そしてあなたの、わたしの、美徳の上に、ではないのです。ペトロが選ばれるのは、正しい答えを思い浮かべたからではありません。むしろ、ペトロに正しい答えが思い浮かんだのは、彼が選ばれているからなのです。」

 途中飛ばして読みますが「もしも、ペトロがその上に教会が建てられる岩であるならば、わたしたちすべてに望みがあります。なぜなら、ペトロはわたしたちのうちの一人だからです。なぜなら、隅の親石のようにふるまおうと、躓きの石のようにふるまおうと、ペトロが神に選ばれた岩であることには変わりがないからです。」

  バーバラ・テイラー牧師は、神の選びがペトロで良かったと告げます。なぜなら、ペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」というような大胆な約束してしまい、後で弱気になり、一度どころか三度も「そんな人は知らない」と言ってしまう程の人でも神がこの人を選んで下さった。だからペトロでよかった、もし、完璧な人間を神が選ばれたなら、私には望みがなかったと告げるのです。

 ペトロが受けた祝福は、ペトロ自身の信仰によってではなく、ただ神の選びと祝福がそこにあったからです。そのことをペトロは何よりも大いに喜んで受け入れました。復活の主と、聖霊の力によって、立ち上がり、主イエス・キリストを宣べ伝えました。生涯において、主を宣べ伝えました。この方が、私たちを救って下さる方だと生涯伝え続けました。

 教会の礼拝が終わり、玄関を出て、看板を見ていた人がいたとして、目と目があって「すいません。キリスト教について教えて下さい」と言われたら何を話しますか?「はい、私は神様から選ばれて、教会に繋がるようになりました。あなたも私と同じように神様から選ばれています。そのことを喜んで信じるだけです。」と答えられるでしょう。

 そこに大きな神の喜びがあります。どんな出来事にも揺るがない神の岩に建てられた教会の喜びがあります。そして、教会とは、建物ではなく、私たちのことです。わたし達は、一人も漏らすことなく、神の恵みの喜びに招かれている。この喜びをもって、この一週間、共々に歩んで参りましょう。

お祈りいたしましょう。


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