日本キリスト教団 大塚平安教会  

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実りある人生

2018-02-01 10:57:26 | 礼拝説教
【マルコによる福音書4章1~9節】

 今日はマルコによる福音書の4章から、主イエスが湖のほとりで人々を前に話されたたとえ話、「種を蒔く人」の譬えの場面を読んで頂きました。
主イエスの話を聞くためにおびただしい群衆が、そばに集まってきたとあります。

 主イエスが人の前で話をされる、すると聞いていた人々が「驚いた」と、聖書には良く記されます。それは権威ある人のような話ではなかったとよく記されますが、権威ある人の話とは時として難しすぎるという意味なのかもしれません。

 私が岩手におりました時に、岩手、青森、秋田の三つの県で奥羽教区と呼ばれていますが、毎年夏には「奥羽教区全体修養会」という集いを行っていました。三つの県の教会の方々それでも、全部で200名程ですけれど、集まってその時、その時の、時代にあった講師をお招きして講演をして頂くのです。良き学びと交わりの時でしたが、今思い起こしますと、何回も出席して、沢山の講師から話を聞いたはずなのに、実際のところ、殆ど思い出しません。
 
 思い出す話はどんな話かというと、今、日本基督教団で、鈴木伸治先生の後書記を務めておられる秋田桜教会の雲然俊美先生が、全体修養会の閉会礼拝で話をされたどんな権威ある話をされるのかと思って聞いていたら、「ぞうさん」の話をされたのです。

 まどみちおさんが作詞した「ぞうさん」、ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね、そうよ、かあさんもながいのよ。これが一番、ぞうさん、ぞうさん、だれがすきなの、あのね、かあさんが すきなのよ。それが二番、この小さい子どものぞうさんが、鼻がながいね、と言われて、嬉しそうに、わたしのお母さんも長いのと話す、誰が好きなのと聞かれると、ためらわずお母さんと答える。このぞうさんの心はどんなに喜びに満たされているだろうかと、話されたのです。私たちもそんな喜びに生きていきましょうと話されただけです。
 
 私は感動しながら、その話を聞いていました。そして、私の記憶から離れることは無いと思います。うちの娘が時々言うのです。私の鼻はパパに似ている、ほんとに嫌だ!(笑) がっかります。(笑)
 まあ、そんなこと言うと、益々嫌われますからそっとしておきますが、そのようにして権威ある人の話のようではないというのはこのような話なのかもしれません。

 大勢の人々を前にして話された「種を蒔く人」の譬え、難しいと感じるような話ではありません。むしろ説教する者が話しを難しくしてしまう可能性さえあると思います。そうならないようにと願っておりますけれど、当時、畑に種を蒔く仕方、一つには種の袋を二つに結んで、牛の背中に負わせて、背中の両側から種が落ちるように、袋の下をちょっとだけ切っておく、そうすると牛が歩くたびに、種が少しずつ落ちていくわけで、畑の中をただ牛に歩かせるという方法であったと言われます。あるいは、あのミレーという画家が描いた、「種を蒔く人」というタイトルの絵がありますけれど、人が種を適当にばらまくという感じでしょうか。日本のように、畑を十分に耕して、畝を作って、丁寧に蒔いていくというのとは大分違ったようです。 
 
 ですから、種は必然的に、色々なところに落ちるわけで、ある種は道端に落ちる、ある種は石だらけで土の少ない所、茨の中に落ちてしまう種もあり、それぞれ鳥が来て、食べてしまったり、芽を出したけれど、根を張り切れないで枯れてしまったり、成長したけれど、茨が邪魔で成長しきれなかったり、結局の所実りを付けるまでは行かなかった。でも、ちゃんと畑に落ちた種は、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった、と言うのです。
 しかも、主エスは続く4章13節からの箇所では、このたとえを説明しておられます。

 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」「道端のものとは、それを聞いてもすぐにサタンが来て、蒔かれた御言葉を奪い取る。石だらけの所にまかれたものとは、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。茨の中にまかれたとは、この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地にまかれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者百倍の実を結ぶのである」と主イエス自ら説明もされています。

 主イエスが説明されたように、神の種が蒔かれて、そして蒔かれた神の言葉をどう人は受け止めるのかということでしょう。実りがないという話の中に三通り成長しない種について話しておられますけれど、基本的には神の言葉を受け入れるか、受け入れないのかの二つ何だろうとは思います。けれど少し丁寧に考えて参りますと、種は御言葉、それを聞いても、実らない原因の一つは奪われることだと言うのです。

 私たちは皆、赤ちゃんとして誕生します。誕生してからの凡そ一年はあたかも、神様のようだと話された先生がいました。つまり、泣くだけで全ての事が解決していくのです。お腹が空いても、おむつがぬれても、暑くても、寒くても、気分が悪くても、全てのことは泣くだけで解決していく。ところが一年経って行くうちに、挫折がやって来ます。人生最初の挫折はおっぱいを貰えなくなることです。誕生から数か月で離乳食、そして、固形の食べ物となっていくうちに、自然とおっぱいがもらえない、特に母乳で育った子どもは、母親とのスキンシップの問題もありますからね。ですから、おっぱいがもらえなくなるというのは人生最初の挫折感だと言われます。
 
 また、人は大きくなればなるほどに、様々な「奪われ」体験をするのです。お母さん、お父さんは自分だけのお母さん、お父さんのはずが、いつの間にか弟が誕生し、妹が誕生し、なんだか奪われ感を体験する。
 学校に入れば、これまで元気で丈夫なら何よりと言われてきたのに、元気で丈夫は当たり前で、更に成績、試験、点数が追加されるのです。そしてもっぱら親の関心は点数、結果、どんどん奪われる感が強くなるのです。
 更に成長して、社会に出れば、みんな一緒に入社したはずなのに、いつの間にか業績や成績で、出世する者もいれば、そうでない者もいる。そう思うのは自分がそうではない側になった時です。
 結婚もいつの間にか、自分の彼女と思っていたのに、自分の親友と結婚 することになったと聞くとすれば、どんなにか奪われたと思うか、逆に奪う場合もあるわけですけれど、更に、年を取れば取るほどに、いつの間にか、体が衰え、昔のようではないなと思う。体力が奪われ、健康が奪われ、時に夫が、妻が、家族が取り去られて行くという体験をする。
 命は一つしかないと分かっていても、いつか自分また、この命さえも奪われるのだろうと思うと、力を出そうと思っても中々出て来ない。あ~だから自分はあたかも道端に落ちた種のようなもので、鳥が来て食べしまう、すなわちサタンが奪っていくように、御言葉を聞いてもな~、そう思われる人が、他所の教会には時々おられるという話を聞いたりもします。

 星野富弘さんという方がおられますね。その方がこういう言葉を記しておられます。「鈴の鳴る道」という本の中にあるのですが、

「いのちが一番大切だと 思っていたころ 生きるのが苦しかった
 いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった」

 体を動かすことが出来ず、万能感どころか、無能感、絶望感だけで、残っているものは、自分の命だけ、この命が終ってしまったら全てが終りだと思っていただろう星野富弘さんが、神様の愛に触れて、そうか自分の命もよりも、もっと大切な命があって、その命に生かされて自分は生きているのだと、受け止めた時に、あたかも奪われて行ったと思っていた人生を、しっかりと取り戻すだけでなく、神の愛に包まれていることを実感して大きな喜びを表している素敵だと思います。あたかも道端に落ちた人生のようだと思っていたのに、あるいは石ころだけの土地だと思っていたの、茨だらけの人生だと思っていたのに、あなたはそうではないよ。私はあなたの人生を確かに、良い土地に落としたのだから、あなたは、これからその土地の中で、沢山の栄養と、水と太陽の光を受けて、すなわち、神の愛と聖霊の導きの中で、沢山の実りを付ける人生を素敵に生きていきなさい、そう伝えておられるのだと思います。

 私たちの人生は、若い頃はあたかも奪うような、加える、プラスの人生のようにして生きて来た、けれど、いつかの時に、確かに奪われていくような人生かもしれないと気づくことがあります。けれど、逆に取られれば取られるほど、自分の、また、隣人の命の大切を理解し、そして今、この時を、今日を大切に生きていこう、神様が喜び、自分自身も大いに喜べる人生を歩むことが出来るのだと思うのです。

 主イエスは石だらけの土地に落ちた種は、土が浅いのですぐ芽をだしたけれど、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまったと話されました。芽を出す、御言葉を聞くと喜ぶけれど、続かない、こういう場合もあるでしょう。先日、電話がありまして、丁度、車を運転していたのですが、教会からの転送で私の携帯が鳴ったわけです。慌てて、安全な所に止めてですね。教会ですと出たわけですが、青年の声で、教会ですか、お願いがあるのですが、先週と先々週の聖書個所と説教題を教えて欲しいのですがというのです。

 私はなんのことか、分からず、とりあえずお名前はと聞きました。名前を伺ってすぐに分かりました。昨年の4月頃に一度だけ教会に来たことがある大学生の方、あ~そういうことかと分かったのですが、今は実は車の中で、先週と先々週の聖書個所と言われても、毎週、私たちの教会はね三か所聖書個所を読んでいますから、手元に週報があれば答えられたと思いますが、私も記憶力が良いわけでもない、だから今は外だから、ということで、後で電話して下さいとか、教会に直接いらして下さいと言おうかなと思ったのですが、でもそんな意地悪をしてもと思い直して、教会のホームページをご覧ください、そこにあなたの欲しい情報はすぐに出てきますよと申し上げましたら、目の前にパソコンがあったのでしょうね。すぐに検索して、欲しい情報を見つけて、そしてありがとうございましたと切れてしまったということわけです。

 皆さん、この人は何が欲しかったのかというと、大学生で、この時期、聖書個所、説教題、まあ、これ以上深く言わなくともお分かりだと思いますが、レポートですよ。うちの教会のホームページには説教の原稿まで全部掲載していますから、勿論、人の名前はわからないようにと気を付けて掲載していますけれど、でもね、ちょっと思いましたね。全部掲載してしまうと、大学生が教会に行きなさいといわれてもね、HPで済ませてしまおうと思えば、出来てしまうのです。HPの情報は最低限の方がいいのかもしれません。
 学校もね、そうならないように、牧師のサインをもらって来なさいとか、色々と策を練っているのですが、中々上手くいかない。
 
 つまり、学校も、教会も、子どもの教会の苦労もそこにあるのです。芽を出すこと、そして根を張るようにとあの手、この手を考えるのです。そうやって頑張って芽を出させるところまでは、出来る、でもあとは、根を張る所までの協力をどうするか、いつも問われているのだと思います。
 
 一週間前に大雪となりまして、我が家の外に出しておいた観葉植物が直接雪にあたりまして、一週間でほぼ全滅しました。見えるところは何もありません。でも、その植物は根があるのです。春になると必ず根から新しい芽を出して、また再び元気を取り戻す、そのことを知っていますから、あまり慌てませんでした。私たちの人生も、なんで、こんなことばかり続くのかなと思うこともあります。中々、成長しないなとおもうことともあります。でも、そんな時こそ、しっかりと根を伸ばすことではありませんか。

 信仰という根を伸ばし続けているならば、必ず、そして何度でも、芽を出し、そこから再び成長し始めるのです。見える所以上に、目に見えない根をしっかりと張って生きていきましょう。
 
 そして、三つ目は茨です。すなわち、それはこの世の思い煩いや富の誘惑。その他色々な欲望が心に入り込むのだと主イエスは説明しています。思い煩いや誘惑。昨日予定されていました「もちつき大会」が中止となりました。

 どうも、この時期やインフルエンザ、ノロウイルスが流行る時期でもありまして、残念ですが、取りやめました。それで、昨日礼拝で何を話そうかとずっと考えておりましたことも、無くなったわけですが、最近、小川仁志さんと言う山口大学の先生が「ジブリアニメで哲学する」という本を出された。少し興味を持ちまして、本来なら金曜日には手元にあったはずなのですが、雪の影響かどうか、まだ届いていません。

 ですから、結局それを種にして話をしようとしていたのですが、難しかったかもしれません。ですから正確に読んで話しているわけではありませんが、ただ先日ラジオをきいていましたら小川先生が出ておられて話をしていたのです。宮崎駿監督が作る、いわゆるジブリ映画ですけれど、子どもはとっても大好きですが、でも、ディズニーのようでもない、何か、暗い部分がいつも隠されてあって、それが何かを考えていくと、宮崎駿監督の意図が見えてくるのだと話しておられました。

 例えば、「千と千尋の神隠し」という映画がある。千尋というかわいい女の子とお父さん、お母さんが、車でドライブしていて、いつの間にか人の世ではない世界に迷い込むのです。迷い込んだら、とても美味しそうな食べものが沢山準備されていたので、お父さん、お母さんは喜んで食べ始めるのです。
料金を請求されたら後で払えばいいよ、なんて言いながら、食べるのですけれど、いつの間にか二人は豚になってしまうという場面から始まります。

 ですから、結構怖い。けれど最後は千尋の活躍によって、家族三人が元気に人間界に戻っていくことになるのですけれど、この映画の背景には、人の欲望があると小川先生は指摘していました。両親が食欲に負けて豚になる場面や、千尋が働くことになった旅館では、皆お金欲しさにおかしなことになっている。その旅館の経営者はまるで金の亡者のようになっている。それがあたかも中心的な話ではないのですが、実際には人の欲望は限りなく、恐ろしいものであると訴えているのだと小川先生は指摘していました。その他にも、人は自然相手に喧嘩をしてはいけないとか、愛情を上手に受け止めることの難しさを描いているとか、とても興味深いと思います。

 いずれにしても、人は欲望の塊のようだと本当に思わされました。欲望によって人は思い煩い、誘惑に屈服していくのではないでしょうか。そのような思いが心に入り込むと、御言葉が覆い隠されてしまうのです。

 だから、主イエスは聞く一人ひとりに伝えようとしたのではないでしょうか。あなたがたよ、あなたがたの一人ひとりを、私は良い土地に蒔いたよ。良い土地とは、神の御言葉に生きる人の事だよ。世の中が語る言葉ではなく、神の御言葉によってあなた方は生きていきなさいよ。そして、そのようにして生きていくとき、あなたはあなたが思っているより以上の三十倍、六十倍、百倍もの実りを結ぶのだよ。

お祈りします。
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