日本キリスト教団 大塚平安教会 

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心を一つにして

2017-10-04 09:18:40 | 礼拝説教
 本日は、教会の初めての試みになりますが、明日の敬老の日を少し意識しまして、子どもの教会のファミリー礼拝と一緒の合同礼拝といたしました。
あいにく、外は台風がやってくるということで荒れ模様です。この3連休出かける予定の方もおられたと思いますが、こんな天気の日は、観光地に行くことも出来ず、だから教会にこそ、出かけるようにと神様の御計画なのだろうとも思います。素敵な子どもたちの賛美でした。(実際、沢山の皆さんが来られました)

 本日は、「心を一つにして」というタイトルです。合同礼拝だからといって、特別に子ども向けの話をするわけでもありませんが、良い箇所が与えられたと思っております。

 マタイによる福音書の18章から読んで頂きましたが、18章全体は、主イエスが弟子たちに対して話しておられる、あるいは教えておられる。そのテーマは、「共同体」の大切さです。
 1節から5節は天の国で誰が一番えらのですかと弟子たちが主に尋ねたところ、「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」教えて下さいましたし、次の箇所は、主イエスを信じる小さな者の一人をもつまずかせるようなことがあってはならないと教えられますし、更には、百匹の羊がいたとして、その中の1匹が迷いでたならば、迷っていない99匹を山に残して、その一匹を探しに行って、見つけたら、迷わない99匹よりも、迷った一匹のことを喜ぶだろうと話されます。
 
 そして、先ほど読んで頂いた箇所となります。兄弟があなたに対して罪を犯した時にどう対応するのか、最初は二人で話し合って解決しなさい。難しい場合は、二人、また三人が間に入って、それがまた難しい場合は教会が間に入ってと段階を踏む、つまり、相手に対して、丁寧に、よく心を開いて対応するようにということでしょう。読む私たちにとって、読む分においては理解できないとか難しいということではないと思います。

 もう一度申し上げますが、ここで主イエスは「共同体」の大切さを教えておられるのです。ただ「共同体」とは何か?一つは明らかに「信仰共同体」の大切さでしょう。私たちが毎週、毎週、日曜日のこの時間に、集まり礼拝を捧げています。子どもの教会を担当されている方々は、毎日曜日の8時半頃には集まって礼拝の準備をされて、9時からの礼拝に備えておられます。その礼拝に子どもたちは毎週10名前後、大人の方々が10名~20名程で礼拝を捧げています。私の思いとしては9時からの礼拝も、10時30半からの礼拝も、構成メンバーの違いや、その主たる目的がある程度、違いがあるとは思いつつも、でも、大塚平安教会の「信仰共同体」、あるいは「礼拝共同体」であることには変わりがないと思うのです。
 その信仰共同体が、一年の中でもそれ程、一緒になる機会が与えられないのは寂しいことではないでしょうか。ですから、このような機会がある、それはやっぱり喜びの現われであると思うのです。なぜ喜びなのか、それは主イエスが、弟子たちに、また私たちに、人は一人で生きていくのではなく、互いが必要なのだと教えておられるからです。
 人が実際的に生きていく為に必要だというだけでもなく、教会的に申し上げるならば霊的な問題です。あるいは心の問題だとも言えるでしょう。

 私の普段のデスクワークは教会の一階にある牧師室です。とってもきれいな牧師室を造って頂いていますが、いつも散らかっていて申し訳ないと思いながら仕事しているわけですけれど、平日にデスクワークの作業をしておりますと、勿論、一人で仕事がはかどることもあるのですが、時として、誰も来ない、誰とも話さないと、とても寂しくなることがあります。あ~幼稚園では、子どもたちと先生方が一緒になって楽しそうだなぁと思う、 そんなことを思いつつ、仕事に行き詰ったような時には、幼稚園の職員室をのぞいたりするのです。
 そうすると、皆さんが忙しそうに働いておられるわけです。でも、そこで面倒くさい人が入って来たなとは思うかもしれませんが、先生、お茶でも飲みますかとかと言われると私もつい調子に乗って、長居をしてしまうのですが、そうやって人の優しさに触れて、また一人の職場へと戻って行っていけるという具合なのですが、「人が独りでいるのは良くない」と主なる神は言われました。

 旧訳聖書の創世記という箇所で、神様が人を造られた場面があります。最初に土の塵で人の形の人形を作って、その人の形の鼻に神様の息を吹き入れられました。その神の息で人は命あるものとなって、最初の人間はアダムと名付けられました。けれど、その後、神様は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とアダムを眠らせ、そのあばら骨を取ってそこから、女性を作り上げてエバと名付けました。エバとは「命」という意味があります。

 先ほど讃美歌の104番を一緒に賛美しましたが、イギリス人のブライアン・レンという現代の作詞家がイギリスの古い曲に詩をつけて讃美歌を作り上げたと言われます。彼の弟が結婚式の際に作った曲と言われます。その詩は、結婚する二人の愛と信頼、神への感謝だけでなく、互いが互いを信じる大切さ、結婚生活の試練の嵐の中でも、また、互いを引き裂くような痛みさえも乗り越えるように、一つのパンを分かち合う互いに対する思いやりが記されています。とても素敵な讃美歌だと思います。しかしまた、そこで明らかにされることは、本当に不思議なことに、人は一人では生きていけず互いに惹かれて一緒になるのに、しかし二人になると、そこで様々な問題が起こるのだと言うことを改めて思わされます。人の悩みのほぼ全ては人間関係の悩みであるとアドラーという学者は説明しましたが、共同体として生きるとは、共同体の中で起こる、様々な課題や問題をどのようにして解決していくのかが問われることになります。

 だからこそ、主イエスはここで弟子たちに、また、私たちに告げるのです。兄弟があなたに対して罪を犯したらなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。それが上手くいかなかったら、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。それでもだめなら教会に申し出なさい。教会とは実にそのような所でもあると思いますけれど、ここで何を主イエスが話しているのか、それは、お互いがどんなに必要であるのかということです。

 共同体とは家族として表現することもできるでしょう。その家族の最も小さい単位は夫婦です。二人が互いに惹かれ合って結婚して、そして夫婦となる。その夫婦に子どもが授かれば今度は、親子という家族の誕生です。二人目が授かるなら兄弟、あるいは姉妹という家族の誕生となるでしょう。家族として一緒に生きていく為に、私たちはどのようにして物を分かち合い、協力し合い、互いを思いやるのかを学びます。
 
 健全な家族は「瓶の中を転がる小石のように、互いにこすり合いながら、尖った角を丸くしていく場所となります。自分以外の人間と暮らしながら、すべてが自分の思い通りにいくわけでない、ということを私たちは学んでいきます。自分の願いのいくらかを引っ込め、相手が欲しいというものをいくらか得ることが出来るようにする、妥協ということを学びます。」とバーバラ・テイラーという牧師は説明しました。その通りだと思います。健全な家族、あるいは共同体は互いに、互いの成長を喜び合い、認め合い、許しあえる関係にあるのではないでしょうか。

 けれど、時として、私たちはその逆を生きることがあるのです。先週私は、一冊の本を読みました。CSルイスというイギリスの作家が記した「天国と地獄の離婚」という本です。ある一人の男性がある町を歩いているところから始まります。その町は不思議な町で、町の中心部なのに、殆ど人がいない上に、夕暮れのようなぼんやりとしている町なのです。どこまで行っても薄汚い下宿屋とか、小さなタバコ屋、古本屋、窓の無い倉庫、列車の来ない駅が見えます。けれど、殆ど人がいない、そこにバス停があって、バスを待っている何人かの人がいて、自分もそのバスに乗ろうとして、列にならぶのです。
よく見ると、バス停に並んでいる人は思ったより人がいて、来たバスに乗りきれるかなと思いながら待っているのですが、そのうちに隣同士の人と人とが、喧嘩したり、争ったりして、人が減り、最終的には来たバスに乗ることが出来、そこで隣に座った男性と話しをしながら、町の秘密を知ることになるのです。その町にやって来て、人が住むようになると、かならず決まって24時間もしないうちに、隣どうして喧嘩してしまうというのです。それで腹を立てて互いに別の所に移ってしまう。でもその別の所に落ち着いても、24時間もしないうちに、また隣の人と喧嘩して、仲たがいをするので、また腹を立てて別の場所に移るというのです。ですから、その町の人々はどんどん町の郊外へと出て行ってしまって、町の中心は誰も住んでいない、廃墟の町のようになっているというのです。そして、もっと恐ろしいことに、町の郊外は果てしなく、どこまでも続いているのだというのです。

 人と人が良い関係を結べないまま、いつまでもどこまでも町だけが大きくなり続ける。そしてその町の名前を「地獄」と呼ぶのだというのです。そしてバスは、その地獄から天国へ向かういわゆる観光バスのようなバスでありました。天国と呼ばれる場所につくと、そこにずっと住むこともできるし、地獄に帰ることも出来るのです。
 そして、不思議なことに、多くの人は地獄を選んで帰ろうとする。なぜか、天国は自分の権利を主張する必要もないし、全てが赦されているのですが、それが我慢できないのです。天国に行ってみると、知り合いの何人かが天国に住んでいたりする。地上の生活では自分が上司であり、あの男が部下だったりするのです。もう我慢出来ないのです。天国は、殆ど裸か、薄い布をまとっているだけで十分なのに、これまで来ていた素敵な衣装を脱ぐぐらいなら地獄のほうががまだましよと言って帰ろうとする女性がいたりするのです。ですから殆どの人が結局の所、バスにのって帰ってしまう。とても印象的な物語でした。

 皆さん、後書きにこうありました。「天国と地獄は人間の自由な選択的決断に任されている。」つまり、自分が天国に生きようとするのか、地獄に生きようとするのは私達次第ということです。

 主イエスは弟子たちに、私たちに教えられます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」これは、あなたが今、この地上で良い関係を持って生きるなら、天でも良い関係だろうし、その関係を絶つことばかりする生き方をするなら、天においてもそうなのだということです。私たちが今をどう生きようとするのかは、いつも問われているのです。主は更に話されました。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 主イエスが、最も光輝いて、おられる場所、そこは勿論、私たち一人ひとりの心の中でありましょう。けれど、もっと光り輝いておられるのは、私とあなたの互いの心が打ち解ける所、家族という共同体、教会という共同体の互いが心寄せ合い、信頼しあえる場所、日本という社会のみならず、この一つしかない地球のわずかな土地にしか住んでいない私たち人間が赦しあい、助け合うその場所にこそ、主イエスがおられるのです。そこでは、幼子も、子どもたちも、より小さな者と呼ばれる者にも笑顔があります。憎しみや権力争いの中に平和はありません。核兵器やミサイルの多さによって信頼は生まれて来ません。

 私たちは、私たちには何もありません。でも、私たちの共同体を見てみなさい。ここに平和があるよ。そのようにして生きていきましょう。
 お祈りします。


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