日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の収穫をよろこびあおう

2018-12-10 10:12:53 | 礼拝説教
【レビ記23章33~43節】
【エフェソの信徒への手紙5章6~14節】


 本日は11月最後の主日礼拝となり、キリスト教の暦においてはこの礼拝が一年の締めくくりの週となります。次週12月のアドベント礼拝からは、新しい一年がスタートする。そのスタートの月にクリスマスの祝いがあるわけです。

 一年の締めくくりとして今日は、既にお分かりのように収穫感謝礼拝となります。秋の実りに感謝する。二日前の金曜日は、幼稚園のマルシュと教会のバザーが行われました。多くの方々が幼稚園に、また教会にと足を運んで下さいました。 この時期、多くの教会が10月から11月にかけてバザーを行いますが、トン汁を食べたり、カレーを食べたり、様々な秋の実りの食べ物が出されます。そんなことを思いますと、バザーも収穫感謝の意味が込められている一つの祭りなのだと思います。
 礼拝も、本来祭りとしての一面を持っています。キリスト主義の学校などでは収穫感謝際礼拝と呼ぶ学校もあるようですし、収穫感謝に限らず、復活祭とか、先ほどレビ記23章を読んで頂きましたが、そこには仮庵の祭りについて記されてある箇所ですが、この祭りもまた収穫感謝礼拝と深く関係する祭りとなります。

 元々、特に春に、また秋に行われる祭りの多くは収穫感謝の祭りと深い関わりを持っていました。現代でこそクリスマスケーキは冬の季節でも必ずイチゴが乗っていて、食料品店やスーパーに行けば、どんな季節でもありとあらゆる野菜や果物が手に入るようになりました。今でこそ当たり前のようになっていますが、このようになって本当はまだ100年も経っていないのではないでしょうか。

 宮沢賢治の雨ニモマケズという詩の中に「日照りの時には涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き」という一文があります。この雨ニモマケズは、諸説ありますが、1930年頃に記されたと言われています。随分昔の作品のように思いますが、実際はまだ100年も経っていません。現代でもそうだと言えるでしょうけれど、当時の特に東北は、その年の収穫は、まさに天候次第であったと思われます。

 西日本ではよく水不足の問題が起こりますが、東北地方は、冬の雪が一年かけて溶けて雪解け水となって川に注ぎ込まれますから、あまり水不足になることはありません。けれど、太陽が照らなかったり、長雨が続いたりは案外、頻繁に起こりますし、そうなるとその年の収穫に大きく影響するのは現代でも変わりはありません。最近は異常気象と呼ばれる状態が更に追い打ちをかけているとも言えるでしょう。
 日本だけでなく、世界を見渡せばまさに異常気象が追い打ちをかけて、食料難の中に生きている方々も大勢おられる。ましてや100年前どころか、2000年前、3000年前の時代に食べ物があるという状況、豊かな収穫があった年、人々はどれほどの喜びであったかと思います。収穫感謝を祝い神様に感謝して、礼拝を献げたでありましょう。
 
 読んで頂いたレビ記23章37節を読みますとこう記してあります。「あなたたちはこれらの定められた日に、燃やして主にささげる焼き尽くす献げもの、穀物の献げ物、和解の献げ物、ぶどう酒の献げ物をささげる。このほかに主の安息日、主にささげるさまざまの献げ物、満願の献げ物、随意の献げ物がある」と記されています。
 
 収穫感謝の時の礼拝に限ることではありませんが、イスラエルの人々が礼拝を献げる時に神の前に献げられた物は、穀物、野菜、果物だけではなく、焼きつくす献げ物、また和解の献げ物があったことが分かります。
 この焼きつくす献げ物、和解の献げ物の意味は牛であり、羊であり、山羊であり、また鳥でありました。つまり、生きた動物を連れて来て献げ、そこで屠って献げることをしたわけです。
 先日、幼稚園の礼拝で申命記26章という箇所から礼拝を行いました。申命記26章10節に「わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持ってまいりました。」とあります。収穫感謝礼拝に読まれる箇所の一つです。
 
 この聖書箇所が読まれる時、私は少し迷うのですが、それでも当時行われていた礼拝の話を致します。講壇の前に作物が献げられる、だけでなく、動物も連れて来られます。牛や、山羊や羊、鳥、なんのために連れて来られるのか、そこで私はあえて「殺す」という言葉で説明するようにしています。屠るでは子供たちには分かりません。
 「礼拝で動物を殺す」というと、少し騒がしい子どもたちが一瞬静まります。

 なぜ、殺すのか、子どもたちは「可哀そう」と言いますけれど、でも、それは神様に献げると同時に私たちが食べるためですよと話します。スーパーに行くと、美味しそうに陳列されて、パック詰めになっているお肉があります。魚も美味しそうなお刺身になってパックになって並べられている。それを見ると、本当に美味しそうに見えて、食欲がそそらますが、しかし、そこで忘れているのは、その肉や刺身の全てには命があって、生きていたことです。

 生きているということに関して言えば、野菜や果物、穀物も全く同じことで、全ては命があり生きていた。私たちは生きていた物、命を食べて大きくなっていくのであって、だから、これは好きだとか、嫌いではなく命を与え、食べ物を備えて下さる神様に感謝していただきましょうという話しをいたします。

 私たちの礼拝の、基となる礼拝は、動物を屠るためも執り行われていました。逆に礼拝以外の場で屠ってはいけないとされていたようです。そしてその動物は命の大切さを感じる為だけでもなく、人が食べるためだけもなく、何よりも神との和解のために献げられました。
 
 レビ記には和解の献げ物について細かい規定が記されていますが、簡単に言えば、動物を屠り、一番美味しいと考えられる箇所は主なる神に焼きつくします。残された肉の部分の一部は祭司の為に、一部は献げた人が食べることになっていたようです。
 つまり、この献げ物は祭司を通して、人と神が和解するために献げられた。和解というと喧嘩していた者同士が赦し合うような印象ですけれど、そうではなくて、人の罪を神が赦して下さるという意味があったと思われます。そのために、祭司が仲立ちとしての役割を果たし、自分達の財産でもある動物の命を献げ、そのことによって神が人の罪を赦すのです。それが和解の献げ物の意味になります。

 キリスト教となり、なぜ、そのような献げ物をしなくなったのか、神の子、主イエス・キリストがたった一度きり、英語で恐縮ですが、once for all という熟語がありまして、「決定的」とか「一度切り」と訳する熟語ですが、主イエス・キリストの十字架は、ワンス フォア オール これっきりである、一度切りである、私が学生の時に覚えた印象深い熟語の一つとなっています。この決定的な、主イエス・キリストの十字架によって主イエスが、神と私たちの仲立ちをして下さって、決定的に神との和解を行って下さった。だから、もう、私たちは動物の命をもって和解を求める必要はなくなったからだと言われます。

 すなわち、この主イエスの十字架によって、私たちは神と完全に和解し、神の子とされたのだとキリスト教は教えます。

 先週の礼拝は、キリスト教の暦というよりは、2018年度の暦に従って、私たちの教会の年間聖句であるエフェソの信徒への手紙5章1節の御言葉「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」という御言葉の聖書箇所を読みました。私たちは神の子として、また、神に倣う者として、また、本日読まれたエフェソ書から言えば、暗闇ではなく、主に結ばれて、光とされ、光の子としての命を生きているのです。

 光の子の特徴の一つは、まずなによりも私たちは神に愛されている子供であると知っているということでしょう。
 
 私たち日本人が少し苦手とするところは、この「神の子、光の子」という考え方だと思います。この一年で季節が巡り、収穫の秋を迎える。多くの作物の収穫を得る。その収穫は、太陽の光の中で、豊かな雨の中で、土地の豊かさの中で、つまりは自然の恵みによって年の収穫を迎えるのだと考えるところがあります。これは日本の神道であるとか仏教という教えの中にもみられるものであろうと思われますし、あえて宗教を挙げなくとも、いわば日本の歴史の中に育まれた日本人の感性と言っても良いかもしれません。 

 自然の恵みに感謝して、だから逆に自然を怒らせないような、自然の中にいる様々な神を怒らせないようにしながら生きる。あるいは神も仏も人も一体となって生きている、そんな感覚というか感性を持っているのだと思います。そういう世界は神が親であり、人が子といった考え方は殆ど見られません。ですから、キリスト教が伝えるところの、私たちは神の子であり、光の子です。と言われても、余計にピンとこないところがあるかもしれません。

 ピンと来ないのは、あなたは神の子だと言われるとそうだなと思えるのですが、神様が親であり、自分は子どもという言葉がピンとこないのかもしれません。

 私の母親、今、一緒に住んでいます。元気に過ごしていますが、認知症がゆっくりと進んでいることは間違いありません。病気の特徴ですが、今のことは分からないけれど、昔のことは良くわかる、特に自分が子どもであった頃のことは、毎日話します。その一つが自分も母親、父親が欲しかったという話しです。お父さんは物心つくかつかないかの頃に、母親は小学校2年生位の時に亡くなっています。食事の時とかの、私たちと子どもたちが会話している、たわいもない話を聞くだけで、親って良いもんだろうねぇ。私も親が欲しかったなぁ、と言うのです。

 でもね、母ちゃんよ、母ちゃんにも親がいたんだよといってもなんの慰めにもなりませんから、黙って聞いているしかないのですが、私には母もいない、父もいない、そう思いながら過ごしている子どもたちもいることでしょう。

 あるいは、母親が認知症であり、会話があまり成り立たなくなっていく。このことは私にとってみれば、子どもの頃から、どんな時でも、子どもである私を守り、支え、励まし、赦し、誰よりも応援してくれていた母親像が私にはありますから、その母親像からどんどん離れていく姿を受け止めなければなりません。私は数年前は、それを中々受け止めきれない思いの日々を過ごしました。けれど、それを受け止められるようになったのは、母親には変わりないとしても、親というより一人の女性として見ることにしよう、そう考えてみたのです。そう考えると大分母親に優しく接することが出来るようになりました。

 自分には親がいないという境遇に育つ子供も、親が以前の様ではなくなっていく様子と付き合いながら過ごすことも、何が大切かというと、私は神の子であり、確かに母親から生まれて来たけれど、命は神様が与えて下さったのであって、私がどんな時も、悲しい時も、苦しい時も、嬉しい時も、私が何歳であろうとも、年老いても、病気であるとしても、どんな時も命与えたもう神が、私の親であって、私は神の子、だから大丈夫。だから安心という思いをもって生きることではないでしょうか。

 私は神の子であると思うようにする。専門的な言葉では「親替え」という言葉を用いたりしますけれど、子どもが一人前になるためにも、あるいは親が子を一人前にするためにも、どちらにもとても大切なことは、私は神様から命を頂き、神のとして生き生かされている子どもであることを、しっかりと認識することです。このことを認識して、理解する。

 そうか自分には両親がいるけれど、私の生涯を伴って下さる神を親として迎えます。そう決心することが確かな信仰へと導かれる道ではないでしょうか。

 そして聖書は、神の子であるあなた方は、光の子だと記します。「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」

 ある牧師は、暗闇には自覚症状がなく、光の子は自覚症状があると説明しておりました。人は暗闇を生きていてもそれを暗闇だと自覚しないというのです。ある種のサイレントキラーと呼ばれたりする病気は、自覚症状が無いと言われますが、これが怖いと言われます。分かっていれば、早期発見ということもありますけれど、分かりませんから怖いわけです。

 だから分かるようになるためにはどうするのか?主イエスの御言葉に触れることです。ヨハネによる福音書8章12節にはこう記されています。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」光の特徴は三つです。明るい、暖かい、早い、この三つです。光の子として生きるために、明るく生きる、暖かく生きる、早く生きる。早くというのは急いでということではなく、悩み続けないということです。明るく、暖かく、早く、一言で言えば愛を持って生きる。自覚症状があってもなくても、愛に生き続けることです。これが光の子の特徴です。

 私たちは主なる神がその独り子を賜るほどに、愛された一人一人、神の豊かな何よりも勝る神の作品です。命ある神の収穫です。神の子として、光の子として、豊かな収穫を喜んで下さる神と共に歩んで参りましょう。
お祈りします。

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