日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2017-03-28 13:15:19 | 礼拝説教

ペトロの手紙二 1章16~19節

【マタイによる福音書17章1~13節】

 先週の礼拝では「神の岩」と言う説教題で、マタイによる福音書の16章13節からの箇所を読みました。主イエスが弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方にいかれたときのことでした。主が弟子たちに尋ねます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。弟子たちはそれぞれに、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、預言者だと答えますが、それでは改めて聞くが、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われて、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子」ですと答えました。この答えを聞いて、ペトロの信仰を受けて、その信仰を土台として、その信仰に続くものの上に、私たちの上に私は教会を建てると約束して下さいました。

 更に、その後にはご自分がエルサレムに行って、そこで、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けられ「わたしについて来たいものは、自分を捨て、自分の十字を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子たちを励まされた場面を読みました。

 今日与えられました聖書箇所は、それから六日後ということになります。丁度一週間後と考えても良いかと思います。主イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。先ほど、フィリポ・カイサリア地方に行った時と申しましたが、その地域で高い山とは、ヘルモン山と呼ばれている山のことです。

 山というよりは山脈のように、峰々が続いている高い山、ヨルダン川の源流にもあたり、この山によって豊かな水が供給され、人々の暮らしを支えていたようです。 

 そんな山の山頂までいったかどうかは分かりませんが、かなり高い場所まで登ったのではないでしょうか。マルコ福音書やルカ福音書にも同じ記事が記されていますが、それらを合わせて読みますと、時間は恐らく夜であったと思われます。弟子たちは疲れてとても眠かったようです。けれど、その暗さの中で、主イエスの姿が変わっていく、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなって、更にそこに旧約聖書の指導者モーセとエリヤが登場する、弟子たちにとってみれば、信じられない、とんでもないと思われる場面を見ることになります。

 弟子たちは、主イエスを、洗礼者ヨハネの生まれ変わりではないかと思い、あるいはあの預言者エリヤだと思い、あるいはエレミヤだ、預言者だとそれぞれに主イエスを思っていたわけですが、ここに来て、主イエスが光り輝き、そこにモーセとエリヤが登場した。ペトロが「あなたこそ、メシア、神の子だ」と話した、その言葉に喜んだ父なる神が弟子たちに改めて主イエスの神としての姿を示してくださった瞬間であったとも言えるでありましょう。

 ペトロは喜び、興奮して、「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです」と語りながら、ここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセの為、一つはエリヤのためにと話しているうちに、更に天から「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声を聞き、もう弟子たちは興奮を超えて、恐れおののいたのではないでしょうか。その声にひれ伏しているところで、主が彼らに声をかけられます。「起きなさい、恐れることはない」彼らが顔をあげてみると、そこには主イエスのほか、誰もいない、すなわち、元に戻っていたわけでありました。

  それでも、弟子たちは大いに喜んだと思います。自分達の師匠は、先生は本当に大した方だ、到底信じられない場面に私たちは遭遇することが出来た。まさに誰も知られることのないような真の姿を知ることが出来た。その喜びを他の弟子たちにも知らせ、多くの人々にも知らせなければならないと思ったでありましょう。それほどの喜びの場面であったと思います。

 人は、自分の悲しみとか辛さ苦しさというものは案外人に話さず、じっと自分で我慢することが多いものです。あまり悲しさや辛さを話すと愚痴のようでもあるし、弱い人だと思われるもの嫌ですから、滅多に苦しみや悲しみを話さないものですが、けれど、逆に、喜びや嬉しさはやっぱり誰かに話したいと思うものでありましょう。

 先日、思いがけなく岩手におります私の弟から電話がかかってきました。年に一度あるかないかの電話ですが、岩手で何か起こったのかと一瞬こちらが緊張しましたが、どうも話していると差し障りのない話をしているのです。何の電話かなと思いながら聞いていると、おばあちゃんは元気かというのです。元気だよと話すと、おばあちゃんと話がしたいというのです。何の話かと思いましたら、弟には一人息子がおりまして、その子が願っていた高校の受験に合格したことを報告したかったのだとわかりました。しかも、岩手では名門と呼ばれるような高校に合格した。それをどうしても黙っているわけになはいかない、私にもそれを聞かせたかったのだと思いますし、喜びを分かち合って欲しい。そんな思いで電話してきたのでしょう。喜びは分かち合ってこそ喜びになるのだと思います。

 弟子たちもだから、この山の場面をどんなにか他の弟子たちと喜びを分かち合いたいと願っていたのではないでしょうか。先ほどペトロの手紙を読んで頂きましたが、そこでも、ペトロは「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。「荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉と栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」と記すほどに、ペトロ自身の生涯において忘れがたい出来事として記憶されたことでありましょう。

 けれど、主は山を下りる時に弟子たちに告げました。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」

「今見たこと」という言葉は、私が用いている英語の聖書にはビジョンという言葉になっていました。通常、ビジョンとは幻と訳される言葉です。けれど、日本語の幻と言う言葉は、辞書で調べますと「実際にないのに、あるように見えるもの、まもなく消えるはかないもの」と出て参ります。英語の辞書でも同じような意味で記されてもいますが、順番としては4番目、5番目の意味で、実際には、見た光景とか、物の見方、考え方としてとらえるのが一般的です。あるいは日本語としてビジョンという言葉を用いるならば、それは、これからの目的とか、展望、将来を見通す力、として用いられるのではないでしょうか。

 すなわち、「今、見たこと」、神のビジョン、神の展望を誰にも話してはならない。少なくとも「人の子が死者の中から復活するまでは」と限定的な命令ですが、しかし、弟子たちにはこの時、主イエスの死と復活の意味を十分には理解出来なかったでしょう、でも、話すことはしなかったと思います。この主からの命令は特別なものであると感じていたのかもしれません。

 なぜ、話してはいけないのか、今、話したとしても多くの人々は信じないからとか、ただ、混乱を招くだけだからとか、敵対する者が更に攻撃を仕掛けて来るからとか色々と考えられると思いますけれど、私は「神の時」があるのだろうと思わされます。

「神の時」、今、受難節の時期を過ごしておりますけれど、今年の主の復活を祝うイースターは4月16日3週間後になります。

 この間のことですが、青森県に三沢市という町があるのですが、三沢基地という基地があることで知られていますけれど、その商店街が計画して3月25日(土)、26日(日)とつまり、昨日、今日ですよ。ハッピー・イースター祭りを行うというのです。このことを知ったフェイスブックというパソコンの仲間がチラシや情報を知らせて来まして、まだ受難節なのに、少し早いんじゃないのかというのです。別に怒っているわけでもなく、町起こしのイベントとして行うのでしょうから、悪いとも思いませんけれど、でもまあ今年の場合は、ちょっとは複雑な思いにならないでもない。なぜかというと、イースターを上手い具合に「人の時」に合わせて使われているようにも思うからです。

  イースターは「神の時」です。主イエスが十字架に付けられ、そして三日の後に復活された、それはきっと神が最も良い「神の時」として下さったということでしょう。復活された主は弟子たちと出会い、そして、更に聖霊降臨の出来事が起こり、弟子たちが聖霊に満たされて、神の福音を語りだしたときに、ペトロもヤコブもヨハネも、私たちはあのヘルモン山で、主イエスが光り輝き、モーセと、エリヤとが現れて、更に天からの声を聞いたのだと語りだしたのだと思いますが、語りだすのもまた時があって、その時、その時がきっと与えられている、そういうビジョンを持つこと、そういう先にこそ、神のビジョンがあると信じて進んでいくこと、それが大切なのだと思います。

  私たちは、時として「人の時」、「自分の時」を優先させたいという思いに駆られます。私が神様に捕らえられて信仰を得ましたのは、20代前半でした。それまで自分はどうやって生きていこうか、どうやって生活していけばいいかと悩み続けながら、池袋の立教大学の裏側に沢山あるのですが、安くてボロイというと叱られるかもしれませんが、貧しい人にリーズナブルな、つまり、私には好都合な、4畳半 風呂なし、共同トイレ、月1万7千円という屋に住みながら、自分は一体これからどう生きたらいいのか、自分で言うのも変かもしれませんが、随分頑張って生きていました。でも、何をしても上手くいかず、学力も、体力も、財力も無い自分を思いながら、ある日、部屋の中で立ち尽くした自分のあの光景を忘れることもありません。

 でも、そのあたかも人生のどん底のような時代に聖書と出会いました。聖書を読みながら、こんな世界があったんだと感じたあの感動も忘れることが出来ません。あの時に、こんな私でも、神様は忘れておられるわけではなく、こんな自分でも神様の愛の中に包まれていて、何も取柄もない自分でも生きていっていいんだよ、そう言われているような気がして、そこから、私自身の人生のビジョンが生き始めたのです。でも、そのビジョンは私の人生でありながら、確かに「神の時」であったと私は思います。

 人は、自分が生きるために、何とかしようとします。なんとかして「人の時」、「自分の時」を手にしたいともがくのです。もがく気持ち、私も経験しましたから良く分かります。何とかしたい、なんとかしなければ、でも、それが「神の時」でなければどうしても前進しないのです。自分も良し、回りも良し、でも、どうしても上手くいかない時もあります。 

 あるいは自分も嫌だな、回りもダメだなと言う時もあるけれど、でも神さまは今だよと、今こそ「神の時」だよと言っておられるそういう時もあるのだとも思います。

  だから私たちはしっかりと「神の時」を見極められるなら良いのになと思うわけですが、でも、なかなか、今だという上昇気流のようなその「神の時」という風に乗れるかどうか、でも、だから乗るために必要なこと、一つは「神の時」とは備えの時でもあるということでしょう。主イエスがこの地上に現われて「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と福音宣教を告げ、そして、イスラエルの各地で、エルサレムで、時には異邦人の土地で、福音を宣べ伝え、神の業を示されました。その一つ一つの出来事は、誠に「神の時」でありながら、「準備の時」でもあったと思います。弟子を集め、自分の十字架を背負って、私に従って来なさいと語られた主の言葉もまた、弟子たちにとっては大切な準備の時でありました。

 備えの時、このような時はいつまで続くのか良く分からないものです。一年なのか、二年なのか、三年なのか、でも、この準備の時が大切だと思います。先日の役員会でも少し話しましたが、今日の礼拝が2016年度最後の礼拝です。来週の礼拝2017年度最初の礼拝、この2017年度をどう私たちは生きていくのか。

 先日、息子のKの卒業式がありまして、一緒に卒業した友達の中に、茨城県の土浦めぐみ教会という教会に通っている友達がいるとことを聞きまして、それがどういう意味かというと、その教会は毎週600人の人が礼拝に集まっているというのです。牧師が5人も、6人もいるというのです。なぜ、そんなに大きな教会なのか、今、色々な方面から情報を集めておりますけれど、少なくとも様々なビジョンを持って歩んできていたことは間違いありません。私たちの教会は、新しい年度をどのようにして宣教活動をしていくのか、私たちもビジョンを持っていきたいと思います。でも、どのようなビジョンを持つのか、その備えをしっかりと進む新しい年度に出来ればと願います。

 勿論、人数だけではないということにも気を付けなければなりません。

  エフェソの信徒への手紙5章15節にこう記されていました。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」私たちは、人の事ばかり考えてしまうと、愚かな者となるかもしれません。賢い者とは、細かく気を配って、時をよく用いる者だとあります。細かく気を配るとは、今を大切にしなさいということでしょう。主イエスは99匹の羊を安全な場所において、迷い出た1匹を探しに出られる方であることを忘れてはならないと思います。

 そして神の時とは、しっかりと備えの時を生きて、よし、この時とばかりに、神の時を漕ぎ出せたとしましょう。漕ぎだしたら順風満帆かというと、決してそうではありません。「準備の時」の次は「試練の時」がやって来きます。大体、その決意や思いが本物であればあるほどに不思議なことに反対がやって来ます。それは違うのではないか、それは間違っているのではないかと反対されてしまう。でも試練を通れば通るほど、人は成長するのです。成長しながらしっかりと乗り越えながら、更に確かな神の時、真の神の時として、「復活の時」が与えられるのだと思います。

 復活の時、あの十字架の死から三日の後に復活された主イエス、それは絶望からの希望、悲しみからの喜びを生きる、復活の望みを私たちは与えられています。

  主イエスが復活されて、弟子たちがすっかり変えられて来たように、私たちもいつでも変わることが出来ると思います。復活の主と出会い、聖霊を受け、しり込みしていた弟子たちが変わっていったように、私たちの信仰がいつも神の時、神のビジョンを信じながら生きられるようにと心から願うものであります。

                                                     お祈りいたしましょう。


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