日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

生きる望み

2017-08-15 09:58:07 | 礼拝説教

【マタイによる福音書9章9~13節】

 今週の木曜日、金曜日はYMCA東山荘にて、子どもたちと一緒に一泊のサマーキャンプに行ってまいります。今年のテーマは「東山荘でイエス様に会おう」というテーマです。山上の説教について学びます。
 
 例年、私は大人の皆さんに対してお話をさせて頂いていますが、今年は小学生3年生、4年生の子どもたちと一緒に過ごすことになりました。子どもたちとどのように過ごすのか、少しばかり不安ではありますが、でも、とても楽しみにしております。
 
そして、何よりも願いはどんなふうに、子どもたちは主イエスと出会ってくれるだろうかそのことばかりを思います。私がキリスト教と触れた最初の体験は、小学生の5年生位ではなかったかと思います。
 
テレビで一つの映画が放映されました。「ブラザーサン、シスタームーン」というタイトルでした。実際のところ、内容についての詳細は覚えておりませんが、はっきりわかりますことは、その映画がアッシジのフランチェスコについての映画であったこと、そしてその映画の挿入歌は45年も前に一度しか聞いていないにも関わらず、私の頭から離れることはありません。
 
そして、その映画がわたしの心に大きな感動を残したことは確かだと思うのです。当時、それが果たしてキリスト教に関係しているということさえわからなかったはずなのに、それでも心に深く残っている。それほどまでに子どもの心は、柔らかく、しなやかに出来ているのだと思います。この時期に聖書を読み、色々な体験を重ねることが出来る。本当に幸いなことだと思います。そして、出来るなら自分の人生のどんなときにも、主イエス・キリストが、共にいて下さるという福音を知るきっかけとなって欲しいと願います。子どもたちにとって、それはどんなにか貴重な時間だと思います。だからこそ、尚、一層、担当されている方々のお働きはどんなに大切でかつ、実際のところ大変であるか、また、皆様にも子どもの教会の働きやサマーキャンプを覚えて祈って頂きたいと思います。

 山上の説教はマタイによる福音書の5章、6章、7章に記されます、今日はその内容に入る余裕はありませんが、8章まで読み進めますと、主イエスは山上の説教を話し終えられ、山を降りて、そして実際に人々に対して、主の福音を宣べ伝え、共に多くの癒しの業をなされた場面となります。重い皮膚病をわずらっている人をいやす、という場面からはじまります。そして百人隊長の僕を癒す。更にはペトロの姑が熱を出して寝込んでいるところにいき、病を治し、夕方になるとそこに多くの人々が押しかけ、癒しを与える。
弟子達と船に乗っていると嵐にあい、弟子達が悲鳴を上げているその横で風と湖をお叱りになると、すっかり凪になり、弟子はあまりのすごさに驚きます。
 次に、悪霊に取り付かれたガダラの人を癒し、9章に入りますと中風の人を癒す場面へと続きます。主イエスの働きは忙しく、休む暇さえ無かったのではないでしょうか。
 
 そのような主イエスの働きは、次第にユダヤの地域一体に広まります。9章の8節では、こう書かれています。「群集はこれを見て、恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」人々はまさに主イエスを通して神を垣間見るような思いになっていたのではないでしょうか。この方こそ、自分達の待ち望むメシア、救い主ではないか。多くの人々が主イエスに従い、主イエスの側から離れなかったのではないでしょうか。

 そして、今日読まれた9章9節からの箇所となりますが、9章9節を読んでみますとこうあります。「イエスはそこをたち、通りすがりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 「イエスはそこをたち」とありますから、新たな福音宣教へと目指し、また別の場所に向かおうとしていた主イエスの目に入ったのは、一人収税所に座っていたマタイでありました。なぜ、主イエスがマタイに目が止まったのか、マタイは、自分が座るべきところに座っていたからです。

 東京女子大学、また東洋英和学院大学の学長をされていた船本弘毅先生の著書に「聖書に聴く『生と死』」という本があります。昨年の教会の「学びと交わりの集い」でキリスト教の死生観について共に学びましたが、その時のテキストとしても紹介させて頂きました。
 
 その著書の中で、船本先生が、この収税所に座っていたマタイについて話をされている箇所があります。多くの人々が、主イエスに従い、主イエスのもとに集まって来ていたにも関わらず、なぜ、マタイは一人座っていたのか、なぜ、マタイは主イエスを見に行こうとしなかったのか。一言で言えば、マタイは既に希望を失っていたのではないかと言うのです。

 内閣府の起こった最近の調査によれば、15歳から39歳までの5000人を対象に行った調査の結果、70万人の若者に「ひきこもり」の傾向があるということが分かったそうです。70万人の若者が日本で半年以上家に引きこもって外に出ようとしないという現実があるのです。と船本先生と記されています。そして、収税所に座っていたマタイも、引きこもっている若者の多くがそうであるように、自分の将来に希望も可能性も見出すことができず、ただ与えられた仕事を形通り行っていたのではないか、というのです。しかもその仕事は、収入は、ある程度あったのかもしれませんが、ローマに払う税金の取り立てをしていたわけですから、同じ仲間のユダヤ人から嫌われ、罪人のように扱われていたものと思われます。そして船本先生は、この姿は、時として私たちの姿ではないかと指摘します。

 話は変わりますが今日の礼拝は、平和聖日礼拝としても守っております。8月6日、今日は広島に原爆が投下された日でもあります。1945年の8月6日、一発の原爆で、10万人以上の方が命を落としました。8月9日の長崎に投下された原爆を合わせると、その当時だけで20万人もの方々が亡くなられています。世界で唯一の被爆国である日本、しかも、今から6年前の東日本大震災での原子力発電所の事故があり、何一つ終息してしないことは皆さんがご存じの通りです。
 昨日テレビで、今世界中に1万5千もの原子爆弾があると話していました。地球を滅ぼすには恐らく10個もあれば十分だと思います。
 それでも、多くの国が核を廃絶することに賛成もしなければ、核爆弾があるから、大きな戦争も起こらないのだとも言っているのだそうです。それなら小さな戦争なら許されるのでしょうか。毎日、世界のどこかの地域で争い事によって、人の命が奪われて行く現実はやむを得ないということなのでしょうか。
 
 私は戦争について、また、現在の国際的な状況について話をすることは得意ではありませんので、これ以上は申し上げませんが、けれど、戦争する、争い事を起こす、いさかい事を起こす、これらの出来事は、「ひきこもり」の現象とは全く別のようであって、しかし、私は根本的には同じではないかと思っています。すなわち諦めているのです。希望を失っているのです。自分の人生のこの先を諦めてしまう時、一方においては、内向的な場合、引きこもりや、不登校、社会的不適応と呼ばれ、社会との関係を築くことを止めようとする、また一方においては、逆に外に向けられた場合、この社会を破壊しようとする、人の命を奪おうとする、壊そうとする力が働くのだと思います。

 そのどちらも、関係を乱暴に絶ち切ろうとする力が働いているように思えてなりません。そして、どちらも場合も、そこ平和も、平安もないと言えるのではないでしょうか。
 
 改めて収税所に一人座っていたマタイの思いはどうであったのか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」とあります。
 船本先生は、座っていると言う言葉を英語で表現して「at his seat」という言葉です、と紹介しました。すなわち、「彼の椅子に」ということです。マタイという人が収税所で彼の椅子に座っているのを見かけて」という意味です。
 マタイがマタイの椅子に座っている。その意味は、誰にも譲れない自分の席、自分の居場所、自分の縄張りを意味して、人は自分の縄張りを奪われたくないし、自分の場所を守ろうとする、すなわち、マタイはこの時、自分の椅子に、ただ人生を諦めて座っていただけでもなく、自分の思い、自分の生き方を変えられない、というより、変えようとしない姿、むしろ、自分の椅子にしがみつくようにして、明け渡すことを拒否するかのようにしていたのではないかと教えて下さいました。

 だからこそ、そのようなマタイを見た、主イエスが声をかけました。「わたしに従いなさい」。マタイは立ち上がってイエスに従いました。聖書はそれだけです。これ以上の説明も、条件も、理由も記してはいません。けれど、主イエスの言葉によって、声によってマタイは立ち上がることが出来、主イエスに従うことが出来、そこから神の恵みの出来事が起こっていくことになります。

 絶望から希望がここに生まれ、生きていこう、そう思えるマタイへと変えられていったということでありましょう。

 けれどなぜマタイは立ち上がることが出来たのか。人生を諦め、希望を無くし、自分の椅子にしがみつくようにして生きていたマタイが、なぜ立ち上がることが出来たのかを考えるとしたら、私は一つしかないと思いうのです。主イエスの顔が希望に満ちていたからではないかと思います。主イエスの声が大きな恵みに満ちていたからではないかと思います。主イエスの振る舞いが大きな祝福に満ちた、本物であったからではないかと思うのです。そこに実体があったからだと思うのです。何よりも、主イエスがマタイと出会おうとされたということです。
そして、マタイに対する主イエスの言葉は、取税人として、罪人として、蔑みに満ちた、そして、いつも聞きなれていた裁きの言葉ではなかったからではないでしょうか。
 人生で大事なことは何か。その人がどんな状況、どんな環境の中にいるとしても、主なる神の福音は、その赦しと愛は、全てのものに勝るという事です。
 自分をどこまでも本当に愛してくれる人がいる。命がけで、いや十字架にかかり肉を裂かれ、血を流してまでも、愛してくれる方がいる。その方の名は、主イエス・キリストです。その方が私達一人一人と出会って下さる。「わたしに従いなさい」と声をかけて下さるのです。この言葉をただ素直に、又、素朴な信仰のうちに自らが受け止める時、私達の人生は、全く新しい人生へと導かれるでしょう。

 今日は大塚平安教会の68年目の創立記念礼拝でもあります。現代は国を挙げて「少子高齢化」が大きな問題であるかのように叫ばれていますが、日本の教会は日本が問題にするよりずっと早くから「少子高齢化」であったとも言われますし、大塚平安教会も決してその例外だとは言えないでしょう。大塚平安教会の草創期から教会を支えて下さっている方々が中々教会に出席できないでいる状況を私たちは知っています。
 
 今日はM姉妹が一生懸命に準備して下さって良いお話をして下さいましたが、この働きもまた、これからの世代の人々に対して、信仰というバトンを渡していこうとする役割だと思います。皆さんの多くが主なる神に対する信仰を得て、喜びを持って、感謝と、希望を持って歩んでこられた、そのバトンを次へ、次の世代へ、次の信仰者へと渡していく、神と出会い、主イエスと出会った喜びを語り継いでいく、そして、あなたも、わたしと同じように神様から赦されている、あなたも、わたしと同じように神様から招かれていると、確かな思いを持って語り継ぐ役割があるのだと思います。

 主は招かれています。いつでも招かれています。その招きの業の一つとして今、これから行われる聖餐式があります。主は全ての人々を招かれます。「わたしに従いなさい」、「わたしに従ってきなさい」その言葉はどこまでも赦しと慈しみと愛の中で語られます。創立69年目に向かって、私たちは多くの方々と共に、主の招きに応えながら、主に従い、また多くの人々を招きながら、神と出会う喜びを伝えながらこの一週間も共に歩んで参りましょう。                            
 お祈りいたします。
コメント   この記事についてブログを書く
« 憐みの器として | トップ | 収穫の主に願う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事