日本キリスト教団 大塚平安教会  

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神の武具とは何か

2018-03-07 18:34:32 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙6章10~20節 】

 昨日の土曜日に、年に二度2月と6月に開催される神奈川教区総会がありまして、私と役員のF姉が出席して参りました。その開会にあたりまして、開会礼拝が執り行われ、上星川教会で牧会されておられる牧野信次先生がその役割を任って下さいました。

 牧野先生についてあまりご存じではない方が多いかと思いますけれど、牧野先生は大学を出られた後、神学校を卒業し、ドイツに留学して帰国されてから、町田市の和光大学の入り口に場所を定められて開拓伝道をされて、現在の鶴川教会を設立されました。

 旧約神学の先生として農村伝道神学校の教員をされたり、また、ほかの学校でも教鞭をとっておられたりしたとは思いますが、基本的には開拓伝道を成功させようと、地道にしかし熱心に働かれ、30年以上に亘り、鶴川教会とそこに集まる一人ひとりと共に礼拝、教会を守っておられました。私も町田におりましたので、大変お世話になりました。

 牧野先生には本当に良く励まされ、きっと私の能力が足りないということをご存じだったと思います。期待も込めて、菊池君はもっと勉強した方が良い、もっと勉強した方が良い(笑)。会うたびに励まされました。その言葉が嫌味でもなんでもなく、励ますというのはこういう態度、こういう言葉なんだなと思いながら感謝しながらお交わりを頂いておりましたので、鶴川教会を辞められると伺った時には驚きました。それでも不思議なご縁で、神奈川教区で、私が大塚平安教会、牧野先生が上星川教会の牧師として、またお話が出来ることを喜んでおりました。

 牧野先生、今80歳となられて、この3月一杯でいよいよ、辞任を決意されたようです。教区総会としては最後のお役として開会礼拝の説教をさせて頂いていますと話されながら、選ばれた聖書個所は旧約聖書の申命記8章1~6節の御言葉です。

 その中の特に8章3節の御言葉を大切にして話されました。開いて頂ける方は旧約聖書の294頁になりますが、その2節から読みますとこうあります。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうか知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまことの着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい、あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。」

申命記は、出エジプトの指導者モーセが40年に亘り、イスラエルの民を導き、いよいよ乳と蜜の流れるカナンの土地を目前にしながら、しかし、自分はここで召され、目的の土地に入ることが出来ないと既に知らされている状態でありながら、だからこそ、イスラエルの人々よ、この神の御言葉を聞きなさいと、イスラエルの人々に切実に語り掛けた、いわばモーセの遺言が語られている箇所なのですが、牧野先生はこの申命記こそ旧約聖書の中心だと思うと話され、そして、特に3節の「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであって」という箇所について話されました。人はパンだけで生きるのではない、神の言葉によってこそ生きるのだと何度も何度も話しておられました。
 
 私は、牧野先生の80年の人生、そして、開拓伝道をされた苦労や、どこまでも優しく語りかけて下さるその人柄を思いますと、なんだか、とても泣けて、泣けて、この開会の礼拝に出席出来ただけで幸せな気分に包まれておりました。

 今、毎週水曜日に行われている夜の祈祷会では、コリントの信徒への手紙を読んでおります。コリント書の10章を読んでおりますが、そこでパウロがコリントの教会の人々に告げている事柄も、コリントの教会の皆さんよ、あの出エジプトの民のようになってはならんと告げている箇所であります。モーセを筆頭に奴隷の地、エジプトから旅立った民は、男性だけで60万人と記されています。けれど、その40年後、出エジプトを果たした人々の中で、生きてカナンの土地に入れたのはわずか二人、ヨシュアとカレブという二人だけが目的の地に生きて入れたのです。
 その他の人々は皆旅の途中で召されて行きます。勿論、40年という年月はそういうものかもしれません。けれど、パウロは、そうなったのは人々が何度も、何度も、主なる神を試すことをしたからだと言うのです。

 モーセがシナイ山に登り、神様から十戒の教えと石の板を渡されていた頃、山の麓では、モーセが予想以上に帰ってこないことから、人々が不安に駆られてモーセの兄のアロンに神様を造ってくれと頼み、アロンは聞き入れて、金の子牛を造って、この金の子牛こそ、私たちの神だと告げ、イスラエルは子牛の回りで歌い、踊り、拝みました。人々はそれを拝むことをしたではないか、コリントの教会の人々よ、そんなことはしてはいけないとパウロは言うのです。

 更にはイスラエルの民が旅の途中、モアブ人の土地に入った際に、モアブの王があまりにもイスラエルの民が多かったが故に、イスラエルを恐れ、モアブの女性をイスラエルの男に近づけさせ、関係を作り、イスラエルの男たちはすっかりモアブの女性のとりこになって、みだらな関係を続け、モアブの神を自分達の神として礼拝するに至ります。そのことを怒った主は、僅か一日の内に、関係をもったイスラエルの男、2万3千人を打倒した出来事もあったではないかと告げます。

 更にイスラエルは、何度も何度も主に不平不満を語る、「私たちはマナばかりですか、ろくな食べ物もないのですか、パンも水もなくて、私たちは死にそうだ」というのです、不平を言えば、不満を言えば、主はきっとおいしい食べ物を出してくれるだろう、そう期待してイスラエルの民は更に不満を言う、その姿にあきれ、怒った主が、イスラエルの民に炎の蛇を出して、その蛇にかまれて多くの死者が出たとあります。

 ですからパウロは、コリントの教会に集う人々に対して、偶像を造ってはならない、みだらな行いをしてはならない、主を試してはならない。パウロが注意深く告げるほどに、コリントの教会に集っている人々は、そのような誘惑に陥っていたものと思われます。

 もう一つ話しますが、毎月第一水曜日は、婦人会でホセア書という箇所を読んでいます。ホセアという預言者が活躍した時代は、紀元前700年代。ダビデ王、ソロモン王と続いたイスラエルの歴史の中でも最も豊かな時代であったと言われる時代の次に、後継者争いが起こり、イスラエルが二つに分かれて、北イスラエルと南ユダという国に別れます。
 ホセアは北イスラエルの唯一の預言者として立てられた人ですが、その時、北イスラエルは実はとても豊かであったと言われています。すなわち、豊作が続き、食べる物に困らず、外交も後には失敗するのですが、まあまあ上手くいっていたのです。けれど、自分達が豊かになればなるほど、不思議なことに主なる神を忘れてしまう。あるいはあの出エジプトの、民を導いた神より、農耕の神こそ、自分達の神として喜んでいる。
そのような時代にホセアが預言者として立てられて「主に立ち返れ」と告げる役割を担わされるのです。預言者というのはいつでも嫌な役割だと思います。

 今日は、旧約聖書の様々な箇所を取り上げましたけれど、ここで私が何を告げたいのか、人はパンを食べたいと願うし、自分の目に見える偶像を造り上げたいと思うし、みだらな行いの誘惑には簡単にひっかかってしまうし、神を試したいとも思う、そして、人は自分達が豊かな時代には神さえ忘れてしまうものだということです。

 先ほど、新約聖書エフェソの信徒への手紙の6章を読んで頂きました。エフェソ書は全部で6章しかありません。ですから6章でまとめとなるわけですが、エフェソ書の特徴は獄中書簡と呼ばれていることです。すなわち、6章20節にありますように、この書簡の著者、すなわちパウロ、あるいはパウロの弟子の一人ではないかと学問的には言われていますが、20節にこうあります。「わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈って下さい」とあるようにパウロは、あるいは著者は既にこの時、捕らわれの身であったということです。

 そして、自分の死が目前に迫っていたものと思われます。けれど、自分は獄につながれ、不自由な身でありながら、自由に語り、しかし、エフェソの教会の人々が様々な人間的な弱さを持って、すなわち、とても不自由に生きているあなたがたよ、と、ここでまた申命記のモーセのように、エフェソの信徒に対しても自分の遺言のようにして記しつつ、6章となり、先ほど読んで頂いたように「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と告げるのです。

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」とありますが、その意味は人を相手に戦うというのではないということです。そうではなく、いわば、「悪魔の策略に対抗する」のだと言うのです。その為に、神の武具を、すなわち、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。尚、その上に、信仰を盾として取りなさい。救いを兜として、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。と言うのです。
 
 ある本には、この様子は「神による武装の完全性、全体性を一層強調している」とありました。悪魔との戦いの為には、神による完全武装がどうしても必要だというのです。ここで悪魔とは、誰で、どんな者かという説明は必要ないでしょう。悪魔がいるとして、しかしその悪魔が好むのはこれまで申し上げて来ましたように、神から離れていこうとする力、神など不必要と思わせられる力、自分は、自分だけでもやっていけると思う思い上がり、人のどこまでも限りの無い欲望と豊かさゆえの傲慢。
 
 でも、もっと言うなら、なんといっても、私たちの人生の中に繰り広げられる様々な出来事ですよ。例えば、経済的な困窮、貧乏は本当に辛いものです。そして体の病気、こんなにも健康に留意して気を使っていたのに、なんでと思うこともあるでしょう。あるいは家族の不和、妻が夫が、子どもが、どうしてこんなことになってしまうのかと嘆く、更には善意を持って、この人ならば間違いない、信頼できると思い、保証人になったお陰で、とんでもない借金を負った方の話をクリスマスの頃にも致しましたけれど、自分の人生をあたかも塞いでしまうかのような力。
 
 そのような岩のような壁のような力、なんで、どうして、こんなことになってしまうのかと嘆き、苦しみ、否定的で、マイナスの思いが心に広がっていく、私たちの人生に何度も起こり得ることではないでしょうか。これらの出来事を悪魔の策略と言わなくて、なんと言うのでしょうか。

 それらに打ち勝つためには、13節をもう一度読みますが、「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように神の武具を身に着けなさい」と記されます。ここに三つの言葉があります。一つ、抵抗する、二つ、全てを成し遂げる、三つ、しっかりと立つ。一つ一つ大切だと思いますが、まずは、「よく抵抗する」ということです。抵抗するとは 「逃げない」ということです。
 
 私たちは、この岩が無ければ、この壁が無ければ、この人がいなかったら、あの出来事が無かったらと、なんとかして逃げたいと思います。勿論、逃げることも大切です。イスラエルの男は、モアブの女性の誘いに皆乗ってしまいました。世の中には沢山の誘惑があって、やっぱり美味しいパンを食べたいし、楽しいことをしたいと思う。勿論、それが悪いわけではありません。でも、逃げ切れず、それらを偶像にしてしまう時、罠に陥るかもしれません。だから大切な宝を守るために、必死に逃げることも大切です。逃げることも抵抗だと言えるでしょう。

 でも、逃げてばかりでも、先がないのです。だから逃げない。「まあ、いいか、明日にしよう。」と思う。「まあ、いいか、来週にしよう。」と思う。私たちは明日出来ることは、今日は止めようと思う。私などいつもそう思いながら、締め切りギリギリでいつも仕事するものです。
 
 今日でオリンピックが終わります。男子フィギアで羽生結玄さんが、金メダルを取って、しかも、2大会連続という偉業を成し遂げて、私たちは沢山の感動を頂きました。彼がスケートを始めたきっかけは、喘息であったそうです。本当は、お父さんは野球をやらせたかったそうです。でも外の埃だらけのグランドで、走ったり、投げたりすると、喘息が起こる。だから室内で、誇りやゴミが無いスポーツと考えてフィギアスケートにしたそうです。

 勿論、それでも最初は、すぐに喘息を起こして、人の半分、また、その半分しか練習できなかったそうですが、でも逃げない、逃げないで、練習を重ねて、偉業を成し遂げたわけですから更に、感動するわけですけれど、私たちも、私たち一人一人に与えられている岩、重荷、それらの一つ一つを主イエスが一緒に担って下さるのだから、だから、主が私たちを完全武装して下さるのだから、逃げない。

 主が共にいて下さり、いつも私たちに対して、あなたは「すべてを成し遂げ、しっかりと立つことができるように」と告げておられるのです。この方に信頼して、私たちは今週も過ごして参りましょう。

                                                              お祈りします。
ジャンル:
きいて!きいて!
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