日本キリスト教団 大塚平安教会 

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愛されている子

2017-10-05 14:03:24 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙5章1~5節】
【マタイによる福音書19章13~15節】

「愛されている子」

 エフェソの信徒への手紙を読んで頂きました。5章1節に「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣うものとなりなさい。」とあります。
この御言葉の意味は何かというと、愛されている子どもですからね。神様と私たちは、父と子、また母と子、といった親子関係のようなものですよということでしょう。
 人は誰もが赤ちゃんとして誕生するわけですけれど、幼い時分には自分も親もまるでその心が一つであるかのようにして成長していきます。でもいつの日か、自分と親は違う存在であることに気づき、そしてあんなに立派な親だと思っていたのに、思っていたよりも大したことが無いなと気づいていく頃から思春期と呼ばれ、反抗期とも言われるわけです。中学、高校とひとしきり親に反抗しながら成長していくうちに、やがて、親も大したこと無いと思っていたけれど、でもそんな親の世話になってきた自分に気づいたり、なによりも自分自身も思っていたよりはずっと失敗もするし、嘘もつくし、裏も表もあることに気がついていくあたりで、やっと親と和解することが出来るわけです。
「父ちゃん、母ちゃん、ここまで育ててくれてありがとう」と言えるようになると、親子関係の絆もいよいよ強くなり、その人も社会から一人前と呼ばれるようになっていく。

 ここまでくるために必要なことは何かというと、「自分と親」という関係がしっかりしてくるということです。互いに深い絆だけど、しっかりその人格を認め合い、親には親の人生、自分には自分のというようようなつながり、そのようにしてより強い絆を持つ親子関係のように、神様と私たちの関係も、父と子、母と子のようなものですよと聖書は伝えるのです。

 けれど、そのような父と子、母と子のような宗教観といいますか考え方といいますか、どうも少し私たちになじまない所があるかもしれません。

 昔、岩手の花巻教会におりました時に、隣の町にアメリカ人の宣教師夫妻と仲良くなりまして、そこで親しい交わりをしていただいたのですが、お互いにまだ若くてですね、私たち夫妻にも子供が授かりましたが、彼らも同時期に子供が授かりました。可愛い赤ちゃんが誕生しました。けれど、白人の子どもだからなのか、どうかわかりませんが、お人形のように本当にかわいい赤ちゃんなのですが、私たちから見ると小さいんじゃないかと感じるのです。小さく生んで大きく育てるという言葉もありますけれど、でも、近所の方々がね、また田舎ですからね。その赤ちゃんを見て、あやして下さいながらも、ちょっと小さいね~、おっぱいをちゃんとあげてるの?とか、寒そうだからもう少し重ね着させたほうがいいんじゃないかとか、まあ色々と言ってくるのです。
 日本人同士だと、それも親切心と受け止めてね、先輩色々と教えて下さいとなるのかもしれませんが、けれど、その宣教師のお母さん、泣いて私たちの所に来て、訴えるのです。私はいじめられている。私の子育てが悪いと言われる。なぜいちいち、人の家の子どもの子育てまでいわれなければならないのかと訴えて来たとことがありました。

 これが何を意味しているのかというと、私たちの感情は、先週お話した感情労働という話とも関係するわけですが、何を大切にするかというと、その場、その場の雰囲気なのです。良い言葉ではハーモニーと言います。調和ともいいます。言葉で上手に表現できないけれど、私も、あなたも思いは一緒というそんな文化が私たちの社会の中にあると思います。

 仏教的な考え方からしても、召された方を仏様と言いますが、仏様は御先祖様ですからね、そして、私たちのことをご先祖様が守って下さると思いますし、私たちもいつの日にか子孫からご先祖様と言われる日があると思うと、自分も子孫も先祖もそこに大きな違いを見出さないのです。一遍上人という偉いお坊さんが「唱(とな)うれば、神も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という句を詠んだそうですが、唱うればとは、信仰深くなれば、という意味だそうですが、そうなるともういよいよ、自分も神も仏もその境目がなくなるようだという意味のようです。
 いよいよ、人も神も仏も一緒になってという思いが、私たちも含めて、多くの日本人の心に受け入れやすい、そんな集団主義と呼ばれる文化に私たちは生きているのだとも思います。勿論、そのような文化、考え方が悪いわけでもなく、素敵だとも思います。

 日本語の文化として考えても、日本語の特徴は主語が無いと言われます。ですから英語とか他の国の言語を習う時に、苦労するのは必ず主語を入れなければ文にならない。これがまた大変なのです。思いがけなくも、これから私たちの国は衆議院の選挙となるわけですが、選挙のキャッチフレーズなども「日本を取り戻す」とかね、「日本をリセットする」とかね、誰が何をどうするということではなくイメージだけで伝えようとして、そしてなんとなく伝わってしまうということもあるのでしょう。それが日本語の特徴かもしれません。
 だから私たちが苦手としているのは、私は私、あなたはあなたと分けて考えていくことかもしれません。
 
 人が悩みを持つ時の、多くの悩みは関係にあると言われます。人の悩みの全ては「人間関係」にあるとも言われたりしますが、なぜ、悩むのか、私とあなたとの間に、上手に境目を作れないのです。先ほどの宣教師の話ではありませんが、私の子どもの子育てになぜ、周囲はあ~だ、こ~だ、と言って来るのか。なぜ、自分の領域にまで平気で足を突っ込んでくるのかわからないというように、私とあなたという関係を上手く作っていけない状況が作られやすいのかもしれません。

 関係を上手く作れないのはなぜなのか。聖書は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と告げています。私たちはこの「愛さている」とか「愛している」という言葉を案外苦手としているのかもしれません。もともと、日本語で考えても、「愛している」という言葉ぐらい、会話の中で使わない言葉はないのではないでしょうか。

 概念としてはわかるけれど、じゃ、具体的にはどういうことなのか、年頃の娘がいたとして、門限は9時と決める、ところが9時になっても、10時になっても、11時になっても帰って来なかったら、親の気持ちとしてはどうでしょうか。何か事故にあったんじゃないか、事件にあったんじゃないか、連絡もないとは、どこかに連れていかれたんじゃないかと親は心配することでしょう。ところが、12頃にひょいと帰って来て、「友達と遊んでいた」とか言われると、親としてはなんと声をかけますか。

 殆どの親御さんは、今頃まで何やっていた!門限は9時だと分かっていただろうに~、とカンカンになって叱ってしまうのではないですか。ところが、子どものほうは、申し訳ないと思いながらも、そんなに叱ることはないんじゃないかと反論したくなるのではないでしょうか。だから、最初に言うべきことは、お父さんは、お母さんはどんなにあなたの事を心配して心配して、警察に電話しようかと思う程だったよ、お父さんなんか3回も4回も、駅まで迎えに行って待っていたんだよ、でも無事に帰って来てくれて本当に嬉しい。と告げることではないのかと思うのです。無事で良かった、嬉しいよという喜びの顔で迎え入れられた時にこそ、自分が門限を破ることによってどんなに親を心配させたか、悪いことをしたのかと感じるのではないですか。
 でも、それが中々出来ないのです。あなたのことを「どんなに愛しているか」というメッセージを、そのままを伝えるのが私たちは苦手なところがあって、つまり、どうもよい関係を作れない時があるのです。

 嫁に来てみたら、頼りの夫はお母さんの言いなりだし、仕事だからと夜も遅くにか帰って来ない、お姑さんは口うるさいし、でもね、お姑さんからしたら気が利かない嫁だし、孫の教育もなっていないし、子育て一つ出来ていないし、と思う。良い関係を作れないのです。でも、お嫁さんにしても、お母さんにしても、本当の所は自分を認めて欲しいのです。あなたがいてくれたから良かった。あなたがいるとほんとに安心だと思われたいし、そう言って欲しいのです。でも言ってくれない。なぜでしょうね。

 だって、私はこんなに努力しているのにと思うからではないですか。私はこんなに努力して、夫に、妻に、子どもに、家族に、同僚に、友達に気を使って、配慮して、話す言葉の一つ一つも気を付けながら、こんなに努力しているのに、なぜ、周りはそのことに気が付かないのか、ちょっと位は気が付いて、ありがとうの一言があっても良いのではないかと思うからではないですか。こっちはこんなに頑張っているにも関わらず、あの人は何もわかっていないと思うからではないですか。そして、それにも関わらず究極的には、この状況を自分の努力でなんとかしようと多くの人たちが頑張りながら、頑張って、頑張って、頑張って、疲れていくのです。自分の頑張りがなんと報われないことかと思っている方、結構多いのではないでしょうか。

 皆さん、私たちは自分が頑張ればなんとかなると思うところがあると思います。私もそう思う時がしょっちゅうあります。でもね、人の頑張りではないよ、というメッセージ、それが「あなたがたは神に愛されている子供ですから」という意味ではないでしょうか。
 
 勿論、私たちは頑張って生きています。これだけ人類が頑張って来ましたから、多くの困難を潜り抜け、課題を克服し、産業が発展して、病気や自然災害にも立ち向かって参りました。でも人の頑張りだけですべてが解決するのと思う所に、人間の深い罪があるとも言えるのではないかとも思います。

 今日は、礼拝後、教会の「学びと交わりの集い」を行います。今年は宗教改革500年という記念の年ですから、「今、ルターから学びなおす」というタイトルで共に集いますけれど、500年前のカトリック教会が陥っていた一つの罪、それは「人は頑張れば救われる」という思いだったのではないかと改めて思います。500年前、法律家を目指していたルターでしたが、雷に打たれるという出来事を通して、決心してアウグスティノ修道会に入ります。この修道会は托鉢修道会です。托鉢とは物乞いという意味だとも言われますが、自分の持ち物は一切持たないで、請願を立てて入会するのです。そして、一生懸命に修業するのです。当時のカトリック教会は「人の行い」を大切にしていました。「あなたの最善を尽くせ、そうすれば神が後はやってくださる」と教えていたそうです。ルターはそれこそ最善を尽くしたのでしょう。
「もし、修道士として天国に行ける者がいたとすれば、私は間違いなくその一人であった」とルター自身が何度も語っていたそうです。それほどに最善を尽くしたにも関わらず天国へ行ける確信を持てずにいた、ルターを救った御言葉はローマの信徒への手紙の1章17節の御言葉です。

 「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてある通りです。」

 この「正しい者は信仰によって生きる」という御言葉がルターの目に飛び込んできた時、そうか「正しい者は行いによってではなく、信仰によって」なのだとの確信を得て、そこから宗教改革へと向かうことになっていったと言われます。

 「あなたがたは神に愛されている子供ですから」とは、私たちが頑張って神の子になりたいために、頑張って勉強して、頑張って働いて得たその成果によってではありません。神の徹底的な愛によるのです。神の愛によるとは、続く2節に「キリストが私たちを愛して、ご自身を香のよい供えもの、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、」とありますように、徹底的に主イエス・キリストの十字架と復活の業によるということでしょう。

 主なる神がその命をかけてまでも、御自分が犠牲となって、だから、あなたがたは生きろと、命を与えて下さった、それは私達の頑張りではなく、神の愛です。無条件、無尽蔵の神の愛によって、私たちを神の子として下さったのです。
 ですから大切なことは、自分は自分のこのまま、まるごと無条件で神様は受け入れて下さっているんだな、わたしは神に愛されている子供なんだなと心から理解することです。主イエスは「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と話されたではありませんか。子どもたちとは私たちのことですよ。私も親になって初めてわかったことは、子どもが親を愛していると思っている以上に、親は子どもを愛しているのだということです。そのようにして、私たちが神を思うその思いをはるかに超えて、主なる神が私たちを愛して、私たちを支えて下さっていることを感謝して過ごして参りましょう。

 その愛の形として、今日はこれから聖餐式が行われます。キリスト教の長い歴史を貫いて、守られて来たキリストの体と血として、パンと杯をいただきます。ここに私たちの命があり、神の愛があります。感謝して、この10月も主にあって共に過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。

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