日本キリスト教団 大塚平安教会  

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

わたしを忘れないでください

2019-06-02 18:12:10 | 礼拝説教
【詩編10編1~18節】
【マタイによる福音書5章3節】

 先日、久しぶりに、私の机の奥の方まで掃除をしておりましたら、こういうものが出てまいりました。これは私の母教会である目白の武蔵野教会の青年会からいただいた、クリスマスカードです。この時、私は23歳位だったと思います。当時を偲ばせるのは、全でが手書きでありまして、とにかくクリスマスカードのお誘いの文面です。このカードには切手が貼ってありません。どうしてかというと、教会の青年の1人が、直接私のところに持って来てくれたわけです。

 その時、わたしは目白というよりは、椎名町といって、池袋の繁華街の裏の方にある一月1万7千円の四畳半の部屋で、将来にほとんどなんの希望も無く、刹那的に過ごしていた時期でありました。

 けれど、そんなある時に、これまで一度も読んだことのなかった聖書を一人で読み始め、神様の愛はこんな自分のもとにまで届けられるんだな、神様は、この私のような者に対しても神の愛を示す為に、この世に誕生されて十字架で死なれて、けれど復活の命を示されて、だから何の心配もすることはない、「恐れるな」と語り掛けて下さる言葉に感動して、教会に一度、二度と通い始めていた頃の事でありました。

 その思いを更に、感動をもたらしてくれたのは、その教会の青年会の皆さんの、このクリスマスカード。手書きで書かれていて、一度、二度しか通っていないような、誰からも評価されず、自分で自分のことを嫌いになっていたような私のところまで、歩いて届けに来て下さった。

 自分はまだ見捨てられたわけではない、自分にはまだ言葉をかけてくれる友がいるのだと思う。この感動もまた、生涯忘れることは無いと思います。

 インドで働かれたマザーテレサが「この世で最大の不幸は、戦争や貧困ではなく、「自分は誰からも必要とされていない」と感じることなのです。」という言葉を残しています。それはそういう体験をしたものだけが知る、悲しさではないでしょうか。1人暮らしのおばあちゃんの所に民生委員の人が行ってきいたそうです。「何か足りない物ないかい。困っている物ないかい。」「なんも困ってなんかいないよ。でも、たった一つ、誰か一緒に話しをしてくれる人がいて欲しい」と言ったという話しも聞いたことがありますが、私たちは1人だと思うと、本当に寂しくまた、孤独を感じるのだと思います。

 このいただいたクリスマスカード、どこにいってしまったのか、無くしてしまったと思っていましたが、思いがけなく机の引き出しから出てきた訳でありました。
 
 キリスト教の神は、私たちの一人一人を愛し、一人一人を必要とされ、一人一人を大切にされています。礼拝で牧師は、そう語りますし、また、主イエスこそそのように生きられました。
 
 けれど、一方において、自分のことを思うと、自分は忘れられていないか、自分は大切にされていないか、自分は愛されているのかどうか、そういうことは大変敏感な私たちでありますが、不思議なことですが、自分でなく、人に対してはどうでしょうか。

 先週の水曜日は、私たちの大塚平安教会の出身教職の小林美恵子先生にお出でいただきまして、平日礼拝の説教を担っていただきました。幼稚園のお母さん方も、教会の多くの方々も来られて本当に素敵な時を持ちました。私が司式をさせていただきましたが、いつもの癖のようなもので、ついこっちのイスに座ってしまいまして、なんだか変だと気がついて、慌てて司式者側のイスに移りましたら、前のクスクス笑っておられましたけれど、でも、牧師といいますのは、案外、人の説教を聞く機会がありませんので、ですから本当に良い機会が与えられたと思います。

 美恵子先生のお話を伺っていましたら、ひょいとこう話された。「今の時代は大変な時代です。先日は、スリランカではいくつもの自爆テロが起こったり、また、子どもの虐待が報道されたりしています。」と話された。

 その時、私は思わず、そういえばスリランカの事件、確かにあったなと思ったのです。スリランカは私たちの教会が支援しているシルバさんご家族の母国でもあり、私たちにとっても関係ある国だと思っていますけれど、先月の4月21日の日曜日、イースターの日に、教会や高級ホテルで、つまり多くの人が集まる場所の8カ所で、考えてもいなかった同時多発テロが起こりました。この事件の死傷は250名以上、負傷者は500名以上、2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ以来の最大の死傷者であったそうです。大変に痛ましい出来事でした。

 でも、自分が一番驚いたのは、「そういえば、そういう事件があったな」と心で思ったことでした。

 僅か一か月前の、世界的な大事件です。しかも教会が狙われ、多くの死傷者が出ている。にも関わらず、既に私の頭の中では、他所の国のことになってしまっていて、いつの間にか忘れ去られようとしていたことに改めて自分に驚きました。

 美恵子先生が話されるように「今の時代は大変な時代」だと思います。あまりにも多くの情報が、その殆どは悲しみや怒りを感じさせられるニュースが、しかも毎日伝えられます。つい先日「戦争で取られた島は、戦争で取り返せ」と国会議員が言ったと騒動になっていますが、日本にとってはスリランカの事件より、ずっとそっちの方が大きな事件かもしれないと思わされる程に、テレビやラジオ、パソコンは、まさにそんな情報で溢れています。しかも、大事な情報も、大事でない情報も、そして、それらが入り混じって、私たちは情報の波というより、嵐の中に飲み込まれているかのようにさえ感じます。

 そのような情報に揉まれ、飲み込まれそうになりながら、その中で何が悲しいかというと、自分に関することは決して忘れない、生涯忘れないのに、自分以外の事に関してはどんどん忘れていく自分がいる、自分はなんと薄情で、人を愛せない者であろうか、そう思うのは私だけではないと思います。そして、それが現実であるようにも思います。

 今日は詩編の10編を読んでいただきました。説教のタイトルを「わたしを忘れないでください」としましたが、10編の11節にこうあります。「心に思う 「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。12節も続けて読みますと「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」とあります。

 この詩編10編は、詩編9編に続く詩編として考えられています。9編にも10編にも、始めの所に「アルファベットによる詩」と記されています。旧約聖書全体は、イスラエルの言語であるヘブライ語で記されていますが、詩編も全てヘブライ語で記されていまして、その中で9編と10編は、所謂英語で言えば、A,B,C,Dというように、その詩編の最初綴りが、綺麗に揃って記されているそうです。その表現は残念ながら日本語では感じられません。
 原文で読めたらなどんなに美しい詩編ではないかと思います。

 けれど、内容を読んでみますと、主に感謝を捧げている箇所も多くみられますが、特に10編は、自分たちは主なる神から見放された、神は私たちを忘れてしまった。御顔を隠された、と強く嘆く様子が記され、さらに神に逆らう者の存在がいると示しています。

 それらの内容から、この詩編は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代と深い関わりがあると考えられています。イスラエルの最も苦しい時代、敵国バビロンとの戦争によって、首都エルサレムは陥落し、イスラエル全体は完全に敗北し、イスラエルの主要な人々は捕虜となってバビロンに連行され、そこで凡そ50年過ごすことになります。50年と言えば、完全に一世代です。バビロンで生まれ、バビロンで死んだ人々も多かったでしょう。捕囚の民として連行され、50年後、解放され、生きてイスラエルの土地に戻った者は、どれだけいたでしょうか。 エズラ記という箇所には捕囚から帰還した者が、42,360人と男女の使用人7,337人、と記されてありますが、その多くは第2世代、あるいは第3世代の人々ではなかったでしょうか。

 50年の間、イスラエルは捕虜として、捕囚の民としてなんとか生き永らえました。しかし、その生活は、まさに詩編に記されているように「貧しい人」の生活であったと思います。「貧しい人」と単数で記されていますが、正確には貧しい人々と言えるようです。つまり捕囚の民なのです。このイスラエルの一番辛い時期に、最も厳しい時代の中に生きた人々の、心の支えはまさに自分達の国の歴史を導き、あのアブラハムにあなたの子孫を星の数ほどに、海辺の砂の数ほどにすると約束して下さった主なる神、この方をこそ神とする信仰、それが彼らのアンデンティティでもあり、主なる神こそ自分達の命であり、希望であり続けました。

 しかし、現実は、神は本当におられるのか、神は私たちをお忘れになったのではないか、神は御顔を隠されたままではないのか、どうしてもそう思わざるを得ない状況にあったに違いありません。

 辛さの中で「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げて下さい」と幾度も、幾度も祈ったことでありましょう。そのような祈りの中で、詩編の後半では「主は代々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために 裁きをしてくださいます。この地に住む人は 再び脅かされることがないでしょう。」と決して希望を捨てているわけではなく、主に望みを置いているわけですが、依然として厳しい状況であり、その厳しさについて変わりはないのです。

 人々は神に祈り、祈り、祈り続けたでしょう。そして、50年後に帰還となるわけですが、この出来事が何を意味しているのか。

 水曜礼拝が終わり、小林美恵子先生と、また、多くの皆さんと共に昼食を頂きながら、話をする中で、美恵子先生は牧師としては8年目を過ごしておられて、「菊池先生、牧師は牧師にならなければわからないことがあるって本当に分かりました。」とおっしゃっいました。それが一体何を意図して言われたのかよく分かりませんでしたが、何かに苦労しておられることは良く分かりました。ですから、思わず私は「だから、イエス様は人となられたのだと思いますよ」と答えました。
 主イエス・キリストは、神の子でありながら、人となられた。それは神様のままでは、人の本当の気持ちは分からない、だから、愛する独り子を人の体と人の心を持った人としてこの世に誕生させて、人そのものの苦労、悲しみを神ご自身が体験され、しかも、十字架に架けられるほどの体験をされた。
 自分のことはいつも、いつまでも覚えているとしても、人の苦しみや、悲しみに、寄り添え切れない私たちの悲しみに、その悲しみにさえ本気で寄り添い、本気で分かろうとした神様の愛の形としての十字架であったと思うのです。

子どもが授からなかったアブラハムとサラの悲しみを、忘れることなく25年かけて解放し、バビロンに捕囚されたイスラエルの悲しみを決して忘れることなく50年かけて解放された神は、さらに、人となられて、徹底的に人の悲しみや苦労、勿論、多くの喜びや、癒しや平安を授けてくださりながら、私たちに対して、「決して忘れない方」としてその地上での歩みを歩まれました。

 詩編139編を開きますとこう記されています。「主よ、あなたはわたしを極め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしのはからいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。」この詩編の作者は10編の作者とは違う作者でありましょう。

 けれど、主なる神は、どんな時も、いつも私たちを知っておられると告げておられます。知っておられるとは「愛している」ということです。愛とは何か、それは知っているということです。好きな人が出来たとすれば、その人の何もかもを知りたいと思うように、知ることは愛することと繋がります。
 
 神は、私たちの全てを知っておられる方、人となられ、人々と共に歩み、この自分と、この私と同じ思いとなられて、あなたをけっして忘れない、そう告げて下さいます。だから、私たちは安心して、感謝をもって、主の愛に守られながら過ごして参りましょう。



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