日本キリスト教団 大塚平安教会 

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見よ、神の小羊

2022-05-29 16:02:05 | 礼拝説教
【イザヤ書11章1~5節】
【ヨハネによる福音書1章35~51節】


 私達キリスト者にとって願うところの一つは、疑り深いトマスではありませんが、一生に一度、いつかの時に、本当に神様と出会えたなら、と思うところがあるのではないでしょうか。
皆さんの中には、自分は本当に出会ったという経験をお持ちの方がいるかもしれません。神様の声を聞いたという方がおられるかもしれません。神との出会いの経験を通して信仰生活が始まったという方、私は案外多いかもしれないと思います。でも、神様と出会ったという経験は流石に無いけれど、あの日、あの時信仰を持つ人との出会いが、それが一つのきっかけであったという方はものすごく多いと思います。

 前におりました町田の教会の私の前任の牧師は、本が大好きで、とにかく本を読まれる先生でした。朝起きてから晩に寝るまで、本を読み続けるような方で、私と同い年の位の息子も、今関西で牧師をしておられますが、その息子が小学生の時に、学校で聞かれた、お父さんはどんな仕事をしていますか、息子は考えて「本を読んで印をつける仕事です」と答えたそうです。それほどに本好きであったという逸話が残っています。

 本を読んでキリスト教を知り、キリスト教に親しむ、私自身の経験からしても、誰かからキリスト教を教わったというより、書店で聖書を購入して一人でずっと読み続けていた若い時期がありました。キリスト教作家で知られる三浦綾子さんの本をひたすら読み続けた頃もありました。その頃、まだ教会にも通うこともしていませんでしたが、なんとなく頭だけで、自分は分かったつもりとなっていたようにも思います。日本社会にあっては、教会には行かないけれど、自分は知識として、分かっていると思っている方は多いかもしれません。

 勿論、それが悪いわけでもありません。本を読み、知識を深め、自分で思考し、自分自身を高めようとする。学校の勉強をする、受験の備えをする、何かの資格を取ろうとするそのような場合は特にそういった努力も必要でしょう。
でも、キリスト教の信仰を生きるといいますか、信仰生活を送る場合、それだけでは足りないところがあります。何が足りないかというと、出会いです。神との出会い、キリストとの出会い、そして多くの場合、それらの出会いは、主なる神を信じている人との出会い、それらの出会いを通して、真の神と出会うのであろうと思います。
本を読み、勉強をして知識を高め、内省を深める、求められることです。でも、それはいわばモノローグです。独白です。そこから抜け出て神と出会い、神を信じる人と出会う、そのような経験は人の人生を変えることさえします。

 カトリックの司祭で、来住英俊という司祭がいます。兵庫県の灘高を出て東大に入り、日立製作所に入社する。エリート中のエリートであったと思います。28歳の時に、思い立って一人でイタリア旅行に出かけます。暫く旅行して、観光地を巡り歩き、そういう時の時間はあっという間に立つもので帰国が迫ってきた頃に、大きな教会に入ったところ、教会にとって大切なミサをしていたというのです。自分のような観光客も多くいる中で、全く気にする様子もなく、皆が真剣に礼拝に臨んでいる、「ヤラセではなく、本物の姿」に心打たれたそうです。その気持ちのまま帰国し、生身の信仰者と話しをしたくて会社の近くの教会に通うようになり、修道院の集まりに参加するようになり、二年後には洗礼を受けていたそうです。
 神との出会い、それは信仰を持つ者との出会い、信仰を持つ者の言葉との出会い、そのような出会いの経験、モノローグからダイアローグへ、神と対話し、会話する者へと変えられていく時、自分の知識を遥かに超えて、主なる神が自分の人生という旅の伴侶としておられることを知り、礼拝する者となり、真の神の民となっていくのではないでしょうか。

 今日読まれました聖書箇所では、バブテスマのヨハネが、歩いておられる主イエスの姿を見つめて、「見よ、神の小羊」と告げた場面から始まります。二人の弟子はその言葉を聞いてイエスに従いました。二人の弟子の人はアンデレであり、もう一人の名前は聖書に記されていません。前回の礼拝で、ヨハネによる福音書でヨハネとあったら、それはバブテスマのヨハネで、名前が記されていない弟子が登場したら、ほぼ間違いなく福音書を記したヨハネですと申しましたが、この場面の名前が出ていない弟子ですから福音書を描いたヨハネとなります。
この二人がバブテスマのヨハネに促されて、主イエスに従って歩きだした。主イエスは気が付いて二人に声をかけました。「何を求めているのか」、二人は「ラビ」『先生』という意味とありますが、先生はちょっとおかしいかもしれません。「師匠」とか、「師よ」、というニュアンスでしょう。
「どこに泊まっておられるのですか?」と尋ねると「来なさい、そうすれば分かる」この会話になんの意味があるのかと不思議に思う方もいますけれど、二人の弟子は、主イエスに対話を求めたのです。神の福音の御言葉を願ったのです。神とのヤラセではない、本物の時間を過ごしたかったのだと思われます。

「そしてその日は、イエスのもとに泊まった」と記されています。主イエスとの対話をした二人、多くの事を話したと思います。
その場面は想像するしかありませんが、話せば話すほどに、心が解放され、解きほぐされ、これまで味わった事の無い安らぎと喜びを心の中に感じたでしょう。それは、自分達の存在が神によって、丸ごと受け止められるという経験です。
私たちは、それぞれに自分の長所もありますが、それ以上に短所もあり、自分で自分が嫌だなと思うところもあり、自分は正しい、正義だと思いながらも、しかし、その思いと全く一致しない行動をするものです。使徒パウロはローマの信徒への手紙(7章15節)こう言っています。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」この告白は、そのまま私たちの思いではないですか。あるいは、私たちは自分の内に様々な葛藤や不安を持ち続けているものです。
でも、対話をする中で、主イエスは自分を丸ごと受け止めて下さり、私という人格、自分でさえ手に負えない自分の性格、その全てを包み込んでくだる方であり、自分は主イエスの大きな懐によって包み込まれていると感じたのではないでしょうか。

 自分の「存在」が受け止められ、こんな自分でもそのまま慈しんで下さった。私は神に愛されている。命が与えられ、ここにおいて生きる意味があると知る時、人は本当の意味において神と出会う経験をすると言ってもいいでありましょう。
真の神と出会った、その喜びを知った者はもはや黙ってはおられません。喜びの内に、この方を伝えたくなり立ち上がり、アンデレは兄弟ペトロにそして又、43節からの後半では、フィリポがナタナエルに主イエスを伝えることになるわけです。

 フィリポを通してナタナエルが主とであった場面も大変興味深い箇所です。フィリポもまた、主イエスとの対話を通して、この方こそ救い主メシアであると確信したのでしょう。喜んでナタナエルに主イエスについて話します。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
その言葉に、ナタナエルは当初拒みますが、主のもとに連れて行かれ、主イエスとの出会いとなります。

 主はナタナエルを既に知っておられました。ナタナエルに対して「見なさい、まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と話しかけられました。ナタナエルは驚いて「どうしてわたしを知っているのか」と聞いたら、「わたしはあなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と話されました。
イチジクの木の下、大きな葉を茂らす木の下では、木陰となり、律法の学者が座り、弟子たちがその回りに座り、律法について、神のみ言葉について真剣に学ぶ場所であったと言われます。
あるいはイチジクの木の下とは、平安とか安息を意味するとも言われます。神の言葉に生きる者という意味もあったと言われます。
 
 主イエスは木の下で、熱心に御言葉を学ぶナタナエルの姿をすでに見ていたのです。ナタナエルのまっすぐな、神を求める正直な思い、真実な姿をすでに主は知っていたのです。フィリポに紹介され、主が語った御言葉は「この人はまことのイスラエル人だ。この人に偽りがない」でありました。
 この言葉によって、ナタナエルは主イエスに捕らえられました。ナタナエルが何を語っているのか、どう思っているのか、ではなくナタナエルという人の全存在を受け止めた、見事な言葉であったからなのです。
 ナタナエルは完全に主に捕らえら、出てくる言葉は「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という信仰の告白でありました。
 
 神の小羊としての主イエスは、いつも私たちを見ておられます。主は天の右の座において、私たち一人の全存在を見ておられます。そして、その目はいつも慈しみの目であります。そのような方に守られているから、私たちは平安を得て過ごしていけるのです。

 社会情勢が不安定な中、怒りと不安と暴力が渦巻く中にあって、私たちのこの教会から平安を発信していければと願っています。主に感謝し、与えられ、生かされている命を、全存在を生きて参りましょう。
                           
 お祈り致します。

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