日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

成長し続ける

2018-12-09 15:43:18 | 礼拝説教
【創世記28章13~15節】
【エフェソの信徒への手紙4章7~13節】

「成長し続ける」

 今日は、予てからお知らせしていましたように、子どもの教会ファミリー礼拝との合同礼拝となりました。特に今日は、幼稚園のコール・エンジェルの皆さんに賛美をしていただいて礼拝を守っています。ですから、子どもの教会との合同礼拝だけでもなく、幼稚園の皆さんとの合同礼拝でもあると言えます。日頃、このような礼拝の場に来られない方もおられます。子ども達も沢山います。そのような方々と共に捧げられる礼拝、どんなにかそこに豊かさを見るような思いをしております。

 その礼拝で、新約聖書からエフェソの信徒への手紙4章という箇所が読まれました。今年度、私たちの教会はこのエフェソの信徒への手紙を中心にして礼拝を守っていますが、7節から13節までを読んで頂きました。

 聖書は読んでみて、割合にすぐ「なるほど」と思う箇所もありますが、今日読まれた箇所は読んでみて、すぐに「なるほど」と思う箇所には入らないかもしれません。むしろ、一体何がどう書いているのか、よく分からない、そんな箇所に入るかもしれません。けれど、そういう箇所は、よく分からないながらも、何か鍵になる言葉を探してみると少しずつ分かってくることがあります。

 その鍵となる言葉は一体どこにあるかというと、13節に記されています。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」とあります。その中の「ついには」という言葉があります。この言葉は目標を目指しながら「ついには」そこに至るといった意味の「ついには」です。

 ついには学校に受かった。ついには就職できた。ついには結婚できた。ついには子どもを授かった。ついには孫が与えられた。そのようにして何かの目標のようなものを目指していきていこうと聖書は伝えているのです。

 この2018年という年も、ついには10月となり、あと2か月後にはクリスマスを迎えます。この間新年になったと思っていたら、あっという間に10月も中盤を過ぎて私たちは過ごしています。

 オランダのヘンリー・ナウエンというキリスト教の指導者は、私たちの生活について二つの言葉を用いて説明して下さいました。一つ目の言葉は「目いっぱい」、二つ目の言葉は「満たされない」です。「目いっぱいなのに、満たされない」これが現代を生きる私たちの姿ではないかとナウエン先生は指摘します。

 日常生活の中で、挨拶をする。「こんにちは、お忙しいそうですね。」普段、私たちがよく用いる挨拶です。私も時々週報のスケジュールを見られた方から、「先生はいつも忙しそうですね」と言われます。でも、皆さんが思っているよりはずっと暇です(笑)と答えるようにしていますけれど、私たちはいつのまにか「忙しい」ことに価値があるように感じています。「うちの旦那はいつも暇そうにしているのよ」という言葉は、決して褒め言葉として使われるわけではないでしょう。

 時間にゆとりがあることは良いことだと思いますけれど、なぜかゆとりがあるようには生きられない。まるで何かに追われるようにして生きている。むしろ「忙しい人」はまるで「偉い人」であるかのようにさえ思っているのではないでしょうか。

 ところが、それ程に忙しい生活の日々をすごしながら、もう一方においては「満たされない感」満載です。子どもの事、家族の事、妻の事、夫の事、仕事の事、生活の事、健康の事、お金の事、例を上げたらきりがないほどに、あの事も、このことも気になってしょうがない。だから一生懸命に忙しい生活を過ごす。でもある時に、ふと、「こんなに忙しいのに、何も変わらない」と思ってみたり、「こんなに大変なのに、誰も分かってくれない」と思ってみたりするわけですから、自分自身の心の中に、満たされている感が殆どありません。

 一言でいえば、いつも「思い悩んでいる」と言ってもいいでしょう。

 けれど、そこから何か発展的なものが出てくることも滅多にありません。怒りや、悲しみは良く出てくるかもしれませんが、喜びが出てくることはまれです。

 先週一週間、私は暇でした。(笑)けれど、火曜日は幼稚園の「聖書の会」水曜日は「祈りの会」木曜日は「家庭集会」金曜日は「発展聖書の会」を行いました。その会と会の間にも、幾つかの礼拝とお話をする決まった働きがあります。暇でしたけれど、ちょっと忙しかったかもしれません。でも、先週は、いくつかの会で「喜んでいること」について話をしました。聖書のテサロニケの信徒への手紙という箇所に、「いつも喜んでいなさい」という御言葉があります。

 いつも、喜んでいること。これがとても大切です、と話をさせて頂きました。私たちは忙しさの中で、「目いっぱい」に生きながら、しかも「満たされない」生活をしていますと、いつの間にか「喜ぶこと」を忘れてしまっているかのうように思います。

 発展聖書の会で、いつも喜んでいることですよ、と話しましたら、あるお母さんが質問してきました。「先生、うちの中学の子が、30点のテストを持って来たんですよ。それでも喜ぶんですか。」「あら~、30点なんて、次は40点、50点、お母さん楽しみだわ~」と言ってあげたらどうですかと言いましたら(笑)爆笑していましたが、笑い終わった後に、「無理」と言っていました。(笑)(笑)(笑)

 でもね、大切なことは「喜んでいること」しかも、聖書には「いつも喜んでいなさい」とあるのです。いつもですよ。「にもかかわらず喜ぶ」ことです。

 こんな状態、にもかかわらず喜んでいなさい。嘘でもいいから、喜んでいること、そこからかならず幸せがやって来ます。幸せという言葉は英語でいえばハッピーです。ハッピーと言う言葉と、同じ語源をもつ言葉で、ハプンと言う言葉があります。このハプンからハプニングと言う言葉が作られるのですが、ハプニングとは思わぬ出来事です。思ってもみなかった出来事、しかも、それが良い出来事であったなら、どうでしょうか。ハッピーになるのです。幸せだなと感じることでしょう。

 でも、大切なことは、そのようにして、幸せな時に喜んで、そうでもない時には喜ばないのではなく、いつも喜んでいること、どんな時にも喜んで生きていくこと、それがとても大切なのです。

 旧約聖書から創世記28章という箇所を読んで頂きました。どういう話しかというと、旧約聖書で鍵となる人物の一人はなんといってもアブラハムという人です。この人からイスラエルの歴史が始まりました。アブラハムには中々子どもが授かりませんでしたが、アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時に、イサクという子どもを授かります。そのイサクが成長しまして、リベカという女性と結婚をして、この二人には双子が誕生します。エサウとヤコブという二人です。双子ですけど、エサウが先に生まれたので、長男、イサクが後に生まれたので次男となります。

 当時は、父親の財産は長男の権利として引き継ぐことになっていましたから、長男はやっぱり特別です。ですからヤコブは双子ですけど、財産とは祝福ですからその祝福を受けることは出来ません。それが悔しくて仕方がない。そんなヤコブの思いに、母親のリベカが加担して、目が良く見えなくなっていた父親をだまして、私がエサウです、わたしを祝福して下さいと願ったところ、父親のイサクは騙されて、次男のヤコブを祝福してしまうのです。

 それを後から知ったエサウはもう激怒します。自分が貰うはずの祝福を貰えない。弟のヤコブが上手いことやりやがって、父が死んだら、その時にはヤコブを殺してしまおうと計画を練っていました。

 その計画を知ったヤコブは恐ろしくなって家にいられなくなり、失意の中で家を出ることになります。母親の実家に身を寄せることになるのですが、その旅の途中の、ある場所に来た時に、夜になって野宿をした、石を枕にして眠りました。そして夢を見ました。しかし、その夢の中に主なる神様が現れたのです。

 神はヤコブに話しかけました。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、父イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない。」そう告げるのです。

 この時、ヤコブは自分の策略が上手くって一瞬ハッピーだったけれど、それが裏目に出て、しかも命を狙われ、家を出なければならない、一人寂しく野宿の生活を強いられ、全くハッピーではない、失意のどん底にいたのです。

 けれど、そのようなヤコブに対して、「見よわたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは決してあなたを見捨てない」と神様は告げられた。

 地上のあなたの生活や、生き様がどうであろうとも、ヤコブよ、私はあなたから決して離れることはなく、いつもあなたと共にいて、けっしてあなたを見捨てることはない。この言葉に励まれて、自分は神と繋がっていることを喜んで、いつも喜んで、いつも力を得て、ヤコブは旅をつづけ、後には実際に、多くの子孫を得て、ヤコブからイスラエルの歴史が本格的に始まったとも言えるようになるのです。

 さきほど、話の冒頭で、「ついには」この言葉が鍵ですと申し上げました。ついにはどうなるのか、私たちの人生の中にあって、生活の一コマ一コマの中で、ヤコブの人生に起こった出来事のようにして、時には幸せなことも、時にはそうでもないことも、目いっぱいと思う時も、満たされないと感じるときも、どんな時も、「ついには」、エフェソの信徒への手紙4章13節をもう一度読みますけれど、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストのみちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

 ついには、わたしたちは皆、神の豊かさの中で、いよいよ成熟し、そして成長していくのです。
 
 子どもたちは、一日ごとに、一月ごとに、一年ごとにたしかな成長を私たちに見せてくれるでしょう。大人である私たちは体の成長は既に成熟したものとなっていますけれど、でも、心の成長は何歳になっても止まることはありません。四十歳、五十歳、木十歳、七十歳、八十歳、九十歳、百歳といつもまでも神にあって、私たちは日々成長しつづける、そして、ついには確かな神の国に至るまで、確かな、そして豊かな人生を歩み続けることが出来る。そのような神の恵みに守られて、それぞれに与えられている歩みを、しっかりと生きて参りましょう。

 お祈りしましょう。

コメント   この記事についてブログを書く
« 聖なる公同の教会 | トップ | 信仰を持つ者の歩み »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事