日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の門の前に立つ喜び

2021-08-30 10:11:21 | 礼拝説教
2021年8月29日(日)

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編122編1~9節 
     ヨハネの手紙三 1~8節

説教題 「神の門の前に立つ喜び」

説 教  菊池丈博牧師


神の門の前に立つ喜び



以下 原稿になります。


 新型コロナウィルス感染拡大という状況を受けて、私達の礼拝はこれまで短縮した、極めてシンプルな形にした礼拝を守って参りました。けれど、今、神奈川県にも緊急事態宣言が出され、少なくとも9月12日までは続くと思われますがその期間、礼拝は休まないと決めましたけれど、同時に会衆皆で讃美歌を歌わず、奏楽者の演奏を聞くこととしました。
 
 もともと讃美歌は、神様の恵みに対する私達の応答として礼拝に組み込まれるものです。礼拝の区切りとして讃美歌を入れているわけではなく、最初に神の招きの詞、招詞があり、その招きの応答として讃美歌が歌われます。聖書朗読があり、その応答として讃美歌が歌われます。説教の後に、その応答として讃美歌が歌われます。人間の側の応答の役割を担うのが讃美歌です。それを十分に讃美出来ない状況は、まさに緊急事態であろうと思います。

 とはいえ、歌わないから応答をしないわけでもありません。子ども讃美歌の10番に「ことりたちは」という讃美歌がありますが、その歌詞に「歌の声は小さくても、よろこびなさる 神様」とありました。この歌詞に、私はとても慰めを受けます。私たちは十分に声を出せなくとも私達の心はあなたを慕い、あなたを求め、あなたに感謝している、神よ、その思いを喜んでください。いや、既に神様は喜んでおられるはずだ、そう思えると心がスッと楽になります。ですから、奏楽者の演奏に私たちは心を載せて祈りを込めて過ごしていきましょう。

 礼拝がシンプルになる、シンプルが悪いとは言い切れませんけれど、そうせざるを得ない理由がコロナウィルス感染拡大ですから決して良いわけではありません。仮に、この礼拝がもっとシンプルになり、一つだけ残るとしたら、何が残るだろうかと言えば、疑う余地なく聖書朗読です。聖書に記される神の御言葉が読まれる所としてこの礼拝堂はあります。御言葉が読まれ、祈りが献げられるのであれば、それだけでも、私は礼拝が成り立つと思います。
と同時に残るのは奉献です。聖書が記される前の時代、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブの時代の礼拝は、人がは外に出て石を築き、祭壇を造り、祈って献げものを献げました。一方的で、圧倒的で、無尽蔵な神の恵みに対して、人間が出来る最大限の応答として神に対する献げ物として奉献があります。
 
 なら、説教はどうか、案外しぶとく残るかもしれません。説教は特に宗教改革後のプロテスタント教会が大切にしてきた歴史があります。自分達の国の言葉で、聞く会衆がわかる言葉で福音が告げられる礼拝を献げよう。それがプロテスタント教会の始まりでもあります。以来説教を特にプロテスタント教会は大切にしてきた歴史があります。

 本来、説教はユダヤ教の礼拝においても大切にされてきたことは間違いありません。主イエスが会堂にお入りになって、御言葉が記された巻物を受け取り、それを朗読し、その後会衆に対して神の御言葉について話をされた箇所が聖書にもあります。そのように御言葉の取り次ぎは行われていました。御言葉に不足があるわけでもなく、欠けを補うわけでもありません。でも、聞く一人一人に祝福が告げられるように、御言葉の取り次ぎが行われるのです。
 
 先日、ある本を読んでいましたら、説教について興味深い話が記されていました。

 キリスト教はその最初の時代から長く迫害を受けて来ましたが、それでも神の福音を信じる者が途絶えることはありませんでした。その迫害は紀元320頃まで続きます。 しかしその頃に、迫害は急に終わりを迎えます。時のローマの皇帝 コンスタンティヌスがキリスト教を公認して、その後に続く皇帝は、ついにキリスト教を国教にしました。これまで迫害していた人々でさえ、教会へと向かい、堂々とした礼拝堂が幾つも建てられ、優れた礼拝が執り行われるようになった。その優れていると言われる礼拝には人気がある説教者がいたそうです。人々は御言葉の取り次ぎの言葉に、ヤンヤと拍手、喝采し、手を打ち、足を踏んで喜んで聞いていたそうです。けれど、一方において人気のない説教者のところには中々人が集まらないのです。
 
 なぜ人気がないのか、説教が下手であったと言えるかもしれません。説明が不足していたのかもしれません。けれどまた、聞く会衆にとって、出来れば聞きたくないと思える説教をしたのかもしれません。あのバブテスマのヨハネのように、人々に悔い改めを迫り、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と迫る説教は、聞く人々にとって心地よいものではありません。人間が聞いて、優れていると思える説教は果たして本当に優れているのでしょうか。
 少なくとも神の御言葉を取り次ぐものにとって、人から人気が出るという誘惑に打ち勝たなければならなかったことは確実だと思います。

 神の福音を宣べ伝えるためには、時にはこの世の感覚と対立する御言葉を告げなければならないでしょう。争いや大きな悲惨、悲しみの中にあって、神の福音と喜びを告げなければならないかもしれません。そう思うと説教者は、孤独に耐える覚悟も必要であるかもしれません。しかし、それにも増して、説教者は神の宮に集う人々が励ましを受け、喜びを受け止め、聖霊の御力に満たされる礼拝へと導く必要があろうと思います。
 
 今日は詩編122編を読みました。都に上る歌、巡礼の歌として記されている詩編122編、その1節、2節を読みますとこうあります。「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。エルサレムよ、あなたの城門の中に、私達の足は立っている。」とあります。
 
 希望を持ちつつ、巡礼の旅をした人々が、ついにエルサレムの城門の中に立っているのです。幾日も、何度も心に思い、夢にまで見たエルサレムの町の門に立っているのです。ついに到着した、その喜びは何ものにも代えがたいものであったでしょう。
 
 神学生の時に、私に礼拝を教えて下さった今橋朗先生は、会衆の礼拝は、家を出た時から既に始まっていることを忘れないようにと教えてくださいました。時として、牧師館は会堂と同じ建物であったり、棟続きだったりします。そうすると牧師は大雨の日でも、風の日でも、雪の日でも、外に出ることなく、濡れることもなく、礼拝の準備を行えます。そしてそれがいつの間にか当たり前になるのです。
 けれど、礼拝に集われる皆さんは、どんな日であろうと、家を出て礼拝会堂へと向かう、主の家に行こう思い、まっすぐに進んでこられます。毎週が小さな巡礼だと言えるかもしれません。そのようにして、教会が守られていることを牧師は忘れてはならないと教えられました。確かなことだと思います。

 なぜ、教会へと向かうのか、主なる神こそが私達の魂の牧会者だからです。ヨハネの手紙、三と言う箇所を読みました。長老職であったヨハネが、ガイオと呼ばれる人に対して手紙でもって文書を記しています。ガイオがどこの誰なのか、良く分かっていません。けれど、長老ヨハネが信頼を置いていた人であり、恐らく異邦人教会の霊的な指導者であったと思われます。
 
 2節に「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」と記されています。ガイオはもしかしたら健康面に不安があったかもしれないとも考えられますけれど、それにも増して「あなたの魂が恵まれている」とあるように、主にあって魂が健やかな人であったのでしょう。 
 
 ガイオは、神を思い、主イエスにあって魂が恵まれていました。そのような人が教会にいる。それはどんなにか幸いだと思います。
 
 私たちは魂の健やかさを求めて、教会に集いつつ、その救いを誰かに人にもとめていないでしょうか。あの人なら私の話を聞いてくれると思いながら来ているとしたら、魂の牧会者である神を見失うかもしれません。神に祈り、神を求め、神を賛美することです。神様、私の思いを分かって下さるのは主なる神よ、あなたのみです。それが神の門に立てる者の姿であろうと思います。だから、そこに喜びが現れてくるのでしょう。

 主なる神よ、あなたにわたしたちは礼拝を献げます。この人間の僅かな営みでしかない礼拝を主よあなたが喜んでくださることこそが、私の喜びです。告白しながら、過ごして行きましょう。

 お祈りします。


 
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