日本キリスト教団 大塚平安教会 

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主を畏れる人として

2022-03-06 12:25:28 | 礼拝説教
【詩編147編1~11節】
【ルカによる福音書7章1~10節】

 イタリアのミラノに長くヨーロッパの日本人キリスト者のために宣教師として派遣され働かれている内村伸之牧師がおります。内村先生は車に乗って、電車に乗って、ヨーロッパ中を駆け巡りながら宣教活動をされておられる、私がとても尊敬している方です。
 先日、内村先生がネットで説教をされたビデオを見る機会が与えられました。主の祈りについて話しておられました。

 私たちの教会では、開会讃美の後に主の祈りを献げます。「天にまします我らの父よ、願わくは御名が崇められますように、御国が来ますように」と祈ります。この祈りは特別な祈りで、弟子の一人が主イエスに祈り方を教えて下さいと願った時このように祈りなさいと教えてくださった祈りだからです。主イエスの心の思いに添った祈りであるからです。大切な祈りです。
 
 けれど、どこかで主の祈りを理解しきれないというか、自分の思う祈り、自分が願う祈りと合致してこないように感じているのではないかと話された。
 なぜそうなのか、内村先生はこう話されました。「主の祈りは、自由が大好きで、自己中心的な私たちからは決して自然に出てこない祈りで、私の願いから出る祈りではなく、イエス・キリストの心から出ている祈りだからです。」私はこの言葉に心動かされました。主の祈りは、イエス・キリストの心から出ている祈り、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と祈り続けることだと主が教えられている。その意味は深く、計り知れないと思います。

 今日の9時から行われたファミリー礼拝で読まれた聖書箇所はマルコによる福音書1章14節です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」この箇所が読まれました。
主イエスが福音宣教するにあたり、その初めから一貫しているのは、「神の国」の訪れです。「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ。」それは、天の国の栄光、天の国の平和が、この地上にも与えられますように」という祈り、願いでもあります。
 
 私たちは既に2年以上に亘り、コロナ禍、世界中でパンデミックと呼ばれる時を過ごしています。世界が大混乱に陥り、感染によって多くの人々が命を奪われましたし、今もそれが続いています。少し極端かもしれませんが人類存亡の危機に瀕しているとも言えるでしょう。こんなことが起こるとはと信じられない状況を過ごしています。けれど、あえて良かったと思える点があるとすれば、このコロナ禍にあって、私たちは私たちの政治的、経済的、思想的主張を越えて、民族や国家を越えてコロナに立ち向かわなければならないということを学んだと思います。コロナ禍が終息するには、まだ暫くの間、時間が必要でしょう。けれど必ずどの国の人々も、手と手を取り合って良かったねと、大変だったねと、笑顔で笑い合える、そういう日がやってくると希望をもって医療も、政治も、社会経済もそのような出口に向かって進んでいたはずです。
このことを通しても「神の国は近づいた」と言われる主イエスの御言葉に近づくことが出来るのではないかと希望がありましたし、今もそうであると私は信じます。

 けれど、皆さんがご存知のように、世界は一変しました。「御国を来たらさせたまえ」という祈りは主イエスが教えて下さった祈りであると同時に、神を神とし、救い主として受け入れ、神を崇める者の祈りです。自らを神のように振舞い、人の命の生殺与奪(せいさつよだつ)の権利があるとさえ思っているであろう、人を殺し自分の好む国、神を神としない国を作り上げようとする支配者によってこの世界は変えられました。
詩編147編10節、11節にはこうあります。「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人」

 馬の勇ましさとは、人が造り上げた人を殺す為、社会を破壊する為の武器や兵器であり、人の足の速さとは、自らを誇り、自らを王とするための謀を巡らす様子と考えても良いでしょう。けれど、主が望まれるのはそのような姿ではありません。
主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人、御国の訪れを待ち望み、神を神として生きていく人々の姿です。

 数年前に私は横浜にある「横浜ハリストス正教会」を訪ねたことがありました。一般にはロシア正教と呼ばれる教会です。そこでロシア正教について少し話を伺いました。1800年代半ば、江戸から明治となり、アメリカを中心した欧米の宣教師が日本にやって来て、キリスト教、特にプロテスタント教会の歴史がスタートするわけですが、ロシア正教も1800年代後半には日本に宣教師を送り宣教活動を開始します。特にニコライ宣教師の名前は私たちもよく知るところです。お茶の水のニコライ堂も有名です。
けれど、欧米の宣教師の働きと違って、ロシアからの宣教活動は1900年代となって暫くして殆ど止まることになります。その理由は1900年代初頭のロシア革命にあったと伺いました。
 ロシア革命によりロシアというより、ソビエトの教会は弾圧され、人々は神への信仰を捨てるように、共産主義を受け入れるようにと迫られました。先ほどの内村先生は、その当時特にウクライナの信仰者に対する迫害は強かったと告げていました。ウクライナ人は、自分達の信仰を大切にして、強い抵抗を示したからでしょう。それ故にソビエト崩壊により、一いち早く独立したのはウクライナであったとも告げていました。

 主イエスが宣べ伝えた「神の国」とこの世の支配者が作ろうとする国の間には常に戦いがあります。この世の支配者は、時には弾圧でもって、時には迫害をもって、時には武器を持って支配者の思いに従わない者の命を取りにやって来ることがあるからです。私たちは、今、それはいつでも本当に起り得るのだと改めて思わされています。だから教会もこの世に対して立ち上がらなければならない時があるかもしれません。
 しかし、私たちは「主を畏れる人」として、主の慈しみを待ち望む人」として生きること、それが私たちの立ち上がり方であろうと思います。

 先ほど、ルカによる福音書7章からを読んでいただきました。「百人隊長の僕をいやす」という箇所です。百人隊長はイスラエルが敵対するローマの兵隊です。百人の兵隊の長、責任を持つ者です。その彼が主イエスのもとにやって来て、病気で死にそうになっている部下を助けてくださるようにと願った話です。この人はローマの兵隊でありながらも、ユダヤ人を助け、ユダヤ人を愛し、ユダヤの礼拝堂建設にも深く関わった人であることも紹介されています。主イエスは彼の願いを受け入れ、部下のもとへ向かったところ、百人隊長は私のような者のところに来るまでには及びません。ひと言おっしゃってくださるだけで僕は治るでしょうと使いを出しました。
主はその言葉に驚きイスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と話し、使いが帰ってみると部下は元気になっていました。
百人隊長は特にユダヤ人に対して親切であったから、主は部下を癒された訳ではないでしょう。百人隊長は主イエスに願ったのです。主イエスならこの困難を乗り越えさせてくださると信じたのです。主イエスならこの悲しみから解放してくださると信じたのです。

 これから、この戦争がどうなっていくのか、実際のところ「御国が来ますように」と祈るしかありません。けれど、今回の戦争でよりはっきり理解したことは、命を取り合う戦争は全ての人が悲しみ、涙するしかないということです。ウクライナは勿論、ロシアの兵隊も、ロシアの国民も、ヨーロッパも、アメリカも、私たちの国も、全ての国が悲しみ、大人も、子どもも涙しています。

 神の御国は、自らを神とする支配者の力によっては絶対に完成しないし、人の造り上げる武器や、人の力や、人の計画によっても完成はしません。神の御国は、この方ならと願い、この方ならと信じることが出来る御子イエスの働きによってこそ完成させられるものでありましょう。
私たちはこの方に希望をつないでいきたいと願います。主を畏れつつ、あなたの御国が来ますようにと祈り、求めながら全ての人々が平和に包まれるように祈り続けて参りましょう。 お祈りします。

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