日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

誰に頼るのか

2022-02-27 15:43:45 | 礼拝説教
【詩編146編1~10節】  
【ルカによる福音書21章1~4節】

 岩手の教会におりました時、県の北、青森県にほど近い二戸という場所がありまして、奥中山教会という教会に神学校の先輩でもあるM先生がおられました。M先生は御自分のライフワークとして、チェルノブイリ原発事故によって体の具合を崩している子どもたちを日本に招いて、元気にさせるという働きをされていました。
 それは先生ご夫妻の娘さんが、若くして白血病で亡くされ、その悲しみを悲しみだけとせず、このことをも通して自分達がなせる業は何かを模索した結果であると伺い、感動したことを思います。私自身は、具体的には僅かな関わりしか出来ませんでしたけれど、良い働きをされていると感動をもって三好先生の心の優しさとその歩みを受け止めていました。
 
 そのチェルノブイリ原発事故という悲劇が起こったウクライナで、先週水曜日にロシアが宣戦布告し、突然に国境を越えて侵攻し、戦禍となり国全体を制圧する勢いで迫っていることが連日報道されています。
 西側と呼ばれる日本を含む欧米諸国は揃ってロシアに対して強い非難声明と制裁内容とを発表していますが、泥沼の戦闘状態にならないようにということでしょうか。軍や兵士を派遣することはなく、状況を見守っています。
 
 ウクライナには、私が調べたところですから正確かどうかわかりませんが、現在でも少なくとも原子力発電所が四つあります。そのような発電所がある国で、何度も空爆、砲撃がなされる、もしそれに西側が反撃し始めて、間違って原子力発電所を爆破したとなれば、地球規模で被害は広がることでしょう。そのような状況にならないようにと考えてのことかもしれません。しかし、既に多くの人々の命と生活と安全は戦いの中で奪われ、流血と惨劇とが繰り返されています。

「なんでこんなことに」とテレビ報道を見る度に、家内は呻いていましたけれど、私も全くそう思います。唇を噛みしめる思いで報道を見ておりました。早く事態が収拾されますようにと祈るしかありません。
 
 そのような驚くべき出来事、動揺する思いの中で、終末を過ごし、詩編146編を読むことになりました。詩編146編は、主なる神を信頼し、神を讃える詩編です。特徴の一つはハレルヤで始まり、ハレルヤで締めくくられる。「ハレル」は「賛美せよ」、「ヤ」は主なる神を意味しています。主を賛美せよ、です。「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌を歌おう。」と自らの信仰、神に対する信頼から始まる伸びやかな讃美の御言葉です。

 けれど目に留まるのは、続く3節です。「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」とあります。君侯とは口語訳聖書では「もろもろの君」、新改訳聖書では「君主たち」とありました。この箇所は新改訳聖書が一番分かりやすいかもしれません。

 この詩編の作者は、イスラエルのバビロンの捕囚の時代、また、捕囚から解放されてエルサレムに帰還した人か、その出来事を良く知っていた人であろうと考えられます。

 「歴史は繰り返す」という言葉ありますが、紀元前6世紀に、イスラエルは世界の大国であったバビロンと戦い、多くの血が流されてイスラエルは滅び、捕囚の民となりました。しかし、そのバビロンも、更に勢力を伸ばしてきたペルシャとの戦いによって破れ、自分達は帰ることが出来た。そのような出来事を、身を持って体験したわけですから力を持った君侯、君主たちでさえ、時代と共に移り変わる。移り変わるものに依り頼んではならないと告げているのであろうと思います。

 現代の諸国の君主たちはどうでしょうか。ロシアの大統領は、戦争をするしか方法はなかった正当化していました。悪いのは自分ではないと主張していました。なら、アメリカが悪いのでしょうか。西欧諸国が悪いのでしょうか。日本にも責任があるのでしょうか。武器を持って人の血を流し、人の文明、文化、歴史を破壊する。破壊する側が、それは正しいと判断するのはなぜなのでしょうか。非難と批判の応酬の中で、誰一人として自分が悪かったとか、力が足りなかったと言わないのはなぜなのでしょうか。「自分は分かっていると」思っているからでしょうか。「自分には知恵がある」と誇っているからではないでしょうか。

 エレミヤ書9章にこう記されています。「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。」

 「人間には救う力はない」と詩編に記されている通りだと思います。人は完全でもないし、むしろ足りない所だらけです。私などはその最たるものだと自分でも思います。ましてや、私たちの地上の命、地上の生涯には限りがあります。限りがある者同士が、罪に生きる者同士が、神に対して負債があり、借金のある者同士が互いに人を救うことはできません。

 だからこそ、私たちの命の造り主である主なる神に依り頼む、それはなんと幸いなことかと詩編の作者は記します。「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人 天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」

 新約聖書からルカによる福音書21章を読んでいただきました。「やもめの献金」というタイトルが付けられた短い箇所です。

 主イエスは自ら十字架刑に処せられることを知りながらロバの子に乗ってエルサレムに入城します。受難週の初めの日です。イースターの一週間前ですから、今年は4月10日となります。エルサレムに入られて神殿に行かれた時、何をされたかというと、神殿の境内で商売をしていた人々を追い出し始めました。両替商の台や鳩売りの腰かけをひっくり返してしまった。
 そして言われました「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところがあなたがたはそれを強盗の巣にした」その様子に祭司長、律法学者、民の指導者たちは、怒ってイエスを殺そうと謀りますが、民衆が主イエスの話に夢中になっていたので、手だし出来ませんでした。

 けれど、なぜ主イエスがそのようにむしろ乱暴と思える程のことをされたのか。主イエスはそこに祈りを見いだせなかったのだと思います。神を信じる者の信仰の姿を見いだせなかったのでしょう。神を愛し、隣人を愛する姿を見つけられなかったのでしょう。宗教的指導者はイエスを殺そうとさえ考えるわけですから、その通りです。それから主は、何度も、何度も祭司長や律法学者や長老たちと論争を繰り返し、ファリサイ派やサドカイ派の人々と問答を行い、彼らは正しい人を装う回し者を遣わしてまで主に論争を仕掛けたりします。主は、その度にどれ程悲しみを覚えたであろうかと思います。

 主イエスが捕らえられる数日前のことです。主が境内に入ってこられた、その時、一人のやもめがレプトン銅貨二枚を入れている姿を見られました。レプトン同銅は貨幣の単位の最も小さな単位です。その銅貨二枚を入れた。けれど、その時、主イエスはそこに神に信頼する者の姿、信仰者の光をついに神殿に見つけたのではないでしょうか。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりも沢山入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」と弟子たちに話されました。生活費全部とは、その時に持っていた生活費の全部という意味かもしれません。全財産とは考えなくともよいかもしれません。

 けれど、主はこのやもめの信仰に希望を見いだしたのは確かだと思います。やもめの、神にのみ依り頼む姿に主イエスご自身が力を得たのではないかとさえ思う。

 私たちは、自分が自分がと自分を主張することは得意かもしれません。でも、むしろどれだけ神の前において、神に依り頼み、神に信頼し、神を仰ぎ見ているのか、いつも問われ続けられていると思います。私たちは神にのみ依り頼み、悪魔の策略に対抗し、血を流す武器ではなく、信仰という神の武具を身に着けて、神を愛し、人を愛しつつ、今週も過ごして参りましょう。 

 お祈りします。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神に祈り続ける | トップ | 主を畏れる人として »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事