【イザヤ書9章1~6節】
【ヨハネによる福音書1章1~5節】
先週、長男を車の助手席に乗せて、私が運転していたのですが、突然聞いて来ました。「お父さん、人が死ぬ時でどんな時か分かる」そう聞かれたものですから、ビックリしました。私はびっくりして言葉を失ってしまい。どう答えたら良いのか考えてしまいました。そしたら息子が続けて言いました。「人が死ぬ時は、その人が完全に忘れられた時だよ」その言葉を聞いてちょっと感動しました。でも、お前一体どうした。何かあったのか?と聞きましたら、どうも今読んでいる漫画の中に出て来るセリフのようでした。この場面が気に入っていたようです。どんな漫画なのかは一切わかりません。でもそんな言葉を使っているのかと思うと、漫画も捨てたものではないなと思います。
人が完全に忘れられてしまう時、その時人は死ぬ。色々な事を思います。私の認知症で入院している母親のことを思うと、既に病院に入院して一年以上になりますが、先日、医者から電話が来まして、食事をすることが分からなくなって来ていますと言われました。私たちはお腹が空けばというよりも、健康のためにも規則正しく食事をと願うわけですが、母親は食事をするという認識を忘れてしまっているようです。次第に、あるいは既に自分は自分であるという認識も忘れているかもしれません。母親的には既に死んでいるようなものかもしれません。でも、息子的には母親は生きていますから、これからも大切にしていきたいと願っていますけれど、人が忘れられていく、どのような場面においても大変悲しい状況ではないでしょうか。
今日は新しい年度となって最初の礼拝でありますが、ヨハネによる福音書の1章の、最初を読んでいただきました。この福音書は伝統的には弟子のヨハネが記したと言われています。
ヨハネは、12人の弟子の中で一番若い弟子であったと言われていますし、ペトロやヤコブのように殉教したのではなく、長寿で長生きしたとも言われます。長寿であったヨハネの願いは、同じ時代に地上を生きた主イエスとの出来事、ガリラヤの地域で、ナザレの村で、ガリラヤ湖のほとりで、またエルサレムにおいて、福音を宣べ伝え、人々に愛を告げ知らせた主イエスの姿を忘れてはならない、何よりも十字架の死と復活の出来事を直接に体験した弟子の一人としても、その記憶している一つ一つの出来事を忘れないためであったと思います。
勿論、後の世代の信仰を受け継いでいく人々のためにも、この福音書は記されたでありましょう。
この福音書を記すにあたり、福音書の目的、あるいはテーマの一つとして、主なる神は私たちを決して忘れない方であるということを記したかったのであろうと思います。
「初めに言があった」という書き出しで始まります。この書き出しは旧約聖書の創世記の最初を連想させる記し方です。意図してそのように記したのでしょう。創世記では「初めに神は天地を創造された。」と記されていまます。
この天と地を造られた方こそ、私たちが信じるところの主なる神であり、その神と初めから言が共におられて、しかも言は神であったと続きます。天地創造なる神と共に、初めからおられた言、その言は、主イエス・キリストであるとヨハネは告げたかったのだろうと思います。非常に文学的なセンスのある書き出しです。
全てのものの造り無しなる神と共におられた言、その言の役割はなにかというと、4節からの御言葉になります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
言は命であり、命は光であり、光は暗闇の中で輝いているのです。暗闇とはなんでしょうか。暗闇とは聖書的な意味で申し上げますと私たちが生きている「この世」であると言えるでしょう。
ロシアがウクライナに侵攻して既に一月以上になりました。ニュースで取り上げられる地図を見ますと、ウクライナの東の地域と南の地域は真っ赤になっていてロシアが占領した地域であることがわかります。そもそもなぜ戦争が起こったのか良く分からない、良く分からないにもかかわらず、町は爆撃され、破壊し尽くされているように見えます。今、一言で「町」と申し上げましたが、その町には何万人、何十万人という人々の命と生活と日常があったはずです。明日には戦争が起こるかもなどと、人々の誰もが考えていなかったでしょう。
けれど、状況は悲惨を究め、人の命が取られ、血が流され、涙が流され、町は破壊されています。なぜ、そうなってしまったのか、私はテレビや報道の解説者のようには話は出来ません。でも、ハッキリしているのは、この世はあたかも闇の世だということです。戦争がはびこり、質の悪い感染症が世界を覆い、自然災害が頻繁に起こる時代が今の私たちの時代です。
闇の力は、人と人との絆を分かち、怒りは対立を産みだし、対立は争いを生みだすのです。そのような力が闇の力です。しかし闇の世にあって、主なる神は命を照らす光として、また、暗闇を照らす光として御子イエス・キリストを誕生させられました。
なぜ、誕生させてくださったのか、神は私たちを忘れないからです。誰が誰を忘れようとも、主なる神は私たちを決して忘れないし、誰も見捨てもこともしない、その印として神の光、主イエスはこの闇の世に誕生されました。ヨハネによる福音書1章14節にこう記されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
言が肉となられた方、それが主イエス・キリストです。成長された主イエスは、ナザレを中心として、ガリラヤ地方を巡り、町や村を巡り、12弟子と共に神の福音を宣べ伝えられました。目の見えない人の目を開き、ベトザタの池の病人を癒し、神の恵みを人々に示しました。福音書に記されている通り、神の光としての多くの働きをなさいました。けれど、闇は光を理解しませんでした。
ヨハネによる福音書5章18節を開いてみましょう。(172頁)ベトザタの池の病人を癒された後の出来事です。その日が安息日であったために人々に争いが起こり、そして18節の御言葉です。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」
もう一個所、19章7節(206頁)主イエスが死刑の判決を受ける場面です。「ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
主イエスを死刑にするために、ピラトのもとに連れて来た人々は、この男は死罪に当たると言うのです。神の子と自称したからだと告げています。暗闇は光を理解しなかったのです。
暗闇の一つの頂点は、ユダの裏切りの場面ではないでしょうか。裏切ろうとするユダに対して主はこう話されました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」、「すると、ユダはパン切れを受け取ると、直ぐ出て行った。夜であった。」と記されています。夜であった。それはこの世の暗闇を示す言葉です。
私たちは今日、年度の最初の礼拝でありますけれども、受難節の時期を過ごしています。来週は「棕梠の主日」、受難週となります。御子イエスがこの世の暗闇の力によって捕らえられ、裁判にかけられ、そして十字架刑とされる。それは人の命が奪われ、血が流され、涙が流される時、暗闇の勝利であり、悪魔の勝利であるかのようです。
けれど、「光は暗闇の中で輝き続けました」三日の後に、暗闇から光へと変わる、週の初めの日の朝早く、主イエスは復活されました。弟子たちの間に現れ、多くの人々の前に現れ、光は暗闇に勝利した姿を示されました。それは「初めに言があって、神と共におられて、神そのものであった」方が、どんな時も私たちをけっして忘れないよ、忘れていないよと告げてくださる神の復活の祝福と勝利の印でありました。
人が闇に飲み込まれる時、それは神から離れる時です。神から離れると、人からも離れ、そして、自分の感情のまま、人の命を押しつぶそうとさえするのかもしれません。そのような暗闇があるのだろうと思います。
けれど、だから忘れてならないのは、今、光と暗闇の厳しい対決がある、ということではありません。「光は暗闇の中で輝き、暗闇は光を理解しなかった」のです。それは対決ではありません。圧倒的に「光」が勝利されるのです。それが復活の主イエスの姿でもあります。
この方にこそ、願い、この方にこそ、祈り、命の主なるイエス、光の源なるイエスを見つめて、この方を信じて私たちは歩んで参りましょう。この方から離れずに光の中を進んで参りましょう。
お祈りします。
【ヨハネによる福音書1章1~5節】
先週、長男を車の助手席に乗せて、私が運転していたのですが、突然聞いて来ました。「お父さん、人が死ぬ時でどんな時か分かる」そう聞かれたものですから、ビックリしました。私はびっくりして言葉を失ってしまい。どう答えたら良いのか考えてしまいました。そしたら息子が続けて言いました。「人が死ぬ時は、その人が完全に忘れられた時だよ」その言葉を聞いてちょっと感動しました。でも、お前一体どうした。何かあったのか?と聞きましたら、どうも今読んでいる漫画の中に出て来るセリフのようでした。この場面が気に入っていたようです。どんな漫画なのかは一切わかりません。でもそんな言葉を使っているのかと思うと、漫画も捨てたものではないなと思います。
人が完全に忘れられてしまう時、その時人は死ぬ。色々な事を思います。私の認知症で入院している母親のことを思うと、既に病院に入院して一年以上になりますが、先日、医者から電話が来まして、食事をすることが分からなくなって来ていますと言われました。私たちはお腹が空けばというよりも、健康のためにも規則正しく食事をと願うわけですが、母親は食事をするという認識を忘れてしまっているようです。次第に、あるいは既に自分は自分であるという認識も忘れているかもしれません。母親的には既に死んでいるようなものかもしれません。でも、息子的には母親は生きていますから、これからも大切にしていきたいと願っていますけれど、人が忘れられていく、どのような場面においても大変悲しい状況ではないでしょうか。
今日は新しい年度となって最初の礼拝でありますが、ヨハネによる福音書の1章の、最初を読んでいただきました。この福音書は伝統的には弟子のヨハネが記したと言われています。
ヨハネは、12人の弟子の中で一番若い弟子であったと言われていますし、ペトロやヤコブのように殉教したのではなく、長寿で長生きしたとも言われます。長寿であったヨハネの願いは、同じ時代に地上を生きた主イエスとの出来事、ガリラヤの地域で、ナザレの村で、ガリラヤ湖のほとりで、またエルサレムにおいて、福音を宣べ伝え、人々に愛を告げ知らせた主イエスの姿を忘れてはならない、何よりも十字架の死と復活の出来事を直接に体験した弟子の一人としても、その記憶している一つ一つの出来事を忘れないためであったと思います。
勿論、後の世代の信仰を受け継いでいく人々のためにも、この福音書は記されたでありましょう。
この福音書を記すにあたり、福音書の目的、あるいはテーマの一つとして、主なる神は私たちを決して忘れない方であるということを記したかったのであろうと思います。
「初めに言があった」という書き出しで始まります。この書き出しは旧約聖書の創世記の最初を連想させる記し方です。意図してそのように記したのでしょう。創世記では「初めに神は天地を創造された。」と記されていまます。
この天と地を造られた方こそ、私たちが信じるところの主なる神であり、その神と初めから言が共におられて、しかも言は神であったと続きます。天地創造なる神と共に、初めからおられた言、その言は、主イエス・キリストであるとヨハネは告げたかったのだろうと思います。非常に文学的なセンスのある書き出しです。
全てのものの造り無しなる神と共におられた言、その言の役割はなにかというと、4節からの御言葉になります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
言は命であり、命は光であり、光は暗闇の中で輝いているのです。暗闇とはなんでしょうか。暗闇とは聖書的な意味で申し上げますと私たちが生きている「この世」であると言えるでしょう。
ロシアがウクライナに侵攻して既に一月以上になりました。ニュースで取り上げられる地図を見ますと、ウクライナの東の地域と南の地域は真っ赤になっていてロシアが占領した地域であることがわかります。そもそもなぜ戦争が起こったのか良く分からない、良く分からないにもかかわらず、町は爆撃され、破壊し尽くされているように見えます。今、一言で「町」と申し上げましたが、その町には何万人、何十万人という人々の命と生活と日常があったはずです。明日には戦争が起こるかもなどと、人々の誰もが考えていなかったでしょう。
けれど、状況は悲惨を究め、人の命が取られ、血が流され、涙が流され、町は破壊されています。なぜ、そうなってしまったのか、私はテレビや報道の解説者のようには話は出来ません。でも、ハッキリしているのは、この世はあたかも闇の世だということです。戦争がはびこり、質の悪い感染症が世界を覆い、自然災害が頻繁に起こる時代が今の私たちの時代です。
闇の力は、人と人との絆を分かち、怒りは対立を産みだし、対立は争いを生みだすのです。そのような力が闇の力です。しかし闇の世にあって、主なる神は命を照らす光として、また、暗闇を照らす光として御子イエス・キリストを誕生させられました。
なぜ、誕生させてくださったのか、神は私たちを忘れないからです。誰が誰を忘れようとも、主なる神は私たちを決して忘れないし、誰も見捨てもこともしない、その印として神の光、主イエスはこの闇の世に誕生されました。ヨハネによる福音書1章14節にこう記されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
言が肉となられた方、それが主イエス・キリストです。成長された主イエスは、ナザレを中心として、ガリラヤ地方を巡り、町や村を巡り、12弟子と共に神の福音を宣べ伝えられました。目の見えない人の目を開き、ベトザタの池の病人を癒し、神の恵みを人々に示しました。福音書に記されている通り、神の光としての多くの働きをなさいました。けれど、闇は光を理解しませんでした。
ヨハネによる福音書5章18節を開いてみましょう。(172頁)ベトザタの池の病人を癒された後の出来事です。その日が安息日であったために人々に争いが起こり、そして18節の御言葉です。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」
もう一個所、19章7節(206頁)主イエスが死刑の判決を受ける場面です。「ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
主イエスを死刑にするために、ピラトのもとに連れて来た人々は、この男は死罪に当たると言うのです。神の子と自称したからだと告げています。暗闇は光を理解しなかったのです。
暗闇の一つの頂点は、ユダの裏切りの場面ではないでしょうか。裏切ろうとするユダに対して主はこう話されました。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」、「すると、ユダはパン切れを受け取ると、直ぐ出て行った。夜であった。」と記されています。夜であった。それはこの世の暗闇を示す言葉です。
私たちは今日、年度の最初の礼拝でありますけれども、受難節の時期を過ごしています。来週は「棕梠の主日」、受難週となります。御子イエスがこの世の暗闇の力によって捕らえられ、裁判にかけられ、そして十字架刑とされる。それは人の命が奪われ、血が流され、涙が流される時、暗闇の勝利であり、悪魔の勝利であるかのようです。
けれど、「光は暗闇の中で輝き続けました」三日の後に、暗闇から光へと変わる、週の初めの日の朝早く、主イエスは復活されました。弟子たちの間に現れ、多くの人々の前に現れ、光は暗闇に勝利した姿を示されました。それは「初めに言があって、神と共におられて、神そのものであった」方が、どんな時も私たちをけっして忘れないよ、忘れていないよと告げてくださる神の復活の祝福と勝利の印でありました。
人が闇に飲み込まれる時、それは神から離れる時です。神から離れると、人からも離れ、そして、自分の感情のまま、人の命を押しつぶそうとさえするのかもしれません。そのような暗闇があるのだろうと思います。
けれど、だから忘れてならないのは、今、光と暗闇の厳しい対決がある、ということではありません。「光は暗闇の中で輝き、暗闇は光を理解しなかった」のです。それは対決ではありません。圧倒的に「光」が勝利されるのです。それが復活の主イエスの姿でもあります。
この方にこそ、願い、この方にこそ、祈り、命の主なるイエス、光の源なるイエスを見つめて、この方を信じて私たちは歩んで参りましょう。この方から離れずに光の中を進んで参りましょう。
お祈りします。