日本キリスト教団 大塚平安教会 

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目標を目指して生きる

2022-02-06 12:45:45 | 礼拝説教
詩編143編1~6節
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
「目標を目指して生きる」

 本日は、フィリピの信徒への手紙3章から「目標を目指して生きる」というタイトルを付けました。「兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神にキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とあります。
 
 この御言葉が、今日のこの日の礼拝に与えられたのは、何か特別な思いがします。というのも、先日の金曜日から冬の北京オリンピックが始まりました。 
それぞれの競技で、選手の皆さんは勝利を目指し、金メダルを目指して、それぞれの目標を目指して繰り返し練習し、励んできた結果を出そうとしています。私たちもその様子を見ながら感動が与えられ、感動を分かち合うことが出来るわけです。
 
 今行われているオリンピックは近代オリンピックと言いますが、古代オリンピックは紀元前776年から始まり、紀元後まで続きました。ギリシャのコリントの町でもオリンピックが開催されていたようですから、使徒パウロはマラソンとか、ボクシングとかを見たのではないかとも考えられます。
 その時の感動を思い起こし、自分達の信仰生活を何等かのアスリート競技、恐らく、マラソンではないかなと思いますが、この文章を記したのではないかと言われます。
となると、目標であるところの「前のもの」はゴールであって「後ろのもの」とは、スタート地点とも言えるでしょう。スタートしてしまえば、スタート地点がどうであったかなど、考える暇もなくなるでしょう。ゴールを目指して走り続けるのみです。そのように、自分達の信仰生活をマラソン競技のような状況に置き換えて説明しようとしたのでしょう。

 私たちの信仰生活の目標とは何でしょうか。週報にも記しましたが、先週の木曜日、郵便局に行きまして、会堂建設の際に日本基督教団から借りた負債の返済金を送りました。このことによって教団から借りていた700万円は返済終了となりました。既に神奈川教区からの300万円の返済は終わっていますので、教団、教区からの借り入れは完済となりました。私は素直に嬉しく思いました。
 新会堂が建てられ献堂式が行われたのは2015年です。それから7年、厳しい社会状況の中、更にコロナ禍が2年以上も続く中で、滞りなく完済出来たのは、私たちの教会、この教会に集う皆さんの高い意識、それはそのまま私たちの信仰の現われであるとも思います。
 とはいえ、まだ教会債の返済が残っていますので、終わったわけではありません。会堂建築返済が終わるまでは、私たちはまだ山を一つ、二つ越えていかなければならないと思います。建築返済に関しては完済すること、それが目標になるわけですが、私たちの信仰の目標がそこにある訳ではありません。

 私たちの信仰の目標、それは「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」とパウロは記しました。この「お与えになる賞」という言葉が示しているのは間違いなく「死者の中からの復活」です。主イエスが十字架の死から復活して、パウロに現れ、言葉をかけてくださった、パウロにとってそれは決定的な事でした。死に勝利する神の復活の力、その力が一体どれほどなのか、それをなんとかして理解したい、捕らえたいとパウロが願い続けていることも分かります。
 
 先週の子どもの教会の礼拝において読まれた聖書箇所は、ヨハネの黙示録5章からの箇所でした。なぜ黙示録であったのか、「教師の友」という教団から出されている導きの本によれば、1月は「新しい命」がテーマでした。「新しい命」に関する聖書箇所が選ばれ、1月最後の礼拝ではヨハネの黙示録が選ばれたわけでありました。
 黙示録5章に記されている場面は何かというと、天の国における礼拝の姿です。ヨハネが幻でその礼拝を見たのです。礼拝の中心に玉座に座っておられる方がおられ、その右に神の小羊が位置します。すなわち父なる神と主イエスがおられる。その回りに四つの特別な生き物と、24人の長老たちがいて神を賛美している。更にその回りに数えきれないほどの天使がいて讃美を歌っている。更にその回りには、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、あらゆるものが神を讃えて「玉座に座っておられる方と小羊とに、讃美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」と声高らかに伝えている様子が記されてある場面であります。
 天と地と地の下と海にいるすべての被造物が神を讃えるのです。勿論、被造物の中心は人間でしょう。けれど、神に造られたすべての被造物が神を讃えている。動物も鳥も魚も、全ての被造物です。命あるものも、そうでないものも全てが神を讃え、感謝する礼拝が行われている。
 
 私は、私たち信仰者の究極的な目標は、この礼拝にこそあると思いました。全ての命が復活の命に預かり、新しい命として神に向かい、神を讃え、神を祝福するのです。人としての年齢とか性別とか、職業とか富とか健康とか、全てが取り除かれて、新しい命でもって完全な礼拝の姿がここにあると思いました。
 
 このような礼拝が必ず行われる。私たち一人一人が復活の命に預かり、完全な者とされた時、このような喜びの礼拝を献げることが出来る、私たちにとって、それは大きな目標であり、希望であると思います。

 私たちの地上の命は、確かに限られています。人は必ず死を迎えます。

 死に対して神の希望ではなく、死に捕らえられてしまうとどうなるか、一つは、生きる希望を失い、目標を失います。どうせ何をしても、と空しく生きてしまう。二つ目は、どうせ死ぬのだからと、生きていく計画を失い、自分の好き勝手に生きてしまう。最近ニュース等で人を傷つける事件が度々報道されます。特に最近は、「誰でも良かった」といった無差別殺人事件のような出来事が報道されます。人が目標を失い、希望を失うとどうなるのかを知らせているのかもしれません。
 私たちは、死に捕らえられ、飲み込まれるのではなく、死の向こう側にある「復活」の力を信じて生きていきましょう。更にそれは、死んだ後のことではなく、直ちに、だから今をどう生きるのか、神に捕らえられた者の生き方が問われてくるのだと思います。

 特に苦難、試練と思える出来事が起こった時に、どのように生きようとするのかが問われます。今日は、詩編143編を読んでいただきました。ダビデの詩と記されている詩編です。
 
 詩編には度々、ダビデの名による詩が登場し、苦難の中、神に祈る姿が記されています。その多くは、ダビデが王になる前に、サウル王に追われ、追っ手に追われ、窮地にいる状態で神に祈る場面の詩編ですけれど、この143編は、ダビデの晩年だと言われます。晩年に何があったかと言えば、息子に命を狙われるという出来事がありました。

 ダビデが愛する息子のアブサロムが反乱を起こし、ダビデに迫ってくるのです。ダビデは戦いを望まず、むしろ逃げて、逃げて戦いを避けるのですけれど、結果的には戦いとなり、息子アブサロムはそこで命を落とし、ダビデはその知らせを聞いて父親として、身を震わせて泣き出すのです。

 ダビデ王は、イスラエル民族からすれば英雄です。歴史を振り返ってもダビデ王以上の王はいないと言えるでしょう。けれど、ダビデは王になる前にはサウル王に追われ、晩年には息子の反乱を受けました。ダビデ自身、どれだけの試練を生きなければならないのかと思ったでしょう。けれど、また、ダビデは王として最も充実していた時に、最も大きな罪を犯しました。家臣ウリヤの妻、バト・シェバと関係を持ったことでありました。
人は豊かになった時、裕福になった時、最も神と遠くなると言われます。自分は大したものだと思うからでしょう。けれど、人は苦難、試練に出会う時も神を忘れる危機を迎えるのです。

 ダビデは息子アブサロムの反乱という試練を受けました。その時143編の祈りを捧げました。5節を読みましょう。「わたしはいにしえの日々を思い起こし あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思い巡らします。」
いにしえの日々とは、昔の事です。後ろのものです。後ろのものは忘れて、前にいかなければなりません。けれど、後ろのものでも決して忘れてはならないことがあって、それは自分に関わってくださった主なる神の恵みの一つ一つ、試練の中にあって支えてくださった神の祝福の一つ一つ、神様の支えによってこれまでは自分は生き、生かされてきたということだけは決して忘れてはなりません。

 試練とは自分では変えがたいと思える出来事です。自分の力では如何ともしがたい場面です。その時に、私たちは自分の信仰が試されます。そして二つの道のどちらかを選ぶのです。この出来事を通してもっと神に信頼するのか、不平、不満、愚痴を語り続けるのかのどちからです。

 私たちが、生きていくためには試練は避けられません。けれど、そのことを通しても、私たちは神を信頼し、神を求め、天の国の完全な礼拝という目標を目指して、生きている時も、死んだ後も、主の支えによって生かされますように願いつつ、過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。

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