日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2017-09-04 15:26:22 | 礼拝説教
 
【ローマの信徒への手紙8章18~25節】 【マタイによる福音書13章24~30節】

 9月に入り、一連の夏の行事や予定も無事に行われて参りましたが、既に一か月以上前になりますけれど、7月末に子どもの教会で計画しまして、山梨県北杜市にまで、今年2年目になるワークキャンプに出掛けました。
 曇っていても汗ばむ日でありましたが、到着して最初の農作業は、大豆畑の草取り作業ですと言われて畑に向かったわけですが、何しろ畑の持ち主も、綾瀬市、海老名市の方々で、週末や休日を利用しながら、山梨県まで通って畑仕事をされている方々ですから、大豆の苗を植えたのは良いけれど、苗を植えてから、仕事もあるしということでこちらに帰って来る、また、一週間、十日後に出かけるのですが、既に雑草が生えているわけです。
 農薬を使わない畑ですから、そこで一生懸命に草取りをして、またこちらに帰って来る。で、また、一週間、十日して出かけると、また、沢山の雑草が生えている、草取りをして帰る、また、暫くしていってみる、という具合にひと月、ふた月過ごしていくうちに、これまで取り切れなかった雑草は大豆の苗を追い越してしまって、どれが大豆で、どれが雑草なのかが既に分からなくなってきた頃に私たちが到着しまして、急いで全員で草取りということになったわけです。
 
 全員、十数名で行いましたが、雑草というよりはすでに立派な植物に成長していたりして、根も張り容易に抜けない草もあったり、実際のところ、どれが雑草で、どれが大豆か判断に難しかったり、何よりも暑さと疲れて、段々仕事が雑になって来るわけで、一仕事終わった後に、小声で話したことは、自分達は一体どれだけ大豆抜いてしまったのか((笑)という話と、最初からもっとこまめに草取りをすることが必要ではないのかという会話でありました。
 そんなことを思い起こしながら、今日読んで頂いた「毒麦」のたとえについて考えてみますと、主人が話した「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」という言葉は驚きを感じる御言葉です。なぜ、出来るだけ早くに処理をしないのか、なぜ、収穫の時期まで待たなければならないのか、良く分からないと思わされます。やっぱり目指す所の収穫をより多く、またより確実に手に入れるには出来るだけ早い処理をした方が良いはずだと誰もが思われるのではないでしょうか。

 私自身、田舎の育ちですから、畑や田んぼの中に囲まれて育って来ました。残念ながら、その畑も田んぼの一つもわが家のものではなく、なぜ自分は農家に生まれなかったのかと悲しい思いをしたこともありますが、一方では、朝5時頃からすでに草取りをする、植物の世話をする、その手伝いをさせられる友の大変さを思うと、農家でなくて良かったと思うこともありました。いずれにしても、どの畑、どの田んぼを見ても、雑草で一杯になっている土地は一つもありません。それほどに、米に対して、野菜に対して、確かな収穫に対して気を使っていたということも思います。

 けれど、当然のことですが、聖書が告げる、また、主イエスが語っているその意味は「正しい農業の仕方」についてでもないし、「丈夫な麦の育て方」でもありません。ここで、主イエスが何を伝えたかったのか、マタイによる福音書の特徴として言えるのですが、主イエスが語るたとえ話に、また、その意味を伝える箇所が記されています。13章36節以下で、主イエスが弟子たちにその意味を教えています。
 37節からの箇所を読みますとこうあります。「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。』
 つまり、世の終わりには良い麦と毒麦が完全分けられて、毒麦は燃えさかる炉の中に投げ込まれるように、つまり世の終わりに裁きがあって、正しい者と正しくない者とに分けられる、そしてそこに天の国が到来する。と主イエスは話しておらえるように思えます。

 バーバラ・テイラーというアメリカの牧師は、マタイによる福音書の特徴の一つは、世の終わりについて雄弁に語っていることだと説明しています。
愚かなおとめと賢いおとめが登場する「十人のおとめ」のたとえや、羊飼いが羊と山羊とを分けるようにして人々をより分け、最も小さい者の一人に対して親切にした人々を褒め、しなかった人々に対しては厳しく裁くように、あるいはこの麦と毒麦のたとえのようにして、他の三つの福音書にもましてマタイによる福音書は、物事が白か黒か、良いか悪いか、また人間が忠実か、不道徳か、祝福されているか、呪われているか、このようにして二つのグループに分けられるのだと、繰り返し、繰り返し、告げていると指摘しています。なるほどと思いますが、同時に、テイラー牧師は、そのことはこのマタイによる福音書が記された時代においては、そのことが人々の励ましとなり、またなぐさめとなるメッセージであったかもしれないか、果たして現代の私たちにとってはどうかとも記します。

 現代を生きる私たちを振り返る時に、自分自身の中に、隣人の中に、そしてこの世界の中に、麦と毒麦の両方を併せ持っていて、そしてそれは分かち難く、白か黒かといった明瞭さを手にしているわけではないと伝えているのです。私はこの意味は深いと思います。

 私たちの世界は、この世は必ずしも明瞭であるとはいえない。このことを思う時に、本日読んで頂いたローマの信徒への手紙の8章を開いてみますが、8章の22節からの御言葉に私は目が止まりました。
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」とあります。ここに「うめき」という御言葉があります。「うめき」とは言葉にならないものです。言葉にならないから「うめく」のです。赤ちゃんは話が出来ませんから、泣いたり、うめいたりして母親に知らせようとするわけですが、母親はその仕草、言葉にならない言葉を受けとめて、適切に対応するので、うめきをやめて安心するわけですが、けれど、私たちは赤ちゃんではありませんから、いつの間にかうめくことを辞めてしまっていますが、でも、心の中ではいつも何かを「うめいている」のではないでしょうか。

 しかも、それがなんの「うめき」なのかもよくわからなかったりもするのではないですか。金曜日、土曜日と厚木基地からの飛行機がやたら上空を飛んでいます。私たちとしてはとてもうるさくて、騒がしくて、出来れば静かにして欲しいと思いながら過ごてましたが、何か情報が無いかとパソコンで探しましたが、特別に何も記されていませんでした。けれど、なぜこれほど、飛行機が飛んでいるのか、想像するに難しいわけではありません。
 
 先日、北朝鮮が日本の上空を越えて太平洋にまで届く、ミサイルを発射しました。ミサイルは特段、何事もなく太平洋に消えて、何等かの被害もありませんでしたので、良かったと思いますが、しかし、果たしてこれから暫くの間、どうなっていくのか、必ずしも楽観的な見通しがあるわけでもありません。私は、あのミサイルが例えばグアムの方向に向かわなくて良かったとは思いますけれど、でも、幾らか方向を間違えて、ロシアに向かったり、中国に飛んでいったりしたら、もうそれだけでも、大きな戦争になるだろうとさえ思いますし、大きな危険をはらんでいるのは間違いないと思います。そして、それは政府を始めとする大方の日本人はハラハラ、ドキドキしているのです。
 
 これ以上深入りするようなことは申し上げませんけれど、けれど、この礼拝の席で、私はだからこそ改めて、「毒麦のたとえ」を思わされるのです。ある人が良い種を畑に蒔いたのです。けれど人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いていきました。芽で実ってみると、良い麦と毒麦が混在する畑となっていました。僕が主人のところに来て言いました。「だんなさ、畑によい麦を蒔いたのではありませんか。」「敵の仕業だ」と聞くと、「それでは、行って抜き集めておきましょうか」と言うと「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時「まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と刈り取る者に言いつけよう。

 私たちは、私たちの置かれているこの社会を見る時に、何も北朝鮮との問題に限らず、どこかで自分や、自分達は白であり、正義であり、自分達以外の何者かは黒であり、正義ではないと思ってしまいがちになります。
 9月1日は、何の日かというと、子どもたちの自殺が一番多い日だとありました。「9月1日問題」と言うのだそうです。2学期が始まるからです。うちの娘も「学校に行きたくない」と何度も訴えかけて来ました。勿論、多くの子どもたちがそう思いながらも、また、学校生活を始めるわけですが、その流れに乗れない子どもの心は大人が思っている以上に深刻な場合があって、それが極端になると命を絶ってしまう子どもがいるということでしょう。学校いくのが当たり前と白、黒つけることが果たして良いことでしょうか。

 それはまた、学校に限ることでもなく、仕事に行きたくない大人もいるでしょうし、仕事がない方もおられるでしょうし、夫婦の問題や、家族の問題、長く病を抱えておられる方もおられますし、本当に辛いと思いながら生きておられる方も多いと思います。
 そしてね、その辛さの解決の為に、白か黒か決着をつけたいとつい思ってしまう時が、時として、いや、何度もあるのだろうと思うのです。ましてや、相手が毒麦のような物であると思えるならば、尚更、今のうちに引っこ抜いてしまおうと思う。僕たちが主人の思いをまさに忖度して話すのです。「今のうちに、行って抜き集めておきましょうか。」主は「いや、するな」と告げました。簡単に決着をつけてはならんと伝えるのです。

 となると、私たちが与えられている「うめき」は続くことになるのです。神様、それでは私たちは「うめき続けることになりなす」と訴えたくなるのです。一体、主なる神の思いはどこにあるのかと思わされてしまうのです。けれど、主イエスは伝えました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」つまり、一本の麦、一人の命も失われないようにしなければならないということでしょう。
 もともと、この例えは、「天の国」のたとえなのです。天の国はでは、一本の麦さえも、一人の命さえも、どれほど大切にされるのかが示されているのではないでしょうか。

 だから、主よ、わたしたちはどう生きればよいのか。先ほど読みましたローマの信徒への手紙8章23節、24節をもう一度読みます。「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見える物に対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」
 
 私たちは、私たちの社会に対して、私たちの人生に対して、私たちの生きざまに対して、自分で白、黒つけることを主が望んでおられるのではありません。神が私たちに対して望んでおられることは、その人生において確かに「うめき」ながら尚、神を待ちのぞみ、希望を持ち続けることではないでしょうか。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝です」と語る主イエスの枝として、私たちの本当のエネルギーの出どころである、主イエスに連なって、その方にこそしっかりと応答していくことが求められているのだと思います。
 
 ドレーパー記念幼稚園の2学期が始まりました。先週の夏期保育の中で、8月生まれの子どもたちの誕生会と礼拝がありました。その時、私は「二つのものを一つにして下さる神様」の話をいたしました。子どもたちは久しぶりの礼拝でザワザワしておりましたが、それでも話し続けていくうちに、ある言葉で子どもたちがシーンと静まり返りました。皆さん、どんな言葉だと思いますか。二つものを一つにして下さる神様、だから、皆さん、お父さんと、お母さんがいて、だから皆さんが生まれて来たわけです。皆さんよ、お父さんと、お母さんが喧嘩していたら悲しいでしょう。と言った時で、ザワザワしていたのが皆、急にシーンとしたのです。子どもたちにとって、親が互いに喧嘩している、それは究極的には自分の命にもかかわることだと本能的に分かっているのです。
 だから皆さん、私たちは主にあって、私たちの人生「うめき」ながらも、でも、希望をもって神と共に、隣人と共に、敵を愛しなさいとまで言われた主イエスの思いをしっかりと汲み取りながら、私たちの信仰生活をしっかりと歩んで参りましょう。
                                                              お祈りします。

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