日本キリスト教団 大塚平安教会  

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福音人生を生きる

2018-04-02 09:12:28 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章1~10節 】


 皆さん、イースターおめでとうございます。キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。一つは御子イエスの誕生を祝うクリスマス。そして、今日祝われるのが、キリスト教のどの祭りよりも古く大切にされてきた主イエス・キリストの復活を祝うイースター。さらに聖霊が下り、教会の誕生日ともいえるペンテコステ、今日のイースターより、凡そ50日後、今年は5月20日の日曜日に予定されています。
この2018年度、最初の日が主日礼拝であり、また、それがイースター礼拝であることはこの新しい年度がどんなにか神様に祝福されているかを思います。祈りを捧げましょう。

 キリスト教の力の基はどこにあるのかというと、イースター、主イエス・キリストの十字架からの復活という出来事にこそ力があると思います。主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑に処せられる。
この出来事を、主イエスは弟子たちに何度も繰り返しに教えていたにも関わらず、弟子たちにとっては全く考えてもいなかった進展ではなかったでしょうか。弟子たちは皆、自分たちも捕らえられてしまっては大変とばかりに、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに逃げてしまいました。この姿は、イザとなると、こんな危ない泥の船には乗らないとばかりに船から降りようとする、自分だけでもなんとか助かりたいという思いではなかったでしょうか。

 十字架と復活に至る一連の出来事は、弟子たちが想定していたものとは全く違ったものでした。まさか、師匠と仰ぐイエス様が十字架刑になるなんて、弟子たちにとってみればまさに想定外の出来事であったに違いありません。
 
 けれど一方においては想定通りと思っていた人々もいたわけで、ユダヤ教の指導者、祭司長やファリサイ派の人々は、ユダと結託して、主イエスを捕らえ、裁判にかけたわけです。その裁判は主イエスになんの罪を見いだせないまま、しかし、目的は主を死刑にすることですから、すべてが予定通り、そのように進むのです。そして総督ピラトのもとに連行されて、ピラトもまた「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と語りかかけるのですが、民衆が叫ぶ「十字架に」という声に押されて、ついに十字架刑という判決を下します。ユダヤ教指導者の側にあっては予定通りの出来事でありました。
既に彼らは、自分たち行っていることがどんなに罪深いのかということさえ忘れていたかのように思われます。

 そして、主イエスの十字架の死は、これまでの一連の出来事の全ての終わりを示す出来事でありました。完全に落胆した弟子たち、主イエスに死に安堵したユダヤ教指導者、面倒なことにならずに済んだと思ったピラト。主の死によって全てが終わったと誰もが思ったことでしょう。けれど、この出来事に関わりをもった人々の全ての想定を超えて、ここから神の御計画が明らかにされていきます。
 三日の後、主イエスが復活され、婦人たちに現れ、弟子たちに現れ、後には、先ほどコリント書を読んでいただきましたが、そこに記されてありましたように、500人以上の人々にも現れて下さり、つまり、キリストの復活の出来事を、その人生の中で経験する人々が大勢現れました。パウロは元々ユダヤ教の指導者として、キリストを信ずる者を迫害する立場でしたが、復活の主と出会い、改心して主と出会った喜びを爆発させるようにして身をもって証明して歩む人生を送ったわけでありました。

 主イエス・キリストの十字架と死、それでお終いだと思っていたのが、そこで終わりではなく、主なる神の業により復活された主イエスとともに、自分もまた復活人生を生きよう、死でお終いではなく、そのようにして死という出来事で切れていく人生ではなく、切れていた人生が復活によって繋がって、繋がることによって力を得てどこまでも終わりがないというのです。
 
 私たちは主イエスと繋がることによって、繋がっていく人生を生きることができます。今日は、このイースターにO姉の転入会式があります。田浦教会の教会員として過ごしておられましたが、結婚以来、橋本にお住まいでしたが、場所も遠いということもあったのでしょう。あるいは少しご主人に気を使っておられたという話も聞いておりましたが、田浦教会への出席がままならないまま、しかし、神様の不思議なご縁の中で大塚平安教会と繋がって下さいました。昨年の座間男性合唱団が行って下さったコンサートの時であったと思います。Oさんは御主人と一緒にコンサートに来られました。その中に讃美歌を皆さんで一緒に歌うという時に、なんと驚いたことにご主人が讃美歌を一緒に歌っていたというのです。あんた、なんで讃美歌を知っているの?と聞いたところ、ご主人は「僕はキリスト教主義の幼稚園に通っていたからね」と言ったというのです。この言葉に、なぜ私は何年もご主人に遠慮していたのかと思ったと伺いましたが、ねぇ、皆さん。切れていたと思っていた、でも主イエスの復活は、切れているものが繋がっていくのです。

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に向かいました。そして、そこで見たものは、蓋として用いられた石が取り除けられていた様子でありました。驚いたマリアは、弟子たちのところへ向かって走りこう告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
 けれど、皆さん、この取り除けられた石こそが、切れていた関係、主なる神と私たちの関係を、繋げて下さったという印ではないでしょうか。
 
今日はヨハネによる福音書を読んでいただきましたが、他の三つの福音書の復活の場面を読んでみますと、どの福音書もほとんど同じ内容ではあるのですが、マタイでは、二人の女性が、マルコでは3人の女性が、ルカでは婦人たちがありますけれど、少なくとも4人以上の女性が、週の最初の日の朝早くに主イエスの墓に向かいました。そして、彼女たちの悩みは、どれも同じように、墓に蓋のようにしてふさがれている石なのです。この石をどうやって転がすことができるのか、誰かに助けてもらわれなければならないのではないか、そうでなければ、慌ただしく墓に収められた主イエスのご遺体に油を塗ることも、香料を注いでお体を整えることもままならい。それが彼女たちの悩みでありました。
けれど、ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアただ一人が、主イエスの墓に向かいました。女性数人でも、石を取り除けることができるかどうか不安があったとすれば、一人ではさらに難しいことでしょう。

けれど、マリアは主イエスの墓へと向かいました。石が心配だとか、無理だろうとか、出来ないだろうとか、何も考えなかったのではないかと私は思います。無謀だと言えば、無謀かもしれません。
けれど、そこにあるのは一つの心です。生きているから、とか死んでしまったから、という思いを越えた主イエスへ向かう、神に向かおうとする、真っすぐな一つの心ではないかと思うのです。
私たちの信仰生活に求められているのは、あのこと、このことではなく、あの人が行くからとか、この人は行かないからではなく、自分はどう生きるのかということではないでしょうか。

オランダでの話です。オランダの小さな漁村があって、わずかに漁業だけで生活が成り立つような村であったそうです。ですから逆に、少々海が荒れても、船を出さなければならない、そのような状況はいつも遭難の恐れが伴います。
ある時、やはり海が荒れて、船が座礁してしまいました。船からのSOSを聞いた、村人はさっそく救助船を出して、救助に向かいました。到着して、人を移動させて船に乗せましたが、これ以上乗せたら救助船も沈んでしまうかもしれない、だから、どうしても一人は残さなければならないというのです。やむなく若者一人を残して、救助船は村に帰ってきました。しかし、帰ってきてすぐ、船長は、「まだ船に一人を残してあるから、もう一度、救助に向かってくれる人はいないか、だれか、この嵐の中を、最後の一人を助けてくれる人はいないか」とボランティアを募りました。
この声に16歳のハンス少年が「僕が行く、僕をその仲間に加えて下さい」と名乗り出たそうです。けれど、ハンスのお母さんが驚いてハンスに叫ぶようにして話しかけました。「お願いだから、行かないでおくれ。お前のお父さんもこんな嵐で死んでしまって、お前のお兄さんは海に出たまま2週間も行方不明だ、その上お前を失ったら、私にはもう何の望みもなくなってしまうよ。行かないでおくれ。」

でもハンスはお母さんに言いました。「お母さん、皆でお前が、お前がと言って、僕が行かないと、またぐるぐるとたらい回しになっている内に、尊い命が失われていくんだよ。僕が行かないわけにはいかないよ。」と言って、お母さんを振り切るようにして救援隊として嵐の中に消えていったそうです。

その後、暫くの間は、お母さんにとっては永遠の時のように感じる時間でした。

更に暫くして、嵐の向こうから「全員が無事だそう」という声が聞こえてきました。
ハンス少年が船の舳先(へさき)に立って叫んでいました。「お母さん、あの最後の一人が誰だかわかるかい、お兄さんだよ」(「終わりは始まり」田中信生より)
 
皆さん、人にはできないけれど、神にはできる。人の側からは墓の石を取りのけることは出来ないかもしれません。けれど、神には出来る。とても無理な状況、苦しい状況、でも、この方の力を借りてならと、飛び込んでいくことです。飛び込んでいくと、私を強くして下さる方によって、自分の思いを超えた、神の業をそこで見ることができるのではないでしょうか。自分が置かれているその状況の中で、復活された主イエスの神の業を、自分の人生の中で経験出来るのだと思います。

私たちは、復活人生を生きる者としてこの世に遣わされています。何度上手くいかなくとも、何度つらい思いをしようとも、そこで終わりではない、もうお終いだと思うその先に、神の祝福があるという希望を告げる者として遣わされています。

イザヤ書42章を読んで頂きましたが、16節にこうあります。「目の見えない人を導いて知らない道をいかせ 通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え 曲がった道をまっすぐにする。」
 
私たちはこの方を知らないと、復活人生を生きていないと、なんとかしよう、なんとかしたいと、あの方法、この方法と、あっちへ行って人頼みをし、こっちへ行って画策し、多くの事をしながら疲れて、疲れ果てて「一体、自分の人生はなんであろうか」と問う人々のような、そんな時代を私たちは生きているように思います。

けれど、私たちはそのような状況の中にあって、自らの力を捨て、石が取り除かれ、死から復活された神の力を仰ぎ見ることがこの時が許されているのです。このようにして、いつも、私達自身、限りある人生の中にあって、限りない神の世界との交わりを深くしていくことが許されているのです。
本日、このイースター礼拝において、心新たに思わされるのは、自分の造り主である真の神を一層確かに、自覚的に知り、マグダラのマリアが主イエスの墓へと向かったように、一筋の道を私たちも、そこに向かって共に進みゆくことでありましょう。そして、その場において復活されたイエス様と共に歩みますとする決意を新たにすることでありましょう。

このイースター礼拝において、私達はまた一層、主によって新しく生まれ変り、復活の神が、多くの事ではなく、二つの事でもなく、一つの世界に、即ち、「福音人生に生きる」ようにと知らせて下さる時でもあります。
どうぞ全てのことを感謝し、復活の主イエスの愛に生かされる私どもが、本日から又、新しい命の中に生かされていることを覚えて感謝して歩むことが出来ますように。
お祈りいたしましょう。
ジャンル:
きいて!きいて!
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