日本キリスト教団 大塚平安教会  

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わたしの心は喜び、魂は踊ります。

2019-05-14 09:44:40 | 礼拝説教
【詩編16編1~11節】
【ルカによる福音書24章13~35節】


 先週の礼拝は、多くの方々と共にイースター礼拝を守りました。午後には祝会、また、三月に私たちの教会に転入会して下さったHさんご夫妻を囲んで、また、皆さんの、それぞれの近況などを伺いながら過ごしまして、素敵な良いイースターの日であったと思います。

 けれど、その祝会の帰り道にですね、Tさんが道で転倒されたというのです。それで少し頭を打たれて、すぐ病院で見ていただいたそうですが、今のところは心配ないでしょうと言われたそうですが、暫くはご自宅で休まれると思います。是非皆様のお祈りの中に覚えていただきたいと願います。と原稿に記しましたが、(笑) おいでですね。(大笑)大丈夫ですか。良かったです。

 多くの皆さんがご存知のように、まあとにかくTさんは、何をさしおいても礼拝、若い頃は、多分ね、マラソン大会の時は休まれたかもしれません(笑)。でも本当に礼拝出席を第一にといつも考えておられる方であります。

 イースター前に受難週という一週間がありますが、その時にも夜の祈祷会に、なんとしても出たいという思いだったそうです。それでも、夜も暗いし、その行きに、帰りに、何かが起こったら大変だといので、家族でとめて、本人は残念がっていました、という話しを先日伺ったばかりでした。

 これまでの礼拝でも、何度かお話しましたが、岩手の花巻教会に三田照子さんという方がおられました。2年前の、丁度この4月に99歳で天に召されて行かれた方です。花巻教会の教会員でありましたが、三田さんは、私の牧師としての信仰を育ててくれた信仰の師匠です。

 先週行われた家庭集会で読まれたコリントの信徒への手紙の4章に記された御言葉に「わたしたちは四方から苦しめられても、行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」とありますが、三田さんは若い頃に夫が待つ満州に渡り、けれど、当時、その地で日本人が取った振る舞いとは全く違い、どんな人とも友達となり、また優しく、親切に接しておられたが故に、敗戦となった時に、地元の方々が三田さんご家族を死なせるわけにはいかないとかくまって下さった。

 でも、三田さんは自分達だけが助かるわけにはいかないと、そこにまた、逃げて来た日本人の家族をも受け入れて過ごされた。そのかくまわれた家族に小学校5年生の子供がいて、その子供がTさんでありました。ですから、Tさんの信仰の師匠も、私と同じ三田照子さんだと思います。
 
 コリント書を読みながら、家庭集会では、キリスト教の信仰のあり方を一言で言えば、「自分に死んで、人を生かす」生き方ではないかと申しました。もし、三田さんが、自分達だけでも助かりたいと本当にひっそり静かに暮らすような方々だったとしたら、地元の人も助けてくれなかったかもしれませんし、Tさん家族も助からなかったかもしれません。そのような自分に死んで人を生かす生き方を、生涯貫いて生きて来られた方であることを改めて思うのです。

 どんなことがあっても礼拝には出席する。その姿も三田さんの姿勢そのものでした。99歳という長寿でしたけれど、体は決して強いというわけでもありませんでした。それでは何が強いのかというと、やっぱり心なのだと思います。「行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない」そんな信仰を持って生きられたのだと思います。

 今日は詩編16編を読んで頂きました。その8節、9節を改めて読みますけれど、こう記されてあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。体は安心して憩います。」
 
 9節に私たちの、主なる神を信じる者の、人としての三つの形がしるされています。一つは「心は喜び」、二つは「魂は踊り」、三つめは「体は安心して憩う」というのです。心と魂と体、この三つが私たち人間を形作っているのだと記しているのでしょう。
 「心は喜び」私たちの心、それは命そのものです。子どもであろうと、大人であろうと、女性であろうと、男性であろうと、ユダヤ人であろうと、日本人であろうと、何人であろうとも、一人に一つ同じようにして与えられている命、存在そのものと言ってもいいでしょう。何よりも私たちの存在が、命が喜んでいる。自分が自分で良かったなと喜べる。それが主にあるものの生き方です。

 二つ目は「魂は踊り」、ある先生は魂とは、人がこれまで培ってきた、知性、感情、意志、つまり「知情意」と言う言葉がありますが、この事だと教えて下さいました。この知性、感情、意志の三つのバランスが整っている。でもね、知性では分かるけれど、感情がついていかない、「お母さん、キリスト教って一言で言えばどういうことなの」、「そうだね~、一言で言えば、自分が死んで人を生かすことだ、そう牧師が言っていたよ」と言うことは出来てもね、なんでうちの子は勉強しないのか、なんでうちの嫁はあ~なのか、うちの姑はこうなのか、うちの夫は協力しないのか、自分に死ねないのです。だから人をも生かせない。

 今朝テレビをつけましたら、夫が原因の夫原病という病気があって、御主人がいると、奥さんが病気になるというのです。(笑)すぐに見るのを止めました。(笑)

人は人を殺して、自分が生きようと、どうしても願いますし、自分に死んで人を生かす生き方、中々容易ではありません。でも「魂は踊り」それは、自分の知性も感情も意志も、全てのバランスが整えられて、自分は死んでというよりも、私は、本当は「自分も生きて、他人も生きる」これが「魂は踊り」という生き方だと思」います。

 三つ目は「体は安心して憩う」と言うのです。私たちの体、先ほど申しましたコリント書の4章に「土の器」と言う言葉が出てまいります。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」とあります。宝とは主イエス・キリストです。土の器は、私たちの体です。主なる神は人の体を土の塵で造られました。だから、いつかはまた、私たちの体は土に戻る時がやって来ます。しかし、そのような土の器に宝が宿っている、その宝は主イエス・キリストです。
 
 土の器としての体は、確かにいつまでも健康そのものという訳には行きません。この説教を考えておりました時に、体の健康について、パソコンで調べていましたら、ここは出典をしっかり申し上げますけれど、なぜか千葉県庁のHPに行きつきまして、健康福祉部健康福祉指導課が文章を記してありました。

 体と心の関係について記してありました。確かに、人の体は年齢と共に衰えていくとありました。例えば70歳を過ぎると腎臓の機能は若いころの半分ぐらいになりますとありました。まあ、そういうことなのだろうと納得して読んでおりましたが、その後にですね、人の知能について記してありまして、加齢による変化は殆ど無い、とありましたよ。
 
 書かれてある文章をそのまま紹介しますがこうあります。「年をとると頑固になる、わがままになると言われていますが、個人の特性によるものが多く、加齢現象とは言えません。」つまり、年を取ってから頑固ではなく(笑)もともとだというのです。でもね、つまり、心は死ぬまで衰えないと、そう言っているのです。

 これは喜びではないですか。体は確かに年齢と共に少しずつ弱っていくものでしょう。でも、心の成長は年齢とは関係なく、信仰の成長は衰えることは無いのです。
 
 更に言うなれば、病気だから健康ではないとは言えないと思います。持病がある、何等かの障害を患っている、でも、心は喜び、魂は踊っているとしたら、そこにどんなにか力を得て、生きていけることでしょう。

 Tさんもそうですけれど、教会に通われる多くの皆さんは、体が思うように動かなくなってきた、あっちも、こっちも痛くなって来た、そういう方が多くなっている。これは事実だと思います。けれど、だから健康ではなくなったとは言えないと思います。なぜなら、主に与えられた信仰によって、尚、心喜び、魂は踊っているからです。そのような人生を過ごしておられる方が大勢おられます。そんな生き方が神を信じる者の生き方でもあると思うのです。
 
 けれど、逆に体は健康であっても、心は沈み、魂が踊りを忘れるとしたらどうでしょうか。今日は新約聖書ルカによる福音書24章13節からの箇所を読んで頂きました。

 主イエスが十字架に付けられて、死んで全てが終わったと思っている、一人はクレオパという名前が記されていますけれど、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン、凡そ12km離れたエマオという町に、恐らく自分達の家があったのでしょう。帰っていく話です。自分達のリーダーであり、指導者であった主イエスが思いがけなく捕らえられ、十字架で死んでしまった。もはや夢も希望もない状態です。これまでの一切の出来事について話し合っていたとありますから、主イエスが復活されたという話しも耳に入っていて、婦人たちがそう言っていた。でも、そんなことがあり得るはずがない、そんな会話をしながらの帰路ではなかったでしょうか。

 でも、そこに復活された主イエスが近づいてきて、一緒に歩き始めたというのです。彼らは目がさえぎられていて主と気づかず、その日に起こったことを主イエスに話し始めます。その話を聞いた主は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。
 彼らは、その話を聞きながら、次第に主の御言葉によって、心が取り戻されてくるのです。そして、先に行こうとされる主を無理に引き留めて食事の席に着いた時、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。すると二人の目が開けました。この方こそ主イエスであると分かりました。しかし、分かったとたんに主イエスの姿は見えなくなったというのです。

 けれど、二人は「道で話しておられるとき、また、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。

 皆さん、この二人は、この時、自分達の死んでいた心も、魂もしっかりと取り戻し、復活したのです。心は喜び、魂は踊りだしたのです。そして、そのまま時を移さず出発して、喜びの福音の告げ知らせの為にエルサレムへと戻っていくのです。

 詩編16編8節を改めて読みますとこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。」主に絶えず相対しているとは、どんな時も主は、わたしを愛して下さっているという意味です。「主は右にいまし、揺らぐことがない」とは、どんな状況においても動かされることが無い、状況状況によって変わらないという意味です。だから、わたしの心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩うことが出来るのです。

 今日は、礼拝後、2019年度の大塚平安教会の教会総会が開催されます。これまでの一年を振り返り、そして新しい一年を歩みだす話し合いとなります。その総会においても、私たちが共々に確認したいと願うことは、主にある信仰によって、状況によらず、心は喜ぶことです。魂が踊りだすことです。そして、体は安心して憩うことではないでしょうか。

 近年、毎年のように言われますのは、教会の力が弱くなっている、教会に人が来なくなって来ている、それも非常に深刻な状況になって来ていると言われます。後10年したら、教会は殆ど無くなっているというような統計もあると言われます。
 けれど、統計は神様ではありませんよ。主なる神は、いつも私たちの右におられて、私たちは揺らぐことがないのです。失望と落胆していた二人の心と魂を主は、復活させたように、私たちに対しても主は必ず、私たちにとって最善を示して下さる、そのことを信じて、私たちは復活の主に支えられ、過ごして参りましょう

 お祈りします。
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きいてきいて
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