日本キリスト教団 大塚平安教会 

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撒く人も、刈る人も

2022-08-28 13:59:16 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書4章27~42節】


 今年度になりまして、ヨハネによる福音書を読み進めておりますが、今日は4章、主イエスがサマリアの女性と会話をしている場面、そのまとめの箇所を読んでいただきました。
 
 主イエスと弟子たちがエルサレムの祭りから自分達のホームタウンであるガリラヤに戻る途中の事です。普段なら通ることのない、いわば差別されていたサマリア地方を通って戻ろうとしていました。直線距離からしてもそのほうが早いと思われます。暑い日だったのでしょう。シカルという町のヤコブの井戸の傍らで主は休んでおられました。そこに一人のサマリアの女が井戸に水を汲みに来まして、その女に「水を飲ませてください」と主が声をかけたところから話が展開されます。

 主イエスがサマリアの女と会話をする。ただこれだけのことですけれど、ユダヤの人々はサマリア人に言葉をかけることさえ嫌っていました。更に昼の明るい時間、公の場所で男が女に声をかける、これも常識的ではありませんでした。ましてや、水を飲みたいと言っても、主イエスは水を飲む器を持っていませんでしたから、女性の持っていた器を借りようとしたのかもしれません。ですから女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と驚いて返答したと思います。
 
 そこから主イエスとサマリの女との会話がなされていくわけですが、これまで五人の夫がいたということや、六人目の男性と一緒に住んでいること、また礼拝について、キリストと呼ばれるメシアについて主はサマリアの女性と会話を続けました。
 次第にこの女の頑なな心が溶かされて行く、癒されて行くそんな思いを感じたのでしょう。
 
 会話を通して、この女性はついに、水がめを井戸に置いたまま町に向かうのです。そして人々に伝えました。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」
 
 サマリアの女性は、主イエスから見るとすれば、いわば一人の求道者です。彼女は主イエスとの会話を通じて、これまで感じたことの無かった確信を感じ、この方こそ真の救い主かもしれない、喜びに満たされて町に向かったと思います。
この女性は昼の正午頃に井戸に水を汲みに来ていました。なぜかと言えば、この女のこれまでの生き様を町の人々は良く知っていたからでしょう。この女性の顔を見たら、すぐに噂話をしたでしょうし、その噂は女性にとって聞きたくない話であったでしょう。だから人目を避けていた。
 
 昔、私が中学生位の時の頃ですが、岩手の田舎の小さな家に住んでいた頃、少し離れた家に嫁いだお嫁さんが母親のところに遊びに来ていました。私が中学生頃ですから、その方の年齢も良く分かりませんが、案外若かったかもしれません。とにかくよく母親のところへ遊びに来るのです。
母親はいつも家におりましたから、毎日のように色々な方が遊びに来るのですけれど、彼女は誰かと一緒には来ないで一人で来るのです。なぜそうなのか、私自身は全く興味も無かったのですが、後で母親が話してくれました。あの人は若い頃には夜の商売をしていて、そういう生活を止めて決心してお嫁に来たのよ。私はびっくりしました。あまりに田舎の地域ですから、そこに住む人々は近所であろうと、多少離れていようと誰もがそのことを知っていたでしょうし、子ども心になぜ母親はそんな人と友達なのかと、心配になったことを思い出しました。

 わずかそれだけの話でさえ、田舎ではすぐ噂になります。これまで五人の夫がいて、今別の男と一緒に住んでいるサマリアの女性について、町の人々が知らないはずがないのです。でも主イエスとの会話を通して、この女性は喜びに満ちて、水がめを置いて、町に向かい「この方は、メシアかもしれない」そう伝えに行ったのです。
これは女性にとっても、町の人々にとっても驚きの光景ではないでしょうか。

 一人の求道者が主イエスとの会話を通して、喜びに満ちて伝道者とされた場面だとも言えるでしょう。
主イエスがサマリアの女と会話をしている所に、弟子たちは食料を調達して戻って来ていました。彼らは急いで戻ってきたと思いますが、27節にこう記されています。「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしているのに驚いた。」

 驚いて、言葉が出なかったのです。話しかける事さえ出来ませんでした。彼らにとっては常識を超えた場面でした。だから黙っているしかありませんでした。彼らは女が町に行った後に、イエス様に声をかけました。「ラビ、食事をどうぞ」イエス様、お腹が空いたでしょう。ランチをどうぞそう言ったわけです。
 主は、その言葉にこう答えました。「わたしにはあなたたがの知らない食べ物がある。」弟子たちは驚いて「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合った。とあります。
 主イエスはサマリアのシカルの町のヤコブの井戸のほとりで疲れていました。疲れて休んでいた。主イエスも疲れるのです。喉も渇いていた。だからサマリアの女に声をかけた「水を飲ませてください」この言葉がきっかけとなって、サマリアの女は、主のもとに求道者となり、そして会話が終わった時、喜びに満たされて水がめを置いたまま町に行って、「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と告げました。
 それはいわば、求道者から伝道者とされたと先ほど申しました。この女が感じた喜び、その喜びの、恐らく何倍もの喜びを主は感じていたのではないでしょうか。
 それはこれまでの疲れが吹き飛んでしまうほどの喜びです。サマリアの一人の女が救い主を見つけ、神を見いだした喜びに勝る喜びです。
 福音を宣べ伝える者にとって、この喜びに勝る「食べ物」はありません。ここで主イエスが「あなたがたの知らない食べ物」と告げたのは、食べ物と言いながらも、一人の女性を絶望から希望へ、滅びから復活へ、闇から光へと導いた喜び、福音宣教の喜びに違いありません。
 
 弟子達は、そのことが分かりません。だから驚いて自分達以外の誰かが、食事を用意したのではないか、自分達は戻るのが遅くなったのではないか、自分達は主に対してヘマをしたのではないかと互いに言いあった、この時、主が何を言っていたのかさっぱりわからなかったであろうと思います。

 8月後半、私は夏休みをいただきました。先週の日曜日、家内と相談しまして、伊豆の下田教会の礼拝に出席しようと計画しました。私がこれまでの伝道者としての歩みの中で、洗礼を授けた方々が幾人かおります。その中で二人の方が決心し、献身して、今、牧師として福音宣教者として歩みをされておられます。その一人が下田教会、それからその近くの稲取教会という二つの教会の役割を担っておられる飯泉有一先生、数年前にこの教会に神学校日を覚えてお招きしたことがありました。
 先生に聞いた所、稲取教会にいると言うので、日曜日、車にナビをセットして向かいました。道は一本道で迷うこともありませんでしたが、けれど、稲取教会にあと数百メートルのところで、ナビがこの細い道を行けというのです。車ではギリギリです。私は大型車の運転資格も持っていまして、割合に運転は上手ではないかと思っているのですが、それでもギリギリの道、そこを進みました。進んでいきましたら、先にまた二股になっていて、その細い方を行けというのです。もはや無理、というよりこの先に家があるとか、建物、ましてや教会があるとも思えず、ナビが間違えているのか、大変な所に来たと思って車を止めて、歩きました。歩いてその先はもはや行き止まりのようにも見えましたから、大変な所に来たと後悔して歩いていましたら、道の右側が明るく開けて、稲取教会の看板がありました。驚きました。
まさか、こんな場所で、正直信じられない程でした。

 けれど間違いなく教会でした。車に戻って、前に進むのではなく、進めませんから慎重にバックして広いところまで出て安全な場所に駐車して歩いて稲取教会に向かいました。
礼拝が始まり、私たち夫婦と飯泉牧師と、教会員4人、合計7人の礼拝を守りました。けれど、楽しかったです。やっぱり楽しかったです。飯泉先生は私を恩師だと四人に紹介して喜んでくださいました。でも、きっと私の方がずっと嬉しかったと思う。
 恩師などと言われる者でもありませんが、でもやっぱり嬉しかったです。こんな田舎で頑張っている彼の姿を見て、力が与えられました。勇気が与えられました。また、頑張ろうと思う気持ちが与えられました。食事に勝る食事とはそういう事でありましょう。主イエスがその喜びの、御裾分けを私にもしてくださったのだと思います。

 主イエスは「わたしの食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と弟子たちに話しました。あなたがたは「刈り入れまでまだ四か月もある」と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、借り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る美を集めている。」と続けられました。
 『刈り入れまでまだ四か月もある』とは、一つのことわざだと言われます。種を蒔いた麦が四か月後に収穫となるのだそうです。その間は待たなければなりません。待つことについてのことわざかもしれません。でも、主イエスは、「目を上げて畑を見るがよい」と伝えました。

 もしかしたら、先ほどのサマリアの女が町の人を幾人か連れて、主イエスのもとへと向かって来ている様子が垣間見えたかもしれません。まだだ、まだだなどと言っている暇はない、いまこそ刈り入れのその時だと弟子たちに福音宣教の喜びを伝えようとしている主の言葉であろうと思います。

 続けて、主イエスは「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」と話されました。蒔く人とは、この場合主イエス・キリストです。

 先ほど稲取教会の話をしましたが、飯泉先生に対して、私が蒔いたのではありません。蒔いたのは主イエス・キリストです。主の蒔いた種によって私も収穫されたのです。主なる神を知り、その深い愛に引き込まれ、祝福に満たされて、洗礼を受けて、神の家族の一人とされたのは私です。

 主イエスが種を蒔いて、私たちは喜びの収穫として、主なる神の前に喜んで跪いているのです。私も、飯泉先生も、サマリアの女も弟子たちも、私たちも皆が神の収穫に預かっている一人一人です。
大切なのは「蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである」という御言葉です。サマリアの女は喜びを自分一人のものとはせずに、直ぐに町に戻って、主イエスを宣べ伝えました。それは刈り入れる者から蒔く者へと導かれたということでしょう。

 神の福音を宣べ伝える喜びは、何にも勝る喜びです。私たちもまた、そのような喜びと共に分かち合いと思いますし、その喜びを主イエスが、どんなに喜んでくださることでしょうか。そしてそのような力ある喜びは、コロナ禍にあって、厳しい社会状況にあって、頭がさがり、下をむいてしまいがちそうになる気持ちを高く上げる力があります。これから9月に向かって、私たちは主にあって喜んで生きていましょう。主なる家族として、兄弟姉妹として、共々に進んで参りましょう。
 
 お祈りいたします。
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