日本キリスト教団 大塚平安教会 

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あなたの罪は赦される

2017-11-04 23:11:50 | 礼拝説教
【マルコによる福音書2章1~12節】

マルコによる福音書の2章1節からの御言葉を読んで頂きました。

 主イエスが、カファルナウムに再び来られたとあります。そして家におられることが知れ渡ったとあります。この家は恐らく弟子のシモン、後のペトロの家であろうと考えられます。この家でペトロの姑の熱を癒したことがありました。その前には会堂で汚れた霊を癒されてもいました。そんな噂を聞き付けて、大勢の人々がペトロの家に集まってきたわけですが、主が再び来られたと聞き、人々が集まり戸口の辺りまで隙間の無いほどでした。

 この時、主イエスの回りに集まってきた人々はどんな人々だったのでしょうか?聖書の流れから容易に想像できるのは、病気の人、なんらかの障害を負っていた人、そのような人々を支えていた家族、弱さを抱えていた人、苦悩や悲しみに生きていた人々であったろうと思います。
 あるいは既に有名人となっていた主イエスを一目見ようと集まっていた人々もいたでしょう。中には律法学者もいたと思われます。様々な人々が主イエスの回りを取り囲むなかで、主イエスは「御言葉を語っていた」おられました。御言葉とは福音です。喜びの知らせです。ですから、既にこの場面は、現在の教会の原型のようなものがあったとも言えるのではないでしょうか。

 先週一週間を振り返りまして、先週私は、日曜日の礼拝を除いて8回、聖書の御言葉の取り継ぎさせて頂きました。今週の予定では7回ですからいつもよりは少し楽な週かもしれません。時々、菊池先生は休んでいる暇がないのではないかと心配して下さる方もおられますが、それでも、私も今が人生の旬の時期として、御言葉の取り継ぎをする、そういう時を迎えているのだと思っておりますし、いつかの集まりでも申し上げたことがありましたが、必ずしも毎回違う聖書箇所、違う話をしているわけでもありません。

 数年前のことですが、基本を幼稚園の子ども達に話す聖書箇所として、その前の週に綾瀬ホームの礼拝で同じ聖書箇所で話をする、それから更に同じ箇所をさがみ野ホームで話をする、そして次の週に三回目に幼稚園の子どもたちに話をする。それぞれ話す内容は違うのですが、同じ箇所で話をしますと、はっきりわかるのは、必ず一回目よりも、二回目、二回目よりも、三回目の話が自分でも一番言いたいことや、伝えたい思いを伝えられるのです。思いを伝えられると、そこに喜びが生まれ、福音が伝わっていくのがはっきりとわかります。

 今日の聖書箇所でも私たちは実に何気ない思いで読み過ごしてしまいそうになるのは「イエスが御言葉を語っておられる」という御言葉です。英語の聖書で読みますと、御言葉はワードという言葉が用いられて、そのワードが複数形になってSが付いているのではなく、冠詞がついて、The word となって記されています。それは、「イエスがあの御言葉を語っておられる」という意味です。あの御言葉とは、皆が以前にも聞いたことのある、でも、何度聞いても喜びに溢れる、希望に導かれる、聖霊の力を感じる、あの御言葉という意味になるのだと思います。

 具体的にはマルコによる福音書の中心的な御言葉ともなる1章15節の御言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という御言葉です。主イエスは、大勢の人々を前に、今、時が満ち、神の国はいよいよ近づいているよ、今こそ悔い改めて福音を信じる時が来ていると何度も、何度も人々を前にして告げていたのではないでしょうか。
 その御言葉を聞くために、人々は集まっていたとも言えるだろうと思うのです。だからこそ、尚更この様子は教会の原型のようなものだと思うのです。

 しかし、その時一つの事件が起きました。主イエスが御言葉を語っておられた時に、四人の男性が中風の人を運んでやって来たと言うのです。中風とは脳の血管障害を負った人と考えられますが、元々の言葉から言えば、「体に何かの麻痺がある人」という意味ですから、必ずしも脳に障害があったかどうかはわかりません。ですから病の人が話せたとすれば、なんとか主イエスのところに行きたいと願いつつ、4人の男性、友達であるのか、息子なのか、兄弟なのか、家族なのか、わかりません。あるいは、言葉を話せなかったとしたら、その四人が相談してなんとかして、主イエスのところへ連れていけたならと願って、担架のようなものを準備して連れて来たのではないでしょうか。

 けれど、主イエスの回りにはあまりにも大勢の人々がいて、前に進むことが出来ませんでした。四人はどうしようかと相談したでしょう。そして諦めないで、よし、屋根からつり降ろそうと話がまとまりました。かなり大胆な発想です。あたかも主イエスの御言葉を聞き、礼拝の場のようになっていた所の屋根が壊されて、人がつり降ろされてくるのです。そして、屋根の上から声が聞こえたのではないでしょうか。「イエス様、なんとかその人も癒してやってください。」「イエス様お願いします。」という声です。
 その様子に人々は驚き、主イエスもびっくりされたでしょう。でも、主はその人達の信仰を見て、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と話されました。

 加藤常昭先生のこの箇所の説教を読んでおりましたら、説教題を自分は「救いへの突進」と付けたとありました。それはこの病の人の願いであったかもしれないし、あるいは四人の友達の願いであったかもしれない。けれど、どちらしにしても家の屋根に登って、屋根を壊して、主イエスの前にこの人をつり下ろすほどの思い、まるで突進してくるほどの思い、信仰とはそういうものではないのかと話されています。私も最初にこの文章を読んでおけば、もっとカッコいい説教題を((大笑)
 それはともかく、どんな立派な信仰を語っても、自分は神様の思いを分かっていると言っても、救いの中に飛び込むほどの姿勢がないところで、信仰と呼ばれるに値するものはない。とありました。厳しいとは思いますが、その通りなのだとも思います。

 けれど、だからと言って主イエスは、あなたたちの信仰は大したものだ。しっかり治りなさいと言ったわけではありません。「子よ、あなたの罪は赦される」と告げたのです。
 この罪の赦しの宣言を皆さんはどう思われるでしょうか。この罪の赦しの宣言を聞いて、その場に一緒にいた律法学者の数人が心の中であれこれと考えました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりの他に、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか。」

 主は、そう思っている人がいることにすぐに気が付いて言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪を赦される』 と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいのか。人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。と言われて、「床を担いで家に帰りなさい」と話された時、その人は起き上がって、実際に床を担いで人々の前を出ていったというのです。人々は、皆驚き、「このようなことは、今まで見たことが無い」と言って、神を賛美したとあります。

 さて、皆さん、この一連の出来事で、誰が何を語っているのか、実際は主イエス以外の誰も一言も話しをしているわけではありません。主イエスが1人で話をされて、主以外の言葉は最後の賛美の言葉だけです。でも、人々は主イエスを中心にして、実際は色々なことを考えているのがよくわかります。主イエスの所に集う目的も、御言葉を聞きたいと思って集っている人、とにかくこの病気を癒してもらいたいと願っている人、律法学者のようにこの人は何を言うのだろうかと思いながら集っている人、みんなから行ってみようと誘われて集まってみた人、この方こそはと「救いへの突進」を試みて、屋根に登って穴をあけて、つり降ろす程のことをした人。実に様々です。

 実に様々な一人ひとりが集まって、しかし、そこで主イエスが語るのは「あなたの罪は赦される」という御言葉なのです。私はこの御言葉の意味は深く、大きいと思います。そして、最近特に思いますのは、教会がこの罪の赦しをもっと告げ知らせる場所なのではないのかということです。

 先週の火曜日は、幼稚園のお母さん方と一緒に「聖書に親しむ会」を行いました。その時に話しましたのは、ルカによる福音書の5章からでしたが、マルコによる福音書で言えば、今日の箇所の次の箇所2章13節から17節の箇所を読みました。主イエスが徴税人のレビを見つめられて、私に従いなさいと話された。レビはその言葉に従った。そしてレビの家で食事をしていた時に、ファリサイ派、律法学者が言うのです。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」その時、主はこう答えました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 この箇所をお母さん方と一緒に読みながら、一緒に考えました。罪とは何のことか、罪人とは誰のことなのか、一生懸命に話をしましたが、その後、懇談の時を持ちましたけれど、9時30分から始めて、1時になっても終わりませんでした。なぜか、やっぱり集まって来られる一人ひとりの抱える悩みが深いからだと思います。

 最大の悩みは何といっても、子育てです。幼稚園の子どもに限ることでもなく、その上の子ども、また、家庭、その家庭に夫の関わりがどんなに薄く、また、協力的でないかという話も聞きました。その苦労や辛さを、殆ど涙を流しながら話されるほどなのです。そういう話が1人、2人ではなく、どんどん続きますから、男性の私としては何か追い詰められていくかのようにさえ感じる。でも、話していくうちに少ずつ落ち着いて来る、落ち着いて来るとどうなるかというと、結局の所、子どもの心や行い、夫の心や行いを変えるのはとても難しい、だから自分が変わった方が早いのだと気づいて来るのです。

 でも、やっぱりそれはとても悔しいと思うのです。だから、いつまでも変わらないとも言えるのですが、ですから、必要なことは、皆さん、教会の礼拝に是非お出で下さい。(笑)教会とはどういうところか、そこでこそ、「あなたの罪は赦される」と語られる場所なのですよと申し上げました。申し上げましたが、そこでの反応は、ただニコニコとしておられる感じでした。なぜ、ニコニコとしているのか、自分はそこまで罪を犯してもいないし、罪人でもないと思うからではないかと思います。

 やっぱり悪いのは自分以外の誰かなのです。しかし、余計にそこで足りてないと感じるのは「与えられている恵みに感謝する」ことです。

 若い時、独身の時には、きっと良い伴侶が得られますようにと心から願ったでしょう。その願いが叶えられ、本当にこの人こそとの思いで結婚に至る。結婚に至るまでも色々とありますから結婚式は本当に感動したかもしれません。けれど、それが幸せのピークでもありません。
 更に、幸いなことは、二人に子どもが授かったということです。子どもが授からず辛い思いをしている夫婦は聖書の中に、何度も登場しますけれど、子どもが授かることもまた、どれ程の幸いでありましょうか。

 結婚も出来、子どもが授かり、元気に成長する、時には二人目、三人目と幸いが増してくる。にも関わらず、恵はいつのまにか当たり前であって、恵を恵みとして数えられない所に「罪」があるのかもしれません。自分はこんなにも幸いであったのかと思える心を忘れる時、私たちは罪を犯すのかもしれません。幸いではないのは、あの人のせいであり、この状況のせいであると考え続けていくところに罪があるのではないでしょうか。

 教会はこの世と何が違うのか、それは教会に集う一人ひとりが、ずっと罪に対して敏感だし、自分の中に罪があると思う一人ひとりが集まるところなのだと私は思います。そして、その罪は、自分自身では決して解決することの無い罪なのです。主イエス・キリストの「あなたの罪は赦される」という赦しの宣言が必要なのです。

 主イエスの回りに集まっていた人々、先ほど申し上げましたように、主の御言葉を聞きたいと思っていた人、病気を癒してもらいたいと願っている人、律法学者のような思いで集っている人、行ってみようと誘われて集まってみた人、この方こそはと、突進するようにして集まった人々、この人々の姿は、まさに私たちの教会の姿です。

 けれど、主イエスは、その人がどんな思いで、どんな気持ちで、どんな願いでここに集っているのかをご存じであったと思いますが、それが最大の関心事ではなかったと思います。主の御言葉は、何よりも先に告げられる御言葉は「あなたの罪は赦される」という御言葉であることを忘れてはならないと思います。

 先週は子どもの教会との合同礼拝でしたが、素敵なエンジェルさんの歌声を聞くことが出来ました。今日は9時から通常の礼拝を行いました。私は9時からの子どもの礼拝の時にも、案外難しい話をすると思われていると思います。自分でもそう思う時があります。ですからもっと子ども向きの話をした方が良いのかもしれません。けれど、やっぱり私はたとえば「罪の赦し」を話すのに遠慮してはならないと思います。子どもが罪なんてわからないはずだと思うのは大きな過ちです。むしろ語るべきは自分の中にある自分の大きな罪であり、同時にそれを許す主イエスの御言葉でしょう。

 主の罪の赦しによって、私たちはまた、そこから赦された者として歩みだすことが出来るのです。祝福を告げる者として生きることが出来るのだと思います。
                                                          お祈りいたしましょう。

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