日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の右の御手

2020-10-05 10:19:21 | 礼拝説教
詩編77編1~21節
マルコによる福音書10章13~16節
「神の右の御手」

 昨日の土曜日は、ドレパー記念幼稚園の運動会が行われました。新型コロナウィルスの感染予防に配慮しながら、ご家族の人数制限などあったと思いますし、時間もいつもより短縮された運動会でした。大声の応援も控えて、拍手の応援でした。けれど、それだけに余計に子どもたちが跳ねたり、踊ったり、走ったりする姿が輝いて見えました。
 特に、年長さんが行った全員リレーは、走る子ども、見守る先生も、ご家族も心が一つになる瞬間で、見ていて感動して泣けてきました。
走った子が次の友達にバトンを渡す、またその次の子にバトンを渡す、さらにバトンを渡す。その様子を見ながら、私はきっと信仰生活にとって大切なこと、それはきっと自分達の信仰を次の世代にバトンを渡すことであろう、改めて思いながら子ども達の様子を見ておりました。

 信仰の継承についての話は、実は来週話をする予定ですから、是非、来週もお出で下さればと思います(笑)けれど、私たちが読んでいる聖書は、もともと聖書として記されたわけではありません。時代時代において信仰の道標のようにして必要だった記録や手紙、それが編纂されて聖書となりました。編纂された理由の大きな目的の一つは、やはり次の世代へと信仰の継承の為であったのは間違いありません。
 旧約聖書は、イスラエルの人々が主なる神に導かれ、自分達は神に選ばれた民として歩んで来た、その歴史を次の世代に語り継いでいく、決して平穏ではなかった自分達の歴史を、しかし、主なる神の守りがあったことを、子どもたちに、子孫に語り継ぐために、新約聖書もまた、主イエス・キリストが神の子として誕生され、神の福音を宣べ伝え、祝福を語り、しかし、捕らえられ、十字架刑となったこと。けれど、その三日の後に復活されて、弟子たちに、人々に現れて下さったこと。神の力として聖霊が弟子たちに降った時に、弟子たちは神の力が与えられて、生涯をかけて神の福音を宣べ伝えたこと。その出来事を決して忘れないように、次の世代へと語り継ぐために記され、編纂されたこと、それは確かだと思います。
 
 けれど、自分達の信仰を次の世代に語り継ぐだけではなく、信仰そのものを伝える、バトンを渡していく、それは容易なことではありません。
9時から子どもの教会の礼拝を行っています。こころの所、毎週10人前後の子ども達が集まって下さる。その子ども達と一緒に親御さんも来て下さっています。けれど、必ずしも信仰を持って子ども達を連れてきているわけでもありません。むしろ、親も子も求道者と言っても良い状況です。その一人一人と、子どもの教会の担当者の皆さんは良く、関わりを持って下さり、毎週良い働きをされていますけれど、信仰を語り継ぐのは容易ではないということを、体験として理解しておられるかもしれません。
 
 しかし、それは今のこういう時代だからということでもないと私は思います。恐らくいつの時代も、今も、昔も聖書に記された時代であっても、信仰を次の世代に伝えるのは容易ではなかったと思います。

 なぜ、容易ではないのか、信仰を持った家庭に生まれようとも、そうでなかろうとも、人生のいつかの時点で、信仰を自分のものとする、信仰体験というものを経験する、そのような体験は決定的に大切だと思いますけれど、これは説明や言葉では伝えることが中々難しい、むしろ言葉で説明すればするほど、上手く伝えられない、そういう歯がゆい思いがするものです。

 けれど、だから大切なことがある。神様、神様というけれど、信じたからといって、何か良いことがあるだろうか、と思う人の心を溶かすのは、むしろ人の力ではなく、主なる神がなされることである、このこと忘れてはならないと思います。

 今日は詩編77編を読みました。長い箇所を読みましたが、読みまして分かることはこの詩編の作者は、何らかの苦難を体験していたということです。特に前半を読みますと、「神に向かって声をあげ 助けを求めて叫びます」と、神に助けを求めている様子がわかります。
 その声に「神はわたしに耳を傾けてくださいます」とありますから、神様は聞いておられ、なんらかの慰めを与えられたと思われます。でも、その慰めは詩編の作者にとっては慰めではなかったようです。

 更に苦しみは続き、8節からは「主はとこしえに突き放し 再び喜び迎えてはくださらないのか。主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。約束は代々に断たれてしまったのであろうか。神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」といった嘆き、呻きの思いが綴られている、神は何の解決も与えて下さらないと恨みがまし言葉と言っても良いかもしれません。
 
 けれど、この詩編は11節が一つの山場となります。「わたしは言います。『いと高き神の右の御手は変わり わたしは弱くされてしまった。』この御言葉が一つの鍵となるようです。「神の右の御手は変わり、私は弱くされてしまった」この御言葉をどう読むのか、一見しますと更に悪い方向に向かっているかのようにも読めます。
 けれど、12節以降からは、明らかにこの詩編の作者の思いは変わり、前向きで、希望のある御言葉へと変わっていきます。神の右の御手、この右の御手の意味は何か?

 今日は詩編77編全部を読みましたが、17節以降に記されている出来事は、指導者モーセによって出エジプトを果たしたイスラエルの民が二つに割れた海を渡った場面が記されています。20節に「あなたの道は海の中にあり あなたの通られる道は大水の中にある。」と記されます。
 
 この海を渡った時、神はどうされたか、出エジプトを果たしたイスラエルの民、しかし、出たのは良いが、いつのまにか前には海が、後ろからは、エジプトのファラオの軍団が、前にも行けない、後ろにも戻れない、絶体絶命の時、神はモーセに伝えました。「あなたのその手に持つ杖を高く上げて、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。」モーセが言われた通りにしたら海が分かれ、イスラエルは海の道の道を渡り始めました。前には神の御使い、後ろには雲の柱に守られて進むことが出来たとあります。
 
 全てが渡り終えた時、モーセは上げた手を降ろし、その時海が戻り、そしてエジプト軍は海に飲み込まれ、一人も残りませんでした。

 その後で、モーセとイスラエルの民は神を賛美して喜び歌いました。その讃美の御言葉の中に、「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。主のあなたの右の手は敵を打ち砕く。」とありますが、神の右の御手、それは神の力、敵をも打ち砕く神の力という意味があります。この神の右の手、神の力はまた、別の聖書箇所では「神の守り」、「神の救い」として記されている箇所もあります。
 
 詩編に戻りますが、詩編の作者は、あたかもこの神の右の手が変わったので、私はすっかり弱くされてしまったと嘆いていたのだと思います。けれど、この時、気が付いた、神の右の御手が変わったのではなく、様々な出来事の故に、自分の心が折れ、自分の心が神から離れ、いつのまにか自分自身がすっかり弱くなってしまった。変わったのは神ではなく自分自身であったと気が付いた時、神のあの海が割れる出来事を思い起こしたのではないでしょうか。
 
 自分の人生に、前には海、後ろにはエジプト軍といった、もはやどう見ても、どう考えてもどうにもならないと思うしかない、その時こそ、神の右の御手が高く上げられ、道を備えて下さっていたと思い起こし、そして新たな思いを持って、主を賛美し、神に信頼を置き、心を取り戻していく、その様子が詩編77編に記されている内容です。
 
 主イエスは、幼子を招いて、抱き上げ祝福して話されました。あなたがたも、この幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。昨日の幼稚園の運動会、コロナによる制限の中で行われましたけれど、子どもたちは状況に寄らず、毎年行われる運動会と少しも変わらず全力で走っていました。その笑顔と元気さは、状況に寄らず、です。
 
 主なる神に対する信頼とは、きっと状況によらず、です。どんな時も、神に信頼し、どんな状況でも神に感謝し、生きていく、そのような姿勢を保ち続けていきたいものだと思います。そのような姿勢こそが、次の世代の信仰を確かに育む生き方なのだと思います。私たちも与えられている状況の中で、神を愛し、神を讃え、主の右の御手に信頼し、この新しい一週間を過ごして参りましょう。  お祈りします。

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