日本キリスト教団 大塚平安教会 

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確かな心

2021-04-25 12:30:07 | 礼拝説教
【詩編108編1~7節】
【ローマの信徒への手紙5章6~11節】

 年に四回程発行される「教団ジャーナル」という内部会報誌と言いますか、情報誌といいますか、12頁のものですが教会に届きました。私はあまり丁寧に読む方ではありませんが、説教のページに台湾に宣教師として派遣されている、うすきみどり先生の説教が記されていました。
 
 うすき先生とは、今から25年程前に、日本基督教団と、スイスの教会との宣教協力の一環として、日本からスイスに派遣されたメンバーで一緒になりまして、その後は、殆ど交流が無かったのですが、牧師として台湾の国際日本語教会に派遣されまして、長く台湾で活躍しておられることは知っておりました。

 名前を見て、懐かしく感じながら読みましたが、コロナ禍の中の台湾の教会について記されてありました。まず礼拝を休むことについて、台湾では年に数回礼拝を休む時があるそうです。いつかというと、台風がやって来た時、私達の国も年に数回台風が来て、大きな被害が出ますけれど、それでも教会が休むまではいきません。ですから、うすき先生も牧師一人でも礼拝は守ると意気込んでいたそうですが、台湾に来る台風は凄まじいようで、政府が国民に休むよう指示を出すそうです。命を守ることが大切だと教会員に諭されたとありました。

 マルコによる福音書3章に記されている安息日の礼拝堂に、手の萎えた人が座っていた、その様子を見て主イエスは「真ん中に立ちなさい」と言われた。人々は主イエスを注目していた、そのような人々に主はこう言われました。「安息日に律法で許されていることは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」
 うすき先生はこの箇所から、安息日に律法で許されているのは、何よりも命を救うことではないのか。なんとしても礼拝を守ろうとして、頑なな心となり、命を殺すようなことがあってはならないと告げておられました。私自身が読みながら「ハッと」させられるような思いでありました。

 東京に今日からコロナウィルスによる緊急事態宣言が出されました。神奈川県は分かりませんけれど、大丈夫とは言えないと思います。非常に厳しい状況で私たちは礼拝を守っておりますが、これからも神様から与えられた命を救うために、私たちは祈りつつ、より慎重に行動していかねばならないと改めて思います。
 
 説教はその続きがありまして、記してある文書をそのまま読みますと、こう記されています。
「台湾の政治家は国と民を愛していると、うちの教会の日本人の長老が言われた。国のリーダー達と民が信頼し合い、互いに応援し合いならが働く様に胸があつくなりながら、教会のあり方はどうかと振り返る」

 今、台湾の政治情勢について述べる暇はありませんけれど、「台湾の政治家は国と民を愛している。互いに信頼し、応援し合っている」と説教の中で言える。これは凄いことだと思います。日本の教会の牧師が説教でこんな言葉を言える人がどれだけいるだろうかと思います。
 調べましたが、4月9日時点で、コロナの感染者が累計ですよ、1050人、死者10人、治療中の人33人とありました。そんな状況において、国民は安心して政策を受け入れているともありました。

 国と国民が安心できる、信頼できる、そのような関係を私達の国でも是非と願います。しかしまた、その為にも、この礼拝においては、私たちは主なる神との確かな関係を改めて見直していく、それも大切だと思います。

 今日は詩編108編を読みました。2節からの御言葉にこうあります。「神よ、わたしの心は確かです。わたしは讃美の歌を歌います。「わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」この詩編はダビデの詩とタイトルが付けられていますが、ダビデが主なる神に対する思い、その信頼をより強く、より確かな思いを持って歌い上げている様子が記されています。
 
 詩編108編、特に読みました前半の箇所は、詩編57編からの引用と言われます。詩編57編8節~12節を引用して詩編を作り上げているようです。どうしてそうしたのかよく分かりません。けれど、57編の詩編は、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいた時」というタイトルが付けられた詩編で、より具体的にダビデの様子が分かります。
 
 サムエル記という箇所に記されているのは、ダビデがサウル王の追っ手から逃れて、エン・ゲディと呼ばれる荒野の洞窟にたどり着きます。サウル王にその情報を伝える者があり、サウルは三千人の兵士を率い てダビデを追跡しエン・ゲディの荒野に向かいます。そこでサウルは、気が付かないまま、ダビデが潜んでいた洞窟に一人で入って行くことになります。
ダビデにしてみれば、サウルを仕留めるに、絶好の場面がやって来たのです。ダビデの兵は、今こそ主なる神が与えてくださった時と、サウルを襲いましょうといきり立つのですが、ダビデは彼らを勇めて、危害を加えてはならないと告げるのです。
 そんな出来事に気が付かないまま、洞窟を出たサウルの後を追って、ダビデも洞窟を出て、サウルに声をかけます。「わが主君、王よ。」サウルは驚いて振り向きます。その時ダビデは地に伏して言葉を告げました。「今、あなたを狙おうと思えば、出来たけれど、王よ、私は決してあなたの命を狙うようなことはしない。なぜなら主なる神が油を注がれた方ですから」と訴え出るのです。
 サウルは驚きと共に、ダビデの言葉に感動して涙を流し、「わが子ダビデよ、お前はわたしよりも正しい。お前はわたしに善意をもって対した。今、私は悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立されることになろう」とダビデに告げました。
 
 ダビデはサウル王に追われて、洞窟に隠れていました。いつ見つかるか、いつ殺されるか、神様、絶体絶命です。助けてくださいと必死に祈っていたと思います。けれど一方では、ダビデは自分の心を失ってはいませんでした。むしろ詩編に「神よ、わたしの心は確かです。わたしは讃美の歌をうたいます。」とあるように、与えられている状況によらず、主なる神との関係をより強く、より確かなものへと気持ちを集中し、主なる神に信頼を置き続けていたと思います。
主なる神に対する確かな心、全幅の信頼を持って、サウルに対峙し、主を見上げて生きたからこそ、ダビデが王となる道は開けていったのでありましょう。

 新約聖書ローマの信徒への手紙5章を読みました。8節の御言葉を読みます。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
 キリストがわたしたちのために死んでくださった、それは、ダビデが神を見上げて、サウルを殺してしまうのではなく、サウルの前にひれ伏し、自分が死んで、サウルを生かそうとしたように、神に対する確かな信頼無くしてはなし得ないことだと思います。

 先週、一冊の本を読みました。短いエッセイのような小説でした。その小説の中に、本当にエッセイストの女性が出てきました。その女性はフランスで長く過ごし、フランス人の彼氏がいる。彼氏は毎日、「愛しているよ」「愛しているよ」と言って来るのです。でも、日本人の彼女は、日本人はそんなに簡単に「愛している」などとは言わない、それどころか生涯に一度も言わない人も大勢いるはずだと思い、彼の軽薄さに耐えきれず、ついに決心してフランス人の彼から離れて日本に帰国してしまうのです。
 けれど、それから5年後、フランス人の彼が、彼女を追って日本にやって来て、語学教師をしながら日本で彼女をずっと探し続けていたことが分かるのです。なぜ、分かったのか、その女性が「愛していると日本人は言わない」というエッセイを書いたからです。
 たまたま、その文章を読んだ彼は、自分のことを書いたのではないかと、連絡があり、ついに繋がり、5年の間、彼の「愛している」はゆるぎないものであったと分かり結ばれていくのです。単純と言えば、単純な内容です。
 
 私たちが思う、私達が日頃感じている「愛」はどこかで信用できないものかもしれません。恋人に対しても、家族に対しても、隣人に対しては尚更です。人の愛はめったなことでは信用出来ません。
でも、神の愛は違います。キリストは私達に対して、死ぬほどに、というより、死んでくださったことにより、神の愛を示されました。私達に対して、愛とはこういうことだと教えて下さいました。
 この方の愛無くしては、私たちは、今与えられている状況を乗り越えるのは難しいかもしれません。けれど、既に私達に神の愛は御言葉を通して伝えられているのです。キリストが命を失う程の愛を示してくださって、あなた方は生きろと言われる神を御前にして、感謝して、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。


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