日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2021年3月7日(日)ビデオ礼拝 説教題 「完全に一つとなる」

2021-03-07 09:30:00 | 礼拝説教
2021年3月7日(日)【受難節第3主日 受難の予告】

黙 祷

招 詞 イザヤ書55章6~7節

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。」

讃美歌 495番 「しずけきいのりの」 菊池典子姉



聖 書 旧約聖書 詩編101編1~8節

【ダビデの詩。賛歌。】慈しみと裁きをわたしは歌い/主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。
 2 完全な道について解き明かします。
 いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。3 卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず
4 曲がった心を退け/悪を知ることはありません。5 隠れて友をそしる者を滅ぼし/傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。
 
 6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め/わたしと共に座に着かせ/完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。7 わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

  新約聖書 ヨハネによる福音書17章20~22節

20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

説 教 「完全に一つになる」 菊池丈博牧師



以下、原稿となります。

 「完全に一つとなる」

 おはようございます。先週、「キリスト教文化の歴史」という本を読んでおりましたら、興味深い言葉がありました。それは「薄い皮一枚」という言葉です。
 
 キリスト教の歴史は、イスラエル、エルサレム教会からスタートします。
 その後古代の主要な教会が五つとなります。エルサレム教会、アンテオケア教会、トルコのコンスタンティノープル、アフリカのアレクサンドリア教会、そしてイタリアのローマ教会です。

 けれど、エルサレム教会は次第に衰退し、コンスタンティノープルの教会は正教会となり、ローマ教会はカトリック教会の中心となります。仏教は、インド発祥ですが、インドには殆ど残らず、周辺地域に派生していったように、キリスト教もエルサレムよりは、周辺地域、とりわけヨーロッパ地域において進歩、発展していったことは皆さんもご承知の通りです。
 ヨーロッパはエルサレムから見れば異教徒の地となりますが、そこに福音を宣べ伝えた最初の人が新約聖書に記されているように使徒パウロでした。
 
 今、ヨーロッパは異教徒の地、と申しましたが、パウロによってキリスト教が宣べ伝えられる前にも、西洋のそれぞれの地域に、あるいは民族毎に、様々な信仰の形があったに違いありません。彼らが以前から信じていたところの信仰が、どのようにしてキリスト教の信仰へと移り代わっていったのか、歴史的にも興味深い分野ですが、きっと多くの事柄があり、様々な事件があり、穏便に変化していったということは、少ないかもしれません。

 けれど、どうも、キリスト教が入って来た、だから前の宗教は無くなった、といった単純なことではなく、キリスト教が入って来て、前からあった宗教と上手く融合しながら、次第に地域の人々がキリスト教を受け入れて来たというのが本当ではないかと思われる。そのような意味において前の宗教に「薄い皮一枚」分が重なって、キリスト教が広がっていた、そんな文脈で「薄い皮一枚」という言葉が使用されていて、「なるほど」と私は、非常に納得したような思いになっております。

 20代の頃に、教会に通い始めた頃に、当時の牧師が、こんな話をしました。

 「山に登る道は、色々とあるが、どの道も山頂を目指している、だから、どんな道を歩んでも山頂に到着するように、どんな宗教を信じても、山頂に到着する、ということはありません。キリスト教を信じなければ、山頂には到着しません。」私は、なるほど、そうですかと答えましたが、その時以来、ずっとその言葉にはどこかで違和感がありました。

 本当にそうだろうか、山頂とは何かということは、横に置いておくとしても、キリスト教だけが山の頂に登頂出来て、他は出来ないとはどんな意味なのか、他の宗教と比較すると、抜きんでているとか、優れている、と言えるのだろうか。キリスト教だけが、それ程に崇高なのだろうか。
 私自身が牧師でありながら、そんなことを言うと叱られてしまうかもしれませんが、私は、何かしっくりこないものを感じておりました。
 
 そのしっくりこないものの正体が「薄い皮一枚」という言葉ではなかったかと思ったのです。どのような宗教であろうと、過激的、反社会的な宗教、金銭目的の宗教と呼ばれる偽物を除いてですが、私はどれも基本的には、人の幸せを求め、人に安心を与え、人と人とが平安に過ごせるようにと願い、求めているのではないかと思います。

 私自身、仏壇に手を合わせ、神棚に水を供える両親のもとに生まれました。子どもの頃からそのような姿を見て来ました。子ども心には、そんなことをして何の役に立つのかと思い眺めていたように思いますが、歳を取ると、人の力は、自分が思っていたよりずっと少なく、ずっと弱いものであることが分かったような気がして、両親が見せていた姿は、正しかったかどうかはともかく、間違っていたわけではないと思います。

今思うと、「キリスト教を信じなければ山頂に登れない」と言われた時、自分の過去の全てを否定されたようで悲しかったかもしれません。けれど、だから同時に、悲しいから両親の信仰のように生きたいとは全く思いませんでした。
むしろ、既にその時、自分には主イエス・キリストしかおられないという思いは動かしようもない程に、確信を持っていました。

 でも、それはなぜかというと、日本の文化、伝統、宗教の上に育った私に、主なる神が「薄い皮一枚」のキリスト教を重ねてくださったからだと思います。わずかに「薄い皮一枚」です。されど「薄い皮一枚」です。私は皮一枚の違いであるとしても、それこそが、決定的に大切だろうと思うのです。

 娘が高校を卒業しました。なんとか進路も決まりホッとしていますが、先日、娘が卒業アルバムを見ながら、ポツリと語り掛けてきました。「写真映りが悪い人っているよね。」どうも、自分の写真が気に入らなかったようです。いると思うよ、と言ったら満足そうにしていました。
 考えて見ると、私たちの顔も、体も、皆が似ているようで、皆が違っています。でも何が違っているかといえば、皮一枚分の違いでしかないと言えるかもしれません。体の表面の数ミリ、わずかな違いです。

でも、それが実に決定的な違いであるように、自分達の生き方、私たちの人生も、僅かに、薄い皮一枚分の違いが、圧倒的で、決定的に違うのではないでしょうか。

 今日は詩編101編を読みました。この詩編は久しぶりに「ダビデの詩」というタイトルが付けられていますが、読みますと、ダビデが王として即位した時の詩と言われています。特徴は「完全な道」という言葉が二回登場します。
ダビデは王として、神に対して、またイスラエルの民に対して、完全でありたいと願ったのではないかと思います。最後の8節には「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」と、ダビデがそのように決心した様子を読むことが出来ます。
優れた、良い王でありたい、完全でありたいという思いが滲み出ているように感じます。

 けれど、勿論、私たちは神の御前では完全ではありません。先週も話しましたが、私たちは不完全な者でしかありません。主なる神は、神に僅かに劣る者として人を造られました。この「僅かに劣る」という言葉は、私が持っている聖書の一つに「殆ど天使と同じ程に」と訳されている聖書もありました。
私たちは、天使と変わらない程に、神に愛され造られた存在です。でも、僅かに劣っている、その「僅か」は「薄い皮一枚」分かもしれません。でも、その違いが決定的であって、私たちは、 決して完全にはなれません。
その不完全さは、時には仏壇に手を合わせ、時には神棚に水を供えてしまうような不完全さというよりは、私たちは神に造られ、命与えられ、限りある地上の生涯を生きる人間としての不完全さだと思います。

 キリスト教だけが山頂にと言っても、そのキリスト教ですら、なぜカトリック教会があり、プロテスタント教会があり、正教会があるのか、更には、数えきれない程に、世界中に建てられている教会の礼拝のあり方も、信仰のあり方も、同じ聖書を用いながらも、大きく違いますし、違うだけでもなく、その違いによってどれほど、人の血を流して来たかとも言えます。同じ信仰であるはずなのに、同じ信仰でも、薄い皮一枚の違いが、どれほど人の心を傷つけ、怒りと怒りが衝突してきたかとも言えます。

 そのような私たちにとって、何よりの拠り所は、主イエス・キリストというこの方なのです。この方が誕生され、この方が福音を宣べ伝えられ、この方が十字架に架けられて、この方が復活されたのです。このことを信じる一人一人こそが、どんな地域であろうと、どの国であろうと、どの民族であろうと、どんな風習、習慣であろうと、この方の完全さの前に、一つとされて、神の子どもとされ、神の家族とされている。今日は、新約聖書から、主イエス・キリスト御自身が祈っておられる箇所を読みました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」と祈って下さいました。

 不完全な私たちは完全にはなれません。でも、この方の完全な祈りが、私たちを一つにして下さり、私たちを本当の幸いに導いて下さるのです。神が人の為に、命を惜しまない程に愛して下さった。血を流し、十字架にかけられる程に、慈しんで下さった。やっぱり、私はこの方無しには、生きる術がない、と思うのです。

 お祈りしましょう。

黙 祷



 

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