日本キリスト教団 大塚平安教会  

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成長していく

2018-01-12 16:34:56 | 礼拝説教
【ルカによる福音書2章39~40節】

「成長していく」

 新しい年が始まりました。昨日は1月6日、公現日となりまして2017年のクリスマスも一区切りついたところでの礼拝となりますけれど、御子イエスの誕生は私たちの世界に低きに降る神として、人として誕生された。それは、私たちの人生と共に生きるためであったと、このクリスマスを新たに確認する思いで過ごしましたが、その誕生された御子イエスが、どのように育ち、どのようにして成長していかれたのか、聖書には4つの福音書がありますが、幼子のイエス、少年期のイエスの姿は聖書から読み開くことは出来ません。
 
 聖書として採用されなかった、多くの資料がありまして、外典とか儀典と呼ばれる資料があるのですけれど、例えば「トマスによるイエスの幼児物語」という資料があるそうです。私の手元にはありませんので、孫引きのようになってしまいますが、例えば、5歳の時のイエス様が、河原の泥で雀を作っていたら、その日が安息日でありまして、父親のヨセフがなぜ安息日にそんな遊びをするのかと叱った所、びっくりしたイエス様が泥の雀に「飛んで行け」と言ったら、生きた雀になって飛んで行ってしまったとか、親の手伝いで水ガメに水を汲みに行った時に、途中で水ガメを落として割ってしまうのですけれど、自分が着ていた上着を拡げて、こぼさずに水を運んできたとか、一緒に遊んでいた友達が屋根から落ちて死んでしまい、死んだ子の親が、お前が落としたのだと叱るものですから、その友達を生き返らせて、逆に感謝されたとか、まあ、色々な話があるようです。 

 頭も良く、時には奇跡まで起こしてしまう、時には大人を困らせたり、怒らせたりしてしまう、賢くて気品に満ちていたというより、少し悪ガキのようであったという印象の文章が記されています。ただ資料的には大分後の時代に記されているようですから、学者としては、信ぴょう性は殆ど無いと言う判断なのでしょう。聖書として扱われることはありませんでした。

 成長される際のイエス像は、本当の所を言えば、殆どわからないのだと思います。けれど、聖書として記された数少ないというより、唯一と言ってもよい聖書個所として、本日読まれましたルカによる福音書2章39節、40節、そして今日は読んで頂きませんでしたが41節からの12歳となった少年イエスのいわゆる宮もうでの姿が記されているわけです。

 その中で、今日は、2018年の最初の礼拝として、2章40節の御言葉「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」という御言葉に集中して読んで参りたいと思います。この御言葉は1章80節に記されているザカリヤとエリサベトの子として誕生したヨハネが「幼子は身も心も健やかやに育ち、イスラエルの人々の前に現われるまで荒ら野にいた」という御言葉と対をなしているかのようにも思える御言葉です。

 幼子が、身も心も健やかで、たくましく育つ、知恵に満ち、神の恵みに包まれる。幼稚園の3学期も今週の水曜日から始まりますが、子どもたちを連れて来られる親御さん方、子どもの教会の礼拝に来られる親御さん方、そして、勿論私たちも、自分達の子どもに対してそのように育って欲しいと願わない親はいないでありましょう。

 そして実際のところ、どうすればそのように健やかに育つのかと悩まない親もいないでありましょう。子育て関する書籍は、毎年数えきれない程に出されますし、読んでみればどれも同じように感じるのですが、子どもといえども人間ですから、自分の考えもありますし、知力、体力も、一人ひとりが全く違います。
 
 二日前の金曜日に息子二人と昼に回転ずしを食べに行きましたら、今流行りの人間型ロボットのペッパー君がいまして、受付の接客をしてくれました。びっくりして、どうすればいいのかと思っていましたら、横に人が1人ついて、教えてくれました。だったら最初からその人が接客してくれたらペッパー君いらないのではと(笑)子供たちと余計な心配をして笑いましたが、ロボットは、同じ対応は得意でしょう。でも、人は、子どもでも大人でも、一人ひとり皆、違っている、でもその違いによって、私たち人間社会はとても豊かにされているのだとも思います。

 その違いによって、幼子イエスが、たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていったように、まず、この2018年という年を私たちがそのようにして、皆が違っていて、その違いによって、たくましく、知恵に満ち、神に恵みに包まれる人生を歩んで参りたいものだと思うのです。

 ですから一つ目は、たくましく育つということです。別の聖書で読みますと「成長し、強くなり」と訳されています。
 
 聖書は人間を二つに分けて説明する時があります。すなわち、「肉」と「霊」、体と心と言っても良いでしょう。聖書が記された時代は、人は体と心があって、体はいずれ朽ちるものだから汚れたものであると多くの人が考えていたと言われます。ですから信仰によって心が清いのであれば、汚れた体は何をしてもあまり信仰には影響がないと教えたわけです。グノーシス主義とも呼ばれる考え方ですが、そのような考え方が、社会的な風紀の乱れや、様々な差別主義的思考を増長させていたものと思いますけれど、キリスト教は、そうじゃないよ、体も、心もどっちも大切ですよ。私たちの体も、私たちの心も、神様が造って下さったもの、どちらも神の作品として、どちらも大切ですよと人々に教えました。

 ですから、まずは大切なのは体です。

 今年のお正月は少しゆっくりできまして、正月の三が日を過ごしました。家内の実家にも行って来ましたし、私の兄が家族で、母親に会いに来てくれまして、久しぶりに三味線を弾いて、母親はとてもご機嫌にしておりました。良い時間だったと思いますが、四日になりまして、仕事始めと気持ちを切り替えて、午前中はとにかくデスクワーク、幾つか提出しなければならない資料と原稿がありまして、その作業を終えて、それから私は、幼稚園から頂いたスポーツジムのチケットがありましたので、早速ジムにいって、少しばかりですが運動しました。今年は幾らかでも、体力を付けたい、これが一つの目標でもあります。

 それでジムに行きまして、マットの上でストレッチをしていましたら、隣の人がムキムキの筋肉の人で、もう凄いのです。自分もこういう体つきだったら、もしかしたら考え方も人生も変わっていたのかもしれないなぁ、よっぽど声をかけようかなと思ったのですが、怖そうな方でしたので(笑)遠慮しました。

 私も今週の金曜日で57歳になります。いつの間にかと思うのですが、けれど、だからこそ、神様から預かっている体を大切にしていこう、これが今年の目標の一つです。

 でも、体だけでもありません。第二コリントの信徒への手紙4章16節以下にはこうあります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人は』は日々新たにされていきます。」外なる人とは、体の事です。どんなに丁寧に体をメンテナンスするとしても、スポーツジムに通おうとも、人はどうしても少しずつ体の衰えを感じるものではないでしょうか。体力には自信があると思っている人こそ、特にそうかもしれません。

 新年と言いますが、新しい年、何が新しいのかというと、まず何より新しいのはカレンダーです。でも、その他は、この新年を迎えてまた一つ古くなったとも言えます。4日の午前中に行った作業の一つは県庁に提出する書類作りでした。新会堂となって三年目となりますけれど、三年経てば、少なくとも書類上の価値は、昨年より下がるのです。よく言うとすれば一年一年味わいが出てくるとも言えます。
 でも、古くなるのではなく、ますます豊かに成長するものがある。それが「内なる人」です。すなわち、私たちの心、魂は日ごとに新しくなるこれが聖書のメッセージです。

 その為に、心の栄養をしっかりと取ることです。体の栄養は、睡眠、食事、運動どれも大切でしょう。そのようにして心の栄養も、すなわち、聖書を読み、祈り、教会での信仰の交わりを大切にしながら、心にしっかりと栄養を付けて、元気になって前に進むことですよ。

 この新年に、聞いて驚いたことが一つありました。それは、私たちの教会の玄関にタイル画が貼ってありますね。聖書の物語をデザインしたもので、受付にも葉書がありますので、用いて下さればと願いますけれど、そのデザイナーで、一昨年前の夏ごろでした教会に来て講演もして下さった、甲賀正彦先生、家内の弟になるのですが、大学の先生を止めたというのです。止めてどうするのかと言うと、神学校に行って牧師になると言うのです。え~、本当!? 最初は本当に驚きました。彼はたまたまですが、私と同じ誕生日です。今週の金曜日に52歳になります。もう受験も終えて、来春から神学生ですと笑っていました。

 体も見た目も、大分おじさんのようになったねと夫婦で陰では言っていましたが、まだまだこれから、まだまだ「内なる人」は衰えを知らず、これからいよいよ豊かに成長してこうとしているんだなぁ、本当に思いました。でも、家内が言うのです。あんた、大丈夫なの、あんた美術以外に5は無かったんじゃないの。勉強できるの?必死に引き留めようとするのです。でも、向こうもね、姉ちゃん、だから良いのよ。こんな僕でも牧師になれる、みんなの励ましになると思うよ。からし種程の信仰と言いますが、からし種は種ですから、一つ一つ数えることが出来ますけれど、果たしてその種から、どれほどの実が実るのかは分からないように、きっと限りない程の実が実り、大いに祝福が与えられるように、皆さん、幼子だけではありません。私たちもまた、主イエスに見守られながら、この年、一緒にたくましく育ち、すなわち体も、そして心も「成長し、強く」なっていきたいものだと思います。

 そして「成長し、強く」なるための二つ目、四日の日、午前中に提出する資料を作った後に外の掲示板に貼ってあります「教会案内」の紙が古くなって、古ぼけてしまっていましたから、本当は、しっかりとした板か何かで作りたいのですが、費用も嵩みますから、とりあえず、また印刷して新しい紙で貼り直しました。最初に教会案内の紙を貼って、それから「カウンセリング」をしますよという紙も作り直して、貼っておりました。
 
 ちょうど、その時に若い二人のカップルが通りまして、掲示板を見つめて「この教会、カウンセリングするんだって!」と言うのです。あたかも、釣り竿の最初の糸を垂らした瞬間に魚が釣れたようなものです。(笑)あっという間の凄い反応、こんなことなら毎日貼り替えようか(笑)と思う程ですが、恐らく去年のままでいいかと思っていたら、もう古い餌ですからね、こういう反応は無かったかもしれません。

 カウンセリングをする大切な一つは、何よりも聞くことだと教わります。どんなタイプのカウンセリングの先生もそのことが一番に来るわけです。

 昨年の話ですが、ある方から電話がありまして、相談があるというのです。いらして下さいと話して、話を伺いましたが、職場のことで悩んでいるというのです。職場の人間関係が上手くいかない、だから、辞めようか、どうしようかもう迷っているのというのです。でも、その方の状況を伺うと、正社員でもないし、雇用保険に入っているわけでもない、口約束だけで仕事を始めたようなものだと言うのです。ですから、私は「今日の夜にでも、電話してもう行きません」と言えば、それでいいんじゃないですかと話しました。

 その答えを聞いて、そうですかと言いながら、なぜか、最初からまた同じ話をしだしました。ですから私は、だから「今夜にでも、電話してもう行きません」と言えばいいんじゃないですかと話したわけです。会って話すと、引き留められたり、次が決まるまではやってくれとか言われたり、してしまうかもしれませんから、電話が良いでしょうと話したのです。そしたら、その答えを聞いて、また、最初から同じ話をしだしたのです。皆さん、何が起こっていたのでしょうか。

 簡単です。その人は、聞いて欲しかったのです。自分の悩みや、職場での辛さや、大変さを聞いて、そりゃ大変ですね、そりゃお辛いですよね、え~、そんなことまでされているんですかと、その話を聞いて、驚いたり、受け止めたり、すなわち共感という言葉になるのですが、カウンセリングは共感する作業なんですね。悩みの答えは相談する側が決めることで、相談される側が決めるのではありません。
 
 相談される側が決めるのを「人生相談」と言います。相談して、答えが与えられて、その答えが悪かったら、また相談に来ますから、また違う答えをして、また違っていたら、またやって来て、とならないように、そうか、自分が自分で決めていいんだな。と思って帰ってもらえたらカウンセリングは成功なのです。
 つまりは、私たちは「成長していく」ためには、自分は変わらなければならないと思うのです。変わらないと、こんな自分はダメだ、こんな自分はダメだ、全然成長していないと思うのです。人は不思議なことに今の自分ではない自分になりたいのです。
 
 そして、この世の価値観の中で、1月の花といえば、シクラメンとか、椿とかとありましたが、私は桜だけど、この世は椿、だから椿になりたいと悩むようなものです。無理な自分になりたいのです。むしろ自分が豊かに「成長していく」為に必要なことは、自分は自分で良かった。と思えることです。
自分が自分で良かった、だから、親御さんはあんたはあんたでいいんだよと、しっかりと子育てする必要があるように、主なる神も、あなたはあなたで本当に素晴らしい、あなたこそ私の慰め、祝福の基だよと話して下さる御言葉をしっかりと受け入れることです。あ~、自分で良かったな、そこからまた大きな成長が与えられるのではないでしょうか。

 皆さん、この年、私たちの外なる人を大切に、内なる人を豊かにして、そして、自分ならでの素敵な一年を過ごしましょう。神様の恵みに包まれて、恵み深い一年としてまいりましょう。

 お祈りいたします。
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