日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の中に生きる

2017-07-09 15:51:04 | 礼拝説教
 【エゼキエル書18章25~32節】
 
 旧約聖書エゼキエル書18章という箇所を読んで頂きました。イスラエルの民がその歴史の中で一番苦しかった時代、元々一つのイスラエルでありましたが、あの栄華を極めたソロモンの時代と聖書の中にも登場して参りますが、ソロモン王の後、国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダという国となります。しかし、北イスラエルは200年間、国が続きましたがアッシリアという国との戦いで敗れ、国が崩壊していくことになります。
  
 それから更に200年後、エルサレムを首都として、小さいながらも頑張って来た南ユダもついに人の歴史の中で、強国バビロニアとの戦いにおいて敗れていく。その敗れていく中で、しかし、神のみ言葉を取り次ぎ続けたのがエゼキエルという預言者でありました。
 
 エゼキエル自身も、バビロニア帝国の捕囚の民として連行されて、連れて行かれたその捕虜として生活する場所と時代に、主のみ言葉がエゼキエルに望み、エゼキエルは人々に慰めと励ましを語り続け、どんな困難の中にあっても、希望は失望に終わらないと伝え続けたわけでありました。

 私事ですが、先々週位の時でしたか少し体調を崩しました。若い頃からそういう傾向があるのですが、夜の寝る頃になると、心臓が変な動きをし始めるのです、時々、そういうことが起こるのです。いつもはすぐに治まります。ですから自分で分かっているつもりですから、あまり心配しなかったのですが、けれど、落ち着かない状況が一晩中続き、朝になると治るのです、けれど、夜になるとまた、心臓がおかしな動きをし始める、一晩、二晩と長く続いたのは初めてのことかもしれません。これはね、元気にしていてもダメだし、横になっていると余計にダメだし、病院に行ってもあまり心配ありませんと言われるのでダメなのです。
 こうなると、どうしようもないのです。ですから、もうお祈りするしかない。一生懸命にお祈りするうちに、三日目、四日目となって次第に普通に戻りました。ネットで調べますと、自律神経がいたずらするようにして、そういうことが良くあるのだと書いてありました。ですから年なのかなとも思います。けれど、だからこそ益々、これからも体を大切にしようと思い立ちまして、久しぶりに朝のラジオ体操を復活させて、最近はかしわ台駅を超えて、北部公園まで行ってラジオ体操をするようにしております。

 やれば、やっぱり体調がいいんですね。けれど、そういうことがあると本当に思わされます。私たちの心臓が動いている、当たり前だと思うそのことでさえ、本当はまるで当たり前ではなく、私たちは自分の体のこと、一つとっても自分でどんなに気を付けているとしても、自分の意志だけでは直すことが出来ないのだと思うと、そのことを通しても、私たちの健康も、生活も、全ては神様が関わって下さっているのだと思います。
 
 だからその主なる神が、目には見えないけれど、私たちに命を与え、私たちの心臓もしっかりと動かして下さる方が、私たちに対してエゼキエル書18章31節にありますように「新しい心と新しい霊を造り出せ」と教えて下さるのです。

 イスラエルの民ではありませんけれど、もうこんな状況になってしまって、国会では共謀罪法案も通過して、世界のあちらもこちらではテロ事件が起こり、また、日本は地震も起こり、私たちの国は、私たちのこの地球は一体どこに向かおうとしているのか、益々混迷を深めて来ているではないかと嘆くだけでもなく、何よりも私のこの人生が、とてもこんなはずではなかったと思えるような状況に陥ることさえあるかもしれません。でも、主なる神はあなたがどんな状況にあるとしても私は共にいる、だから、あなたがたよ、あなたがたは「新しい心と新しい霊を造り出しなさい」というのです。

 新しい心、新しい霊を造り出す。心と霊とはどう違うのか、人によって心とはどういうことだ、霊とはどういうことだ、色々と話す方、説明する方がおられますが、なんとなくわかりつつも、けれど、どうも分かりづらい、英語では心をハートと申しますし、霊はスピリットと言いますが、辞書で調べてもその違いが本当になるほどと思えるような説明には中々出会いません。一体どういうことなのか、聖書を丁寧に調べていくうちに分かって来たことは、ここで伝えて言えるのはどうも距離と方向の問題であることが分かって参りました。

 25節ではこうあります。「それなのにお前たちは『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのはお前たちの道ではいのか」ここに記される正しい正しくないと言う言葉は、遠い、近いという意味が込められている言葉のようです。ですから、主の道は正しくないという言葉は、主の道は遠いというのです。イスラエルがバビロニアに敗れ、国が崩壊しようとしている、この状況を体験する中で、あ~神はどこにいかれたのか、神ははるか向こうにいかれたのか、すっかり遠くに行かれてしまったのではないかと嘆いているのです。
 
 けれど、主な神は、あなたは方は神は私たちから遠いと言う。けれど私ではなく、あなた方こそが遠くなっているのではないか。お前たちは遠くの道に行ってしまっているではないか、迷っているのではないかと言っているのです。
 だから、新しい心と新しい霊を造り出すことだ。その意味は、造り出すというよりは、だからその道の向きを変えなさい、私の方向へ、あなたの心を、あなたの霊を私に向き直しなさいと伝えているのです。

 どのようにして向き直すのか、同じ出来事、同じ状況の中で、そのことがマイナスだなぁ、無理だあなぁ、でも神に向き直すと、マイナスと思うそのことさえ、そこから尚プラスとなって希望が与えられるということでしょう。
 
 あの、ポストイットを聞いたことがあるかもしれません。付箋と呼ばれる文房具ですが、私の机の上にもありますし、幼稚園の先生方の机の上にもありますし、大変便利なものです。もともと、アメリカのスリーエムという会社の研究者スペンサーさんが最高に強力な接着剤を作ろうと研究していた時に、たまたま不思議な接着剤が出来たというのです。良くくっつくけれど、はがすことも出来る。しかも結構何回も使用できる。でもね、強力な接着剤をと願っていたわけですから、スペンサーさんからすると、作品としては失敗なのです。あ~変なものになってしまったと嘆きました。
けれど、一緒にいた別の研究員のアート・フライさんという方がいて、この方は教会の聖歌隊のメンバ-だったそうですが、讃美歌を賛美していた時に、挟んでいた栞がはらりと下に落ちてしまって、上手くページを開くことが出来なかった時に、あの張ることも、はがすことも出来るあの接着剤が良い栞代わりになると思って、そのように使用していたそうです。それから数年、ついにポストイットが商品化されたのが1980年の時でありましたが、出来事は同じ、でも、失敗というマイナスに見るのか、こういう使い方も出来るとプラスにするのか。もう、終わりだと思うのか、いや、これからが始まりだと思うのか、新しい思いをもって作り出そうとするのか、心ひとつで全く違った世界がその先にひらかれるようにして、イスラエルの民よ、心を神に向けて、そして新しい心、新しい霊に生きることだ、あなた方は終わりだ、お終いだと思っているだろう、でもそうではない、これからが新しい始まりであることを知れということではないでしょうか。

 だからね、心を神様に向けること。すなわち、心をこの世に向けるのではなく、与えられている状況に捕らえられて、神から離れるのではなく、私に命を与え、私を生かして下さる方との関係を大切にすることです。なぜならこの方こそが、主なる神が、私たちを心と心を交わして下さり、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われる方だからです。

 主なる神は、私たちの誰の死も喜ばないと言われます。勿論、だから長生きすることだということでしょうけれど、でもそれでだけでもないでしょう。生きていても、既に死んでしまっているかのようにしている人もいます。もうダメ、もう無理、つまり毎日、失望しながら生きているというのです。でもね、神の力は、死から命へと向かうのです。
 創世記の最初のページに、神様が天と地を造られる創造物語があります。第一日目、光あれと言われたら、光があって、神様はそれを見て良しとされた。そして夕があり、朝があったとあります。二日目、空と水とが別れなさいと言われたら、そうなって、神様は良しとされたとあります。そして夕があり、朝があったとあります。そのようにして三日目も、四日目も天地創造の出来事が続きますが、いつも夕があって、朝があるのです。一日の終わりが夕ではなくて、一日の最初が夕でそして、朝が来るのです。そのようにして主なる神との関係をしっかりと保人は、夕があり朝がある、だから今この状況は夕方の暗さかもしれない、夜の闇かもしれない、でも、その先に大きな祝福が必ず与えられると、しっかりと受け止めながら生きられる人でありましょう。

 新約聖書マタイによる福音書3章1節から読んで頂きましたが、主イエスがこの世に登場される前に、バプテスマのヨハネという人が現れて、人々に悔い改めの洗礼を授けたとあります。ヨハネは人々にこう伝えました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」そのようにして人々に迫り、その言葉に促されて、多くの人々がヨハネの所にやって来て、洗礼を受けました。そうだな、これまでの自分に死んで、新しい自分に生きますと決意したということでしょう。これまでの自分は神様から離れ、その関係をまるで無いものであるかのようにして生きてきました。スイッチをオフにして関係を絶ってきました。でも、これからは主よ、私はどんなことがあっても、あなたの方向を向いて、あなたとの関係を保ちつつ生きていきます。そう信じて洗礼を受けたのです。主の方向に向き直したのです。

 主なる神の方向に向くために必要なこと、それは悔い改めることです。エゼキエルも同じように人々に伝えました。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てよ」投げ捨てるとはギブアップするということです。人の前にではなく、神の前で、神様降参します。あなたから離れ、今はこのような私です。だから降参しますと、もう自力では行きませんと罪を告白して、そして神から力を得てエネルギーを得て生きていけるのです。

 みなさん、今日の週報にも記していますけれど、教会員のSさんがご自分の自伝を出版されました。日付では昨日6月24日発行です。私は少しフライングしまして木曜日に頂戴しまして、昨日読み切りました。もう本当に感動しました。
 日ごろ、断面的に伺っていたことが、点となり、線となって繋がってよく理解出来ました。当時日本が支配して、朝鮮と呼ばれていた韓国で造り酒屋で誕生されたこと。妹もおられたようですが、1歳で召されたこと、お父さんが戦死されたこと、命がけで一人で帰国されたこと、後から帰国したお母さんと一緒に一生懸命生きたこと。教会で洗礼を受けたこと。高校卒業して苦労して大学へ通われたこと。ご主人のM兄との出会いと結婚、綾瀬ホームでの生活、七人の子どもたちの出産、子育て、そして、町長選挙と全く思いがけなくM兄の逮捕と、もう何か、どの場面でもまるで息を飲むような思いで読まさせて頂きました。
 けれど、どんな状況でも、どんな時でもSさんを支えたのは主なる神のみ言葉と、S家を囲む多くの方々と、そして教会だったんだなと本当に思わされました。ここで、私がくどくどを内容を話しますと、もう読まなくて良いと言われても困りますから、もう話しませんけれど、やっぱり信仰者として、ご主人と共に、家族と共にいつも、どんな時も主なる神への方向を向いて、生きてこられたのだなと深く思わされております。

 でも、私はSさんだけが特別だったわけではないと思います。エゼキエルもそうであったように、与えられた状況がどんなに悲惨であったか、家族は離散し、あるいは殺され、家を焼かれて、食べるものも無い、それが戦争というものでしょう。でも、エゼキエルはそれでもなお、「わたしはだれの死も喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と告げなさいと言われ、人々に声を大きくして語り続けました。
あなたの人生も、あなたの人生も、あなたの人生も、私はよ~く分かっている。だから諦めるのではなく、夕があって朝があるように、死から命へ、私に向き直れと伝えて下さるのです。そんな神の愛を頼りに私たちは生きてまいりましょう。


 

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