日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2021年3月14日(日)ビデオ礼拝 説教題 「神を賛美するために」

2021-03-14 09:30:00 | 礼拝説教
2021年3月14日(日)【受難節第4主日 主の変容】

黙 祷

招 詞 ヨエル書2章12~13節
主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。」

讃美歌 476番「あめなるよろこび」 菊池典子姉


聖 書 旧約聖書 詩編102編1~19節

1 【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】
2 主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。3 苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

4 わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。
5 打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。
6 わたしは呻き 骨は肉にすがりつき 
7 荒れ野のみみずく 廃虚のふくろうのようになった。
8 屋根の上にひとりいる鳥のように わたしは目覚めている。
9 敵は絶えることなくわたしを辱め 嘲る者はわたしによって誓う。
10 わたしはパンに代えて灰を食べ 飲み物には涙を混ぜた。
11 あなたは怒り、憤り わたしを持ち上げて投げ出された。
12 わたしの生涯は移ろう影 草のように枯れて行く。

13 主よ あなたはとこしえの王座についておられます。御名は代々にわたって唱えられます。14 どうか、立ち上がって シオンを憐れんでください。恵みのとき、定められたときが来ました。15 あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み 塵をすら、どれほど慕うことでしょう。

16 国々は主の御名を恐れ 地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。17 主はまことにシオンを再建し 栄光のうちに顕現されます。18 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。

19 後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」
 
新約聖書 コロサイの信徒への手紙3章12~17節

12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。


説 教 「神を賛美するために」



以下 原稿です。
「神を賛美するために」

おはようございます。今日与えられた詩編は102編です。詩編102編は色々と特徴がある詩編です。一つ目の特徴は、なんと言いましても、102編19節の御言葉です。

こう記されています。「後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を讃美するために民は創造された。」

 この御言葉は、私達が使用している「讃美歌21」の最初のページの、一行目に記されている御言葉でもあります。
 その後に文章が続いていますので少し読みます。

「神の民の歴史は讃美歌と共にありました。キリスト者たちは讃美歌によって神の御名と御業の偉大さをたたえ、主イエス・キリストを告白してきました。讃美の声があるところにはいつも聖霊が働き、信仰の交わりが与えられてきました。讃美歌は私たちを信仰に導き、養い育てます。また困難や苦しみ、寂しさを乗り越えさせ、それに立ち向かう勇気を与え、宣教の奉仕へと送り出す力となります。」

 更に文章が続きますが、是非、時間のある時にでも、この文章を御自分で味わいつつ読んでいただきたいと思います。改めて讃美歌の大切さ、賛美する喜びが感じられると思います。
 
 今、私たちはコロナ禍にあり、首都圏の地域は緊急事態宣言が延長されて、私達の教会も、更に2週間、会堂での礼拝再開が延期となりました。
 今、私は本当に、この会堂で皆さんと共に心を込めて、共に讃美の歌声を響かせたい、それだけが今の私の願い、とさえ言えるかもしれない程、その時を心待ちにしています。主を賛美するために創造された私たちが、集まって神を賛美する。それは実に当たり前のことなのではないでしょうか。

 「主を讃美するために民は創造された」この御言葉が詩編102編の中に記されている、とするならば、さぞ詩編102編は神をたたえ、神を喜び、神を信頼する御言葉で溢れているであろうと思うのですが、この詩編の特徴の二つ目は、150ある詩編の中で、特に「七つの悔い改めの詩編」と呼ばれる詩編の一つということです。
 私たちは、この時主イエスの十字架を思う受難節、レントの時を過ごしていますが、古来レントの時にこそこの詩編は読まれてきました。
 悔い改めという言葉は、ヘブル語でメタノイアという言葉です。その意味は、方向を変える、向きを変えるという意味です。
 
 先週、3月11日は、東日本大震災が起こってから10年目の日となりました。テレビを見ていましたら特集の中で、何度も何度も津波の映像が流れていました。この10年間、私たちは折に触れて、そういった映像を見て参りましたが、何度見ても、慣れることなく心が震え、津波がどんなに恐ろしいものかを知らされます。右から水が来たので左に逃げたら、左からも水がやって来る、後ろに逃げようとすると後ろからもやって来る、必死になって逃げても、逃げる方向から水がやってくる。生きるか死ぬかの瀬戸際、ギリギリで映像を取り続けたカメラマンの貴重な映像なども映しだされていました。

 どこに向かえば良いのか分からなくなる、これは本当に恐ろしいことです。
 詩編の作者が抱えていた問題は、自然災害ではありませんが、紀元前587年からのバビロン捕囚の出来事と深く関係していると思われます。
 イスラエルが強国バビロンとの戦いで、破れ、多くの民が捕囚の民として連行されていく、そのような最中にあって、もはや生きていても死んだような状態、全てを失い、明日への希望もなく、打ちひしがれている様子が読み取れます。
 「主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。」という御言葉から始まり、「苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。」と続きます。
 
 更に、この詩編の特徴の三つ目ことは、「わたし」という言葉が連続的に続きます。「わたしの生涯は煙となって消え去る」、「わたしはパンを食べることすら忘れた」、「わたしは呻き、骨は肉にすがりつき 荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうのようになった」。荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうとは、わたし以外の他には誰もいない、わたしを支えるものはなく、孤独に打ちひしがれている様子を表しています。
 「わたしはパンに代えて灰を食べ 飲み物には涙をまぜた。あなたは怒り、憤り わたしを持ち上げて投げ出された。わたしの生涯は移ろう影 草のように枯れていく。」

 このように続きます。「わたし」という詩編の作者が、自分の状態を延々と綴っています。わたしがどんなにみじめで、わたしがどんなに苦しく、わたしがどんなに孤独でいるのか、そして、その原因は「あなたが怒って、わたしを持ち上げて投げ出された」からだと言うのです。原因は「わたし」ではなく、「あなた」である。悪いのは「わたし」ではなく「あなた」である。
 そんなふうに告げているようにも思われます。
 
 私たちも、このような精神状態に追い込まれることが時としてあるかもしれません。
 私自身、牧師として様々な方々の話を伺ったり、相談を受けたりすることが
ありますが、その話や相談とは勿論、多く場合が、悩み、苦しみの相談です。
話す中で、解決するとまではいかないとしても、良い方向に向いていくか、向
いていかないかの分かれ目、分岐点があって、その分岐点に何があるかというと、「わたし」に気持ちが向かっている人と、「わたし」から隣人へと向こうとする人との違いかもしれないと思っています。

 あるいは、「わたし」にのみ気持ちが向かっている人は、悲しみ、辛さのピークと言えるかもしれません。このような時は、「わたし」しか見えませんし、自分の悲しさに自分が飲み込まれていると言えるかもしれません。でも、そのような時期を越えようとする時、気持ちが自分だけに留まらないで、周りに一緒にいてくれた仲間、家族、隣人の姿が目に入って来る。そうなって来た時に、あ~、そうか、自分は一人ぼっちだと思っていたけれど、こんなに一緒にいてくれる人がいたのかと分かって来る、そうすると、状況が大きく変わってきたりするのです。

 ましてや、主なる神が、こんな状況の最中でも、自分と共にいて下さったと思えるとしたら、圧倒的な力となることでしょう。

 信頼出来る人は誰もいない、でも、神様、あなたが共にいて下さったのですね。詩編102編の作者は、後半になればなるほどに、そのような思いが込み上げて来て、先に申し上げたように、「主を賛美するために民は創造された」とまで、心が持持ち上がっていくのです。
心が持ち直し、その人が向かおうとする向きが自分から主なる神へ、そして、仲間へ、隣人へと方向が変わっていくのです。
 
 新約聖書はコロサイの信徒への手紙の3章という箇所を読みました。12節から読みますとこうあります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」
今、ここで多くのことを申し上げるつもりはありませんが、愛されているとは、赦されているとイコールなのではないでしょうか。

 人が「わたし」にのみ「自分」にのみ気持ちが向かっている時、恐らくそこに赦しはありません。こうなったのは、私以外の誰かのせいであり、神様のせいですらあります。原因はけっして「わたし」ではありません。
けれど、そのような者さえも、主なる神はしっかりと赦してくださっていた、私は愛されていた、見捨てられていなかった、一人ではなかった、と思えた時、自然と口から讃美のメロディが流れ出るようにして、生きる方向が、自分に対してではなく、主なる神に対して、そして隣人に対して向き、新鮮な空気を思いっきり吸い込んで、気持ちの良い深呼吸をするようにして、吐き出す息と共に大きな讃美へと変えられていくのです。「わたし」から「わたしたち」へと変えられ、孤独から解放されていくのです。
 皆さん、私たちは、それぞれの場でそれぞれの事情を抱えながら過ごしています。健康状態や、不安や恐れ、あるいは喜び、それぞれにおありでしょう。
でも、わたしたちは、「わたし」ではありません。孤独ではありません。主なる神の民としてこの世を生きています。感謝を持って、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しながら、元気に過ごして参りましょう。

 お祈りします。

黙 祷



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