日本キリスト教団 大塚平安教会 

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イエスのうちに留まる

2022-11-20 14:37:48 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章52~71節】

 ヨハネによる福音書を読み進めておりますが、来週よりクリスマスを前にしたアドヴェントに入ります。アドヴェントにはその時期の聖書箇所を考えていますので、今日の礼拝がヨハネによる福音書のこの年最後に読まれた箇所となります。少し長く読んでいただきましたが、6章の最後までを読んでいただきました。主イエスが人々に対して御自分を証しし続けている箇所です。「私が命のパンである」このことを心にしっかりと収めて欲しいと願っている箇所となります。

 ヨハネによる福音書6章は、これまでの礼拝で数回に亘り読んで来ましたが、主イエスは男だけで五千人の人々、女性や子ども年寄りを入れると一万人とも、それ以上とも考えられる人々に対して五つのパンと二匹の魚から、祈りを持ってそのパンを裂き、魚を分け与えて人々のお腹を満腹にした。いわば主イエスが一つのしるしを見せられた場面から始まりました。
 その場面に立ち合い、また自らのお腹が満腹になった人々は話し合いました。この方を自分達の王としようじゃないか。その様子を察知した主は、山に退き、弟子たちは船に乗ってカファルナウムという町に向かいました。
 
 今日読まれている箇所はその翌日の場面、カファルナウムの会堂での場面です。パンを食べて満腹した人々が主イエスを追って、湖を渡ってやって来ました。何としても主イエスを自分達の王としたいその願いからでた行動でしょう。
 
王とするとはメシア、救い主としてというより、英雄、ヒーローとしたいという思いがあったと思います。古くはイスラエルの最も栄えた時代のダビデ王のように、あるいは紀元前160年ごろに、大国シリアと戦い、勝利してユダヤ教の絶滅を救い、救っただけでなく、短い間だけですがイスラエル王国を築いたユダ・マカバイという英雄がいるのですが、そのマカバイのように、自分達の国の王として、この地上に独立したイスラエルを見せてくれるかもしれない。
自分達は幸せに暮らし、平和にパンを食べられる国を見せてくれるかもしれない。そのような期待を持ったということであろうと思います。地上に生きる私たちにとってそれは自然な願いなのかもしれません。

 けれど、そのような思いを持った人々を前にして主イエスは、「わたしが命のパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(51節)と話されました。
それで、ユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と激しく議論し始めた。それが先ほど読んでいただいた6章52節の御言葉です。

 人々は昨日のパンと魚を食べた喜びが忘れられず主イエスを追って来ました。この方を自分達の王と願い、やって来ました。けれど、主は私が命のパンであると話され、更に私の肉を食べ、わたしの血を飲むことだと話されたわけですから、人々は驚きました。私もこの聖書箇所を読む度に、心が動揺する思いがしますし、そのような思いを持つ方、多いと思います。
 
けれど、個人的な話を申し上げれば、私が小学校5年生の時に、盲腸となり、手術を受けたことがありました。通常であれば術後一週間で退院でしたが、理由は定かではありませんけれど、傷口がふさがりませんで、そこから血が流れ続けました。
 それが何日も続き、医者は輸血をしました。赤十字からの献血もありましたが、今から50年も前の話ですから、隣のベッドに父親が寝て、そこから大きな注射器で血を抜いて、そのまま私の体に入れるということを何度か行いました。それによって私の命が助けられたという経験があります。私の体は父親の血も流れている、そういう恩があると思っています。聖書は血は命だと告げていますが、その思いは私の内には良く理解出来ることです。
 とはいえ、「私の肉を食べ、その血を飲む」過激な言葉であることは違いありません。
 
 ヨハネによる福音書以外の三つの福音者には、それぞれに最後の晩餐と呼ばれる箇所が記されています。主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑とされる前の晩に主は過越しの食事を弟子達と共に取られました。ルカによる福音書を読みますと、その時主はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました。また杯も同じようにして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と話されました。この時、主イエスは御自分の十字架刑について、御自分の命について話されたことを、私たちは知っているわけですが、ヨハネによる福音書には、最後の晩餐の場面が記されていません。ですから、この箇所がそうなのだと考える学者もいるようです。
 
 けれど、仮にそうだとしても、私たちには理解出来るとしても、その時、主の周りで聞いていた人々は、何をどう話しているのか分からなかった、それは確かでしょう。主が話された御言葉は、人々の混乱を増すばかりとなっていました。
ですから私たちが理解しなければならないことは、ここで話される主の御言葉は、いわば比喩的な言葉だということです。主イエスはよく譬話を話され説明されます。「私が天から降って来た命のパンである」とか、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、」とか「このパンを食べる者は永遠に生きる」と話されていることも一つの譬として、比喩的な表現であることを理解しなければなりません。
 
 比喩的にとは、何を言っているのかではなくて、何を言わんとしているのかを理解するということです。言っていることのその背後にある思いを汲み取らなければなりません。主イエスが、私の肉を食べ、わたしの血を飲まなければと言われた思いはなんであるのか、これまで、「私が命のパンである」という意味は「私を信じることだ」という意味だと申し上げて来ました。私はそこに尽きると思います。

 主イエスの肉を食べる、主イエスの血を飲む、それはそのまま、このわたしを信じることだと、表現を変えつつ繰り返して伝えておられると私は思います。
湖の向こうから私を追って来たあなたがたよ、あなたがたは、私を王としたい思いでここまでやって来たことは分かっている。イスラエルの栄光をと願ってやってきたことは分かっている。けれど、何よりも最初に、このわたしを信じることだと告げているのです。

 デンマークの思想家、キルケゴールは「神の国と神の義を求めなさい」という文書にこう記しています。「神の国を求める、それはどのような努力のことであろうか。自分の才能や能力に応じた職を得て、それをまっとうするように気を配るべきであろうか。いや、あなたはまず神の国を求めなさい。では、私は全財産を貧しい人々に与えるべきであろうか。いや、あなたはまず神の国を求めなさい。では、わたしは世に出て行って、この教えを伝えるべきであろうか。いや、まずあなたは神の国を求めなさい。それなら、わたしのなすべきことは何もないのではないだろうか。確かに、まったくその通りである。あなたは最も深い意味であなた自身を無とし、神の前に無となり、口をつぐむことを学ぶべきなのである。」

 何か、禅問答のような受け答えのようにも思いますが、主イエスを信じるとは、私たちがというか、こちら側が何かをなすことではないようです。信じるとは、救い主を用いて国の栄光を取り戻そうとするとか、自分の願いを適えようとすることではないと私たちも理解しますけれど、信じるとは、自分が良い人生を生きるためとか、自分の幸せを願うためのものでもないと言ったら言い過ぎになるのでしょうか。

 もともと、最初は、湖の向こう岸で、主イエスを求めて多くの群衆が集まり、主の御言葉を聞こうとした場面から始まったことでした。主イエスは神の福音を宣べ伝え、神の祝福を示し、その祝福の具体的な一つとしてパンと魚を分け与えてくださいました。しかも、分け隔てなく、その場にいた人々の全てに漏れなく、分かち与えてくださいました。いわば無条件、無尽蔵の神の愛の姿そのものです。パンと魚をいただくためのこちら側の条件は何もないのです。
 一つだけあるとすれば、それはその場に主と共にいたかどうかだけでありましょう。主なる神の祝福は神の側にいる者に与えられます。そのようにしてパンと魚をいただき、満腹した人々は、喜びに溢れ、力を得て、神を賛美しながら、それぞれの場所に戻り元気に生活しようと励みましたというなら、ここでは何も起こらなかったでしょう。
 
 けれど、そのような神の恵みに対して、このことを通して、またこの方をこそ自分達の王としよう、イスラエルの栄光を再びと願った人々が後を追って来たのです。神の思いを越えた人の思いで主イエスを追って来たのです。だから、主は「あなたがたはなによりも信じることだ」と繰り返し伝えられたのだと思います。

 神の思いを越えた人の思いは、人を不幸にします。先日、わが家の夕食の時に、ひょんなことから、子どもたちに対して、私が生まれて来て信じられないと思ったことの最初は、阪神淡路大震災だと話しました。今から27年前の出来事です。あの地震で神戸が燃えた場面を見ました。高速道路が倒れた状況を見ました。こんなことが本当に起るのかと思いました。その次は、2001年に起こった9.11アメリカ、ニューヨークのビルに飛行機が突っ込んだテロ事件でした。あの時も、こんなことが本当に起るなんてと思いました。更に東日本大震災の衝撃、そして、ロシアとウクライナの戦争です。先日はポーランドにミサイルが落ち、一瞬世界中が緊張しました。世界大戦の引金になるかもしれませんでした。というより、ヨーロッパ諸国では既に戦争状態に近い緊張であることも知らされています。
信じられない自然災害が起こる、これは私たちには避けられないかもしれません。でも、人と人との争いは避けられるのではないですか。なぜ避けられないのでしょうか。神の思いを人が越えていくからではないですか。一方では、自分が、自分達こそが、誰よりも光輝きたい、誰よりも偉くなりたい、誰よりも栄光に包まれたいと思う思いが働き、他方ではそれらの人々を見て、妬みや嫉妬から、怒りとなり、怒りが限界を超えた時、人は武器を持つのではないですか。主イエスも、人の妬みと嫉妬から十字架刑にされたことは聖書が記している通りです。

 主イエスは「わたしを信じなさい」と告げているのです。神の恵みと平和が与えられることを信じなさいと告げ続けているのです。人の思いの中にではなく、神を信じる信仰に留まりなさいと告げているのです。けれど、人はそれが出来ません。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。

 自分達の思う通りにならない救い主は、自分達の王となろうとしない輩は、必要無いと思ったのでしょう。主イエスは弟子達にも尋ねました。「あなたがたも離れて行きたいか」その問いに、シモン・ペトロが答えました。「主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
 私たちもこのような御言葉を主に告白していきましょう。私たちはそれぞれに欠けがあり、不足し、罪に生きる者の一人でもあります。だからこそ主に頼るしかない者であります。けれど、そのような者に対して無条件、無尽蔵に恵みと平和を示してくださる方を見つめながら、神の愛に包まれて、共々に信仰生活を歩んで参りましょう。

お祈りいたします。


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