日本キリスト教団 大塚平安教会  

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憐れみ豊かな神

2018-06-26 10:27:17 | 礼拝説教
【エフェソの信徒への手紙2章1~8節】

 先週の木曜日、座間の家庭集会を終えて、私は横浜にあります蒔田教会で、母校の神奈川支部の研修会に参加いたしました。その研修会に先立って、礼拝が執り行われまして、溝の口教会の飯田輝明先生が説教の役割を担って下さいました。「寄留者」という説教題が付けられてありました。

 飯田先生は恐らくですが、60代中頃の先生ではないかと思うのですが、最初、子どもの頃に抱いていた60代という話しをされた、自分が子どもの頃、描いていた60代は既に現役を退いて、朝になったら家のリビングでくつろいで、新聞を手にとってお茶を飲み、子どもや孫に囲まれて寛いでいるであろう自分を想像して楽しみにしていたというのです。それが、神様の導きの中でいつの間にか神学校に入学して、卒業後に赴任した教会は北海道の興部教会というオホーツク海に面している地域の教会でありました。
 私はその頃から飯田先生と、少しの関わりを持っておりましたが、北海道のオホーツク海が見えるような場所の牧師になられるなんて、驚きもして尊敬しておりました。私自身、最初の任地は岩手の花巻ですが、岩手にいても北海道と言われると、寒そうでしり込みしそうな思いになります。神奈川出身の飯田先生ですから本人もまさかこの場所と思われていたかもしれません。けれど、それから10年ほどでしょうか、東京あきる野市にある教会に移って来られました。その頃私も町田におりましたので、同じ地域となりまして何度か顔を合わせて話を交わしたと思います。けれど、それからまた数年で、鹿児島の大きな教会に赴任されていかれたのです。ですから北海道、東京、九州と凄いなと思っておりましたら、数年前に神奈川県の教会に来られた、飯田先生自身、まさか、日本の北から南までこんな風になるなんてと苦笑いされながら、それぞれの教会で起こった出来事や、苦労した話などをされながら、つまりは子どもの頃に描いていた60代と大分違うという話しをされようとしたのだと思います。

 そして、そんな話をされながら、いつでも、またどこにおいても私たちは、信仰者としては本当の故郷は天にあり、多くの信仰の先達がそうであったように地上では寄留者であって、主なる神がおられる天を仰ぎ見ながら、礼拝を守り、礼拝を献げる神の民でありたいものですと話して下さいました。

 話を伺いながら、また、改めて私たちは礼拝する民であると思いを新たにしたわけですが、私たちが礼拝を守る、礼拝を献げる、その意味を思う時に、私たち、特に現代人にとって大切なものは何かというと、最も大切なもの一つに「時間」があると説明した先生がおられました。

 その時間を、誰でも一日24時間与えられている時間を、自分がどのように用いるのか、私たちは意識して、あるいは意識しなくとも一つ一つの行動に優先順位をつけて動いているはずです。ですからその人がどのようにして時間を用いているのかとみていけるとしたら、その人の価値観や考え方まで分かるだろうというのです。
 私たちは毎週日曜日の、この時間に、私たちの時間を取り分けて礼拝にあずかります。それはこの社会の人々に対して、神を中心とする生き方がこの世には存在し、そしてそれを大切に守る民がいることを明かし続けている生き方であると思います。

 ですから、北海道であろうと、九州であろうと、神奈川であろうと、場所の問題ではなく、その場で行われる礼拝そのものが私たちは一体何者かを証明しているのだとも言えるでしょう。

 となると、実は礼拝そのものが伝道であり、宣教であり、逆に考えれば礼拝が疎かにされるとしたら、自分達の信仰が問われ、この世からキリスト教はいい加減な宗教であるとも言われかねません。

 ある「礼拝」についての著作の中に、少し前の話ですが、まだ社会主義国であった頃、ポーランドのワレサ委員長がやってきたというのです。ワレサ委員長を取り囲んだ新聞記者に、ワレサ委員長はクリスチャンでしたので、しきりに礼拝の時間を気にして、教会のある場所や時間をしつこく聞いて来たというのです。ですから一人の記者が、「ポーランドは社会主義国なのに、どうしてあなたは日本の礼拝の時間をそんなに気にされるのか」と聞いたそうです。そしたら「はい、でも、あなたの信じる宗教は何ですか」と逆に問い返された記者が答えに詰まっていたら、「私は何を信じてあなたは生きているのか、という意味で聞いているのですが」と更に問われて、更に答えに詰まってしまった記者を見て「人間がものを信じないで生きているという意味が、私にはよく分からない、あ、申し訳ない、もしかしたら時差と通訳のまずさで、私はあなたの質問の意味を取り違えているのかもしれません。」と言ったというのです。

 この話は、同志社大学で教えておられる越川弘英先生が記した著書の中で紹介されている話ですが、越川先生は現代の日本人だけの問題でもないと記しながら、現代人は、それが「なんの役にたつのか」あるいは「役にたたないのか」によって分ける一つの尺度があるのではないかと指摘します。この指摘が意味することは、神は自分にとって役に立つのか、役に立たないのか、神から自分が得るものは何か、私は礼拝によって何を得ることが出来るのかが中心となっているのではないかとありました。

 いつの間にか、人が神に対して礼拝を献げる基準が、自分の役に立つのか、立たないのかになっているとしたら私たちは大切な物を見失っているのではないでしょうか。ルカによる福音書の17章11節以降に「重い皮膚病を患っている十人をいやす」という物語があります。主イエスがエルサレムに向かう途中に、重い皮膚病を患っている十人の人が主イエスを出迎えて、けれど近くには近寄れないものですから、遠くから大きな声で「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶのです。主イエスは深い憐れみを示されて、彼らに対して「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」と告げます。そう言われた彼らが祭司の所に向かっていく途中で、自分達の病がいやされたことを知り喜ぶのですが、たった一人だけが大声で神を賛美しながら主イエスの所へ戻ってきました。そして主イエスの足元にひれ伏して感謝しました。その姿を見て主は「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」と告げて、その一人を立たせて「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と告げたという話しがあります。

 自分の願いが適った途端に神の憐れみを忘れてしまう人の姿を、そこに見るような思いも致します。

 今日読まれました聖書箇所はエフェソの信徒への手紙の2章という箇所です。その4節から読みますとこうあります。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストを共に生かし、あなたがたの救われたのは恵によるのです。キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」

 私たちがなぜ礼拝を献げるのか?その目的の一つは「神の憐れみを希う」ところにあるのではないでしょうか。古来、礼拝は、大きく分けて五つに分けて成り立っていました。一つが主に憐れみを希う、キリエ。二番目が神の栄光をたたえるグローリア。三番目が、信仰を告白するクレド。四番目が感謝を意味する、サンクトゥス。そして五つ目が平和を願う、アニュス・デイ。 神の子羊と訳される言葉です。それぞれが役割を持って、賛美の歌声に合わせ、また、み言葉が読まれ、聖餐式が執り行われ、感謝と平和を願い、派遣されていくという礼拝です。

 プロテスタント教会も、基本的にはそのような流れに準じて礼拝を守っているわけですが、私個人としては、キリエあるいは、キリエ・エレイソンと呼ばれる「主よ、憐れみ給え」と願う場面がプロテスタント教会の礼拝の中で、少し薄くなっているのかもしれないと思います。

 ですから、私たちは尚更、主なる神、主イエスに対して「主よ、憐れみ給え」という思いを持って礼拝を献げたいと思うのです。

 それでは具体的に「主の憐れみ」とは何か、エフェソ書は、一つは「神の愛を意味している」と告げています。二つ目は、「罪に死んでいていた私たちをキリストと共に生かしてくださった」ということです。
ここで言われている神の憐れみ、神の愛とは何か、私たちが礼拝を献げ、み言葉を聞き、執り成しの言葉を聞くのですが、私たちが願うところは、やはりどこかで御言葉を聞きながら、自分が成長していくように、自分がより大きなっていくように、と願うところがあると思います。良い人生を生きていきたいと願いますし、困ったこと、悩んでいることが解決するのであればと願いながら礼拝を守っている、勿論、それが悪いわけではありません。

 でも、神の憐れみ、神の愛は、そのような人の思いとはまるで方向が逆で、私たちはどこかであたかも、自分が神のようになりたい、神のように生きたいとまでは思わないとしても、様々な面において大きくなりたい、成長したいと願う、しかし、神は、神ご自身であることを執着せずに、遜って、徹底的に謙遜になられて、そして、私たちに神の愛が分かるようにと主イエス・キリストをこの世に与えて下さった、そこに神の憐れみがあるのだということではないでしょうか。

 二日前の金曜日の研修会、元々のテーマは「牧師自身のメンタルケア」という内容でした。先ほど紹介した越川先生は、現代の日本人の宗教感覚、あるいはより広く言えば人生観、価値観は、悪い意味での「現実主義」や、「合理主義」また「物質主義」、「商業主義」、「功利主義」といったものに毒されているように思われる、とありました。牧師も人間ですから、そういった考え方に落ち込んでいくことが良くある。私などはその典型かもしれませんが、例えば「教会における成果主義」という言葉があります。

 牧師として赴任する、そうした中で例えば礼拝出席者がどんどん減っていくとなればどうしでしょうか。中々そういうこともあるさとは牧師も考えないし、教会の皆さんもそうは考えないかもしれません。一般的には高齢化社会と言われますからとか、実際そうであることは間違いないとしても、だからと言って全ての教会で人が減っているわけでもありませんも。
 一概にやむを得ないとは言えないところもあります。あるいは、牧師のイメージという話しもありました。牧師自身が考えているところの牧師のイメージや、教会の皆さんが考えているところの牧師のイメージがあります。それが大きく乖離しているとしたら、そのギャップに苦しむことになったりするのです。

 その研修会で、思いがけなく、もしかしたら二十年ぶり位でお会いした先生がおりまして、どうしているのと聞きましたら、4月から神奈川に来たというのです。久しぶりですから、それぞれの近況なども話しまして嬉しい再会でした。でも、私の顔をまじまじと見つめながら一言、言われました。「先生、ひげ、教会からなんか言われないの」(笑)「いや~、特別何も言われませんよ。陰では言われているかもしれませんけど」(笑)「でももともとイケメンだから大丈夫ですよ」(笑)と言ったら、笑っておられました。やっぱり牧師はこうあるべきみたいなものが、人の心の中にあって、その基準が大切と思うものだと思います。

 そして、その基準、自分の、また人の心の中で作り出してしまっていて、あたかもその人の律法のようになっている基準に添っているのか、添っていないのかによって喜んだり、苦しんだりするものだと思います。人は「~でなければならない。」「牧師は~ではならない。」「信仰者は~でなければならない。」勿論、それが人を確かな福音へ、また、生きる力へと導くものであるならば、とても良いと思います。けれど時として、その心の律法を用いて人が人を裁き始める時、何も牧師に限ることではなく、人は時として壁にぶつかり、心悩み、人と距離を置き、あるいは燃え尽きたようになり、力を失うことも多くあるのではないでしょうか。

 そのようにして「自分はダメだ」「自分はダメだ」と思うだけでなく、「あの人もダメだ」「この人も出来ていない」「あの人もわかっていない」と裁くようになっていくときに、そこに神の憐れみが忘れ去られていくのだろうと思います。

 主イエスは、私たちを憐れんでくださいます。神が人となるほどに大きな憐れみを持って私たちと接してくださり、誰が、何をどう言おうとも、お前はダメだ、と人は言うかもしれない。でも、あなたはダメじゃない。あなたはダメじゃない、その神の愛を伝えるために、神が人となって下さいました。


 町田の教会におりました時に、牧師として決断しなければならないひとつのことがありまして、でも、どうしても決断できない。右だろうか、左だろうか、もう祈っても、祈ってもわからない。そういう時には自分は一人ではないからと考え直して、先輩の牧師に相談したのです。一人の先輩に相談しましたら、菊池君それは右じゃないのと言われて、やっぱり右かなと思った。でも、もう一人の先輩に相談したら、菊池君それは左じゃないのと言われたものですから、それからの悩みは更に深くなってしまって、最後に、この方ならばと相談した方がおりました。そしたら、その方がどう話したのか。「なるほど、それは悩むねぇ、大変だねぇ、でも、右でも左でも菊池君なら成功する。私はそう思う。だってあなたはいつも精いっぱいやっている、私はそれを良く知っているもの。」
 皆さん、キリストと共に生かし、キリストと共に復活させる、その言葉でまた力が与えられたのです。そこでまた、復活人生が与えるのです。

 皆さん、誰があなたの気持ちがわからないとしても、主なる神はその憐れみを持って、私たちと共にいて下さり、キリストと共に生かして下さり、キリストと共に復活させて下さいます。かならず時が与えられ、神の最善がみられるのだと信じて、私たちはこの一週間も過ごしてまいりましょう。

お祈りいたします。


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