日本キリスト教団 大塚平安教会 

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願いの通りに

2017-03-02 11:23:44 | 礼拝説教
 今日の説教のタイトルを「願いの通りに」といたしました。現代の若者の悩みの一つは自分の「願い」は何かということであろうと思います。
 先週の火曜日、幼稚園主催の家庭教育講演会がありました。私がお話しをさせていただきましたが、「子育ての勇気」というタイトルで話しました。2時間半話の時間、一瞬のような時間でした。何を話したか、そんなに難しいことではありません。「子どもは誰のために生きるのでしょうか。」と皆さんに聞きました。最初意味が分からなかったようですが、次第に、子どもは子どものために、つまり、自分の為に生きると思います。と答えがありました。その通りです。子育てをしていると、いつの間にか気がつかないうちに、親は子どもを支配してしまうような時があるのです。
そうすると、子どもは親の顔を伺いながら生きるようになる。のびのびと、自信を持って生きていけない子どもになりますから、出来るだけ自立してけるように育てて行きましょうと話しました。
 
 私たちが生きる現代社会は、テレビやネットが本当に普及しておりまして、どの家にもテレビがあり、私も良く見ておりますけれど、最近恐ろしいと思うのは、テレビを見ている時間は完全に自分の心がテレビの中に支配されてしまうということです。見ているドラマ、ニュース、ドキュメント、勿論、感動する、力を与えられるといった番組も少なくないと思いますが、いつの間にか、自分の心が支配されている、つまり、自分で考えることをやめてしまっていると感じるのです。もしかしたら、現代は自分で考えない社会かもしれない。それは、自分はどう生きるのか、と言うシンプルでありながらも、非常に大切な思考を思いめぐらすことが極端に少なくなっている社会ではないかと思うのです。
 
 自分はどう生きるのか、どんな願いがあるのか、どう願っているのか、それは、何も若者だけが考えれば良いことではないと思います。30代なら、30代で、40代なら、40代で、60代なら、60代で、80代なら80代で、それぞれが生きている時代で、今、自分はどう生きようとしているのか、自分の願いは何か、それが恐らく、より明確になっている人であればあるほどに、より充実した一日を過ごされているのだろうと思います。
 
 早くも2週間前になりましたが、私たちの教会は「キリスト教の死生観」について学びました。その中で私は、中高年期における八つの危機というお話をいたしました。中高年になると様々な危機があります。一つは時間意識の危機がありますよ、一つは対人関係の危機がありますよ、一つは価値観の危機がありますよ、一つは思い煩いの危機がありますよ、色々な危機についてお話をさせていただきましたが、その中の一つに、「平凡な人生の危機」についての話をさせていただきました。
 子育てが終わる、仕事が定年になる、子どもたちは家から出ていく、あたかも残されたかのような父と母の、その人生は、往々にして、毎日が同じことの繰り返しとなることがあります。やるべき仕事も特になく、家庭も平凡な日々が続く、本当は幸いなことだと思いますけれど、時として次第に生きる意欲や喜びが感じられなくなってきて、次第に、倦怠感や怠惰な生活へと向かう危険性がありますよと話しました。
今から思うと、私の母親の人生も、一番下の弟が結婚して巣立っていってしまった時が一つの危機だったのもしれません。もしかしたら、その頃から既に物覚えが悪くなってきた兆候があったのかなとも思います。
 
 私たちの人生は決して平凡ではないし、生きていることがどんなに素晴らしいのかに気づいて、気づいたなら、更に豊かに生きていこうと願う。だから、私たちはやっぱり自分はどう生きていこうとするのか、考える時間が必要だと思います。テレビを消して、パソコンを閉じて、自分が心から願っている願いは何かを、自分自身に問いかける、祈りにも似た時間が大切なのではないでしょうか。

 その願いについて聖書はどう記しているのか? それが今日読んで頂いたマタイによる福音書15章28節に主イエスが婦人に語り掛けている御言葉「あなたの願いのとおりになるように」すなわち、キリスト教の信仰とは、「願いは適えられるのだ」ということであろうと思うのです。

 けれど、その願い、ただ願っているだけでも適えられない、このカナンの女の信仰という箇所を読むときに、その願いは、願い続け、祈り続けることが如何に大切かと私たちに教えているのだと思います。

 ここに登場する女性、自分の娘が悪霊にひどく苦しめられている状況です。
 恐らくこれまで何度も何度も、悪霊を追い出してもらえそうだと思われる場所、思われる人の所に行っては、どうか娘を助けてほしい、何とか娘を救って欲しいと願っていたことでしょう。けれど、その度に裏切られるかのようにして、良い結果は与えられませんでした。でも、それでも終わりではない、必ず、どこかで、誰かが癒して下さるに違いない、そう願いつつ、諦めずにこの女性は生きて来たのだと思います。もう切なる願いを持ち続けていたものと思います。そして、ついにその時が来たのです。

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方にいかれたとあります。ティルスとシドンといいますのは、聖書の裏についている地図でみてもはっきりとわかりますように、ユダヤ地域ではなく、ユダヤ人からみれば異邦人が住んでいる場所です、福音書の中にあっても、主がこの場所に来られたのは今日の聖書箇所と、同じ内容の記事が記されているマルコの7章にしかありません。主はなぜ、ここに来られたのか、マルコによれば、より明らかになっています。誰にも知られないために、すなわち、恐らく休息を取りたかったのです。

 これまで、主イエスはユダヤの各地方を巡りながら、福音を宣べ伝え続けました。弟子たちも一緒です。けれど、ご自分の故郷であるナザレで、どんなに福音を語っても、受け入れてもらえない苦労を経験されます。すぐその後で、主は、ご自分の先駆者として、あのヨルダン川で洗礼を授けていたバブテスマのヨハネが捕らえられ、捕らえられただけでなく、首がはねられたという知らせを聞くことになります。主はその知らせを聞いて一人静かな時間をと願ったのでしょう。舟に乗って一人で人里離れた所に向かおうとされましたけれど、群衆はそれを許しませんでした。
人々が主の後を追って、御言葉を聞くために、癒しの業を求めて、逆にどんどん集まって来るのです。その姿を見た主は、人々を憐れに思い、語り掛け、癒しの業を行い、更には五つのパンと二匹の魚で人々の空腹を満たします。
やっとひと段落ついて、今度は、弟子たちだけを舟に乗せて向こう岸に送り出し、群衆は解散させて、今度こそはと、一人で祈るために山に向かうのです。ところが、湖に出た弟子たちの船が嵐に遭っていた。主は湖の上を歩いて救出に向かいます。するとペトロが、私も湖の上を歩きたいと申し出て、その願いをかなえようとしますが、ペトロは恐れと疑いによって上手く歩くことが出来ませんでした。
 
 この辺りのことは、マタイの13章、14章に記されているわけですが、主イエスに対して、人々は要求につぐ要求、この方が一体誰なのか、ということにはあまり関心がなく、むしろ、自分達の願いをとにかく叶えて欲しいと願う人々の願いをかなえ続ける主も、少し疲れを感じたのではないでしょうか。そこで主は考えられた。人里離れた、すなわちユダヤの人々がいない、ティルスとシドンに向かわれて、ご自分の休息としようとされたのではないかと思うのです。

 けれど、その場においても、一つの出来事が起こりました。それが今日読まれた箇所となるわけです。カナンの女性が現れます。この言葉は二重の意味で差別的です。一つはカナンという言葉、旧約聖書以来、カナン人はイスラエルの民にとっては敵であり、決して仲良くしてはならない人々でありました。仲良くしてはならないどころかユダヤ人からみれば、カナン人は汚れた人々でありました。更に女性である。当時、女性であるということだけで、生きていくために多くの困難がありました。ここで詳しく説明する必要もないでしょう。しかも、恐らく悪霊に取りつかれた、すなわち何等かの障害を負っている娘の母親であるというだけでもどんなにか大変であったのか。現代でも尚、その大変さは、ずっと進行形の形をして続いていると言っても少しも過言ではないと思います。
 
 アメリカのある女性牧師は、このカナンの女の信仰の箇所について、もしこの箇所が聖書日課の朗読箇所として指定されていなければ丸ごと読み飛ばしたくなるような、そういう箇所の一つだと紹介しました。なぜならこの箇所は、主イエスが、必死に助けを求めている女性に対して、いかにも辛辣な言葉を語り、いかにも冷酷で失礼極まりない態度でおられ、必死に助けを求めにやってきたこの人に応答することを拒み、続いて、「あなたのような輩」に与えるものはないと否定し、挙句の果てに彼女を犬になぞることをさえする。いかにも主イエスらしくない、つまり非常に人間臭い態度を取り続けるからだと説明します。
 さらに言えば、ここで主イエスがなさろうとしているのは一つの線を引くことだと説明します。線を引くとは、神学用語というよりは心理学用語の中に「境界線」という言葉がありますが、英語ではボーダーラインです。トランプ大統領がメキシコとの間に壁を作ると言って物議を醸しだしていますけれど、トランプ大統領としては、メキシコはメキシコでやってくれ、アメリカはアメリカでやるからということでしょう。もう面倒かけないでほしいということかもしれません。

 だから、そのようにして主イエスは誠の神であると同時に、誠の人として、少なくとも疲れを覚えておられた。そのことは否定できないと思います。ユダヤの人々に対して語り続ける福音、示し続ける業を行えば行う程に、実際、人々は集まって来ました。この様子は確かに主イエスの働きが成功しているかのようにも思います。

 れど、人々は更に要求し続けるのです。大切なことはこの要求は主イエスとは一体誰か?ということについての関心は無いのです。
教会にも様々な電話が来ます。ここ数年悩まされてきていた電話の一つは、東京の国立国会図書館のだれだれですが、というのです。何か大事な用事かと思って聞いていますと、東日本大震災の時の写真資料を一冊の本にしたから買ってくれというのです。いくらですからと聞くと一冊2万円というのです。そんなお金はありませんから、要りませんというと、次第に怒りだすのです。それでも教会なのかというのです。そして必ず言う、あなた鈴木さんでしょう。分かっていますよ。あなた鈴木さんでしょう。恐らく、鈴木先生も大分悩まされてきたのではないでしょうか、私が来て何年経っても鈴木さんでしょうと言いますから、古い資料を使っているのだと思いますけれど、けれど、相手の関心があるのは、教会でもなく、私でもなく、本の内容でもなく、大震災でもなく、お金ですよ。ただ、これだけですよ。
そんな相手を相手にする時間ももったいないですから、私は電話に相手の電話番号からは着信しないようにしました。ですから一年以上一度もかかって来ませんのでほっとしています。

 自分が自分であるために、私たちは線を引くことも大切だとも思います。牧師の仲間内でも、心の病気になる牧師が少なくありません。その原因の一つは牧師故に、人と上手く線を引くことが出来ないからだと言うこともできるかもしれません。
 そのようにして、主イエスもこの女性に一つの線を引こうとされたのだろうとアメリカの女性牧師は説明しておりました。

 けれど、なぜ、主イエスともあろう方が一人のしかも悲しみに溢れた女性に対して線を引こうとされたのか、一体本当に主イエスは、女性の願いを拒絶されたのでしょうか?
 私はこの女性の最初の言葉「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫んだと言う言葉に心がひかれます。主よ、ダビデの子よ。この「ダビデの子」と叫ぶ言葉は、特別な意味があります。「ダビデの子」とは救い主、メシアであるという証しです。実際、主イエスに対して、ユダヤの人々こそが、あなたは誰であるのか、「私達の救い主、メシアです」と語らなければならなかったはずの言葉を、今ここで、しかもユダヤ人からではなく、このカナン人の女性の口を通して叫び声として主は聞いたのです。この女性こそが、主イエスの誠の姿を言い当てたのです。
その叫びを聞いてユダヤ人も、カナン人さえも驚いたと思うその信仰の告白、主も驚いたと思うのです。と、同時にどれほどの思いをもってそう叫んだのかと考えたのではないでしょうか。
 
 その叫びは更に、25節になり、女性は来て、主イエスの前にひれ伏して「主よ、どうかお助け下さい」と願う姿となります。この「お助け下さい」という言葉は「悲鳴のような叫び」だそうです。もし、誰かが川に落ちて、助けてくれと叫んでいたとするなら、その人がユダヤ人なら助けるけれど、カナン人は助けないとわけではないでしょう。何人であろうとその命を助けようとする、そのような「助けてくれ」という悲鳴をもって、この女性は迫りました。既に、この時、主はこの女性の願いを適えようとしたと私は思います。
けれどなお、もう一言話された。「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」しかし、直ちに女性は応答しました。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」主の福音は、ユダヤ人だけのものかもしれません。けれど、その福音はユダヤ人を超えて、私たちカナン人にも、他の異邦人にも与えられるダビデの子としての、あなたが携えている福音は、それほど豊かなものではないのですかと答えたような見事な受け答えをこの女性はしたのだと思います。

 主はこの時、思わず笑顔になったと思います。そして「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とついに告げて下さいました。皆さん、この女性の願いはついにかなえられました。この女性が必死に叫び、願ったからです。あたかも何度も、何度も否定され続けられたかのように思える現実を前に、尚、諦めず、前に出て、更に祈って、自分の願いを願い求め続けたからです。
そしてその願いは、自分の為にも、娘の為にも、主の為にも、弟子たちの為にも、全て関わりを持つ人々が最も良かったという形で成就されたのだと思います。

 私たちも私たちのそれぞれの願いがあります。そしてその願いがかなえられるようにと、祈り続け、願い続け、時には叫ぶこともあるかもしれません。けれど、その願いが適えられる時とは、その願いに関わりを持つ全ての人が、最も良いと思える時なのではないでしょうか。ですから皆さん、諦めないことです。主我と共にいます。その信仰を頼りに、私たちも共々に歩んで参りましょう。 
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