日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の力

2017-04-12 19:18:58 | 礼拝説教

【コリントの信徒への手紙一1章18~25節】

【マタイによる福音書27章32~56節】

「神の力」

 今日から受難週の一週間が始まりました。マタイによる福音書から、主イエスが十字架につけられていく場面が読まれました。主イエスの十字架が何を示しているのか、一言で言い表すとするならば、今日、もう一個所読んで頂きましたコリントの信徒への手紙1章18節の御言葉であろうと思うのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

 十字架の言葉とは、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられる、その時、十字架の上で話された七つの言葉というものがあります。その言葉について言っていると説明される方もいます。

 マタイによる福音書においては「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主が叫ばれたとあります。この言葉は七つの内の四番目の言葉であると言われます。伝統的には主が十字架の上で詩編の22編の言葉を用いたのだとも言われます。

「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」で始まる詩編22編は「暁の雌鹿に合わせて」というタイトルが付けられていまして、雌鹿とは旧約聖書のエステルのことだと言われます。旧約聖書エステル記に記されるユダヤの美しい物語の中で、ユダヤ民族為に、命を懸けて時の王と交渉したエステルの孤独が記されているのだと言われます。しかしその交渉は見事に成功し、ユダヤ民の命が守られていくように、詩編22編は「お見捨てになるのか」という嘆きで始まりながらも、徐々に神への感謝へと移行して、後半になればなるほどに神が称えられ、「わたしの魂は必ず命を得て、子孫は神に仕え、神の恵みの御業を子孫に告げ知らせるでしょう」という言葉で閉じていく。そのようにして主イエスもまた、十字架の上につけられても、尚主なる神を称えようとした御言葉だとも言われます。

 十字架につけられてなお、主を称え、主こそわが神と祈り続ける信仰、そんな信仰は愚かだと笑われるかもしれない。けれど、神の救いに預かる者にとってはそこにこそ救いがある。

 ここに神の壮大な人々に対する福音が記されているのだとコリント書は記したのではないでしょうか。

 けれど、また、「十字架の言葉」とは、主が話された七つの言葉に限ったことでもないでしょう。むしろ、この礼拝堂の正面にも十字架が掲げられていますが、この十字架はただデザインではなく、主イエスが十字架へ向かいつつも、地上の生涯、福音宣教を行われる中で人々に話されたすべての言葉を示していると考えても良いのではないでしょうか。

 その十字架の言葉、聖書の御言葉、そんなもの自分の人生に必要ない、そんなキリスト教の教えなど聞く耳を持たない、パウロが伝道旅行の中でアテネに行ったときに、アテネの人々はパウロが語る、主イエスの十字架と復活の話を聞いて、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったとありますが、主イエス・キリストの十字架と復活、関心の無い人々には、なんと愚かな言葉であろうとか聞く耳持たなかったということでしょう。

 けれど、自分の人生において、自分自身の人生の中で、聖書のこの御言葉によって自分は生きていこう、主の語られたこの御言葉によって自分は支えられている。折に触れ、人生のここだという場面でしっかりと用いて、自分の心に、自分の健康に、自分の生き方に、精神状況に活用する人にとって、そうだ、神様の守りが自分の内にあるのだから、昨日よりも、今日、今日よりも明日を、精一杯に生きていこう、と思う者にとって、すなわち私たちにとってはまさに神の力となっていくのだと思うのです。

  先日、一人の新聞記者の質問に答えて怒って、出ていけと怒ってしまった大臣がいました。福島原発の事故の中で、自主避難している方々に対応する政府の姿勢に、批判的に突っ込まれて怒りが爆発したのだと思います。なんで我慢できなかったのか、なんで怒って暴言を吐いたのか、大臣失格だとか、色々と言われていますが、私は、大臣は自分のプライドが傷つけられたと感じたのではないかなと思いました。

 私たちは自分のうちに知らず知らずのうちにプライドとか自尊心があります。良くも悪くもプライドの無い人はいないのです。けれど、この大臣ではありませんが、生きていく中で、どうも上手くいかないな、どうもよくないなと思うような時に、もしかしたら自分のプライドが邪魔しているということがあるのだと思います。

 大臣だけではありません。牧師こそプライドだらけかもしれません。3月の末に幼稚園の理事会、評議員会がありまして、評議員としてお願いしている古旗先生(目白教会牧師)、森田先生(元横須賀本牧教会牧師)、服部先生(伊勢原教会牧師)が来て下さいました。委員会の後に場所を移しまして、消息を尋ねつつ暫く楽しく話をしました。色々な話をするなかで、その細かい話をここでするのは止めますがが、つくづく思わされたのは牧師がプライドを持つとどうもよくない方向に向くのではないかと改めて思わされたわけでありました。一つだけ話すとすれば、私が大塚平安教会でこうして役割が与えられている、ありがたいと本当に思っておりますけれど、そんな会話の中で古旗先生が会堂建築のこともあり、少しばかり褒めて下さった、菊池君はよく頑張っていると思いますよ。そう褒められると嬉しいものです。けれど、すかさず、服部先生がこう言われたのです。菊池さんは前の教会で苦労されたから、その時の苦労があってのことじゃないですか。その苦労を当時、私は時々、服部先生に愚痴って、こぼしていましたから服部先生は良くそのことを知っているのです。

ですから、その言葉は私にとって図星なのです。本当にそうだなと思いました。家内も私も複雑で色々な思いを持ちながら前の教会で過ごしました。そんな中でもね、その前の教会から時々この教会の礼拝に来て下さる方がおられるのは、そういう苦労を知っていて、そして、一生懸命に支えて下さった方々ばかりです。ですから本当にありがたいと思います。

 でもその時に、服部先生が話された菊池さんは苦労したからという言葉を聞いて、図星でありながら、図星だからこそ、恥ずかしいと思いました。ですから、すぐにそうんなんだよね~という言葉が出て来ないのです。なぜか、恥ずかしいと思ったのは、自分のプライドがズキっとしたからです。そんな泥臭い苦労話などしたくない、いつもスマートに生きていきたいと思う、そんなプライドなど捨ててしまえばよいのに、なかなか捨てられないのです。

 今、世界が非常に険悪なムードになっています。世の指導者たちが互いに不信感と、不満を持ち始めていることは明らかです。そして、本当に戦争状態が起こるかもしれません。そうならないようにと心から祈っていきたいと思いますけれど、何が原因なのか、経済的なこと、民族的なこと、あるいは宗教的なこともあるかもしれません。けれど、どの国の指導者もみながものすごいプライドを持っていて、そのプライドが傷つけられたと思った時が本当に危ないと思う。

 よその国の人の命より自分の、自分達のプライドが大切、それがこの世の中なのだとさえ思わされます。誰かが、いや、誰もが自分のプライドを捨ててと思うところでは、少なくとも戦闘状態は起こらないはずだ思うのですが、違うでしょうか。プライドを捨てるとは卑屈になるということではありません。戦後日本の失敗は戦争に負けたことによって、一億総ざんげというような言葉を用いて、戦争を起こした責任のある者を正しく罰するわけでもなく、あるいは潔く間違いを受け止める作業が不十分なまま卑屈になっていたのかもしれないと思います。でも、プライドを捨てるとはそういう卑屈になる、下をむくこととはまったく違います。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」この言葉は何を意味しているのか、神の子主イエス・キリストが神のプライドを捨てて、最もみじめな姿になって、十字架に付けられて、人々からあざけられて、見捨てられるようにして死んでいった。そして、それは、神の子だからというよりは、私たちの救いの為に、自らのプライドを完全に捨てたということではないですか。

 この神の子としてのプライドを捨てて、十字架の言葉として何を示して下さったのか、「神の愛」ですよ。しかも徹底的で、いつまでも尽きぬ泉のように湧き出て来る無尽蔵の神の愛が示されていると思います。

  先週の金曜日、幼稚園の始業式が行われました。金曜日、私はさがみ野ホームでの礼拝がありますので、どうしても途中から参加するのですが、ですから私の役割は決まっておりまして、幼稚園の年間の説明や報告が終わった10時30分ごろから、11時近くまでお母さん、お父さんの保護者の皆さんへのメッセージの時間です。一部では子どもたちが教室から出て来るまでの、時間調整の時間とも言われます。(笑)それはどちらでも良いのです。凡そ20分の間、一生懸命に話をさせて頂きます。

そこで話しましたことも、プライドと関係があります。皆さんよ、子育てしていると本当に親の思い通りにはいかないということがわかります。だから大事なことは、親の言う通りに生きろとか、こうしなさいとか、あ~しなさいとか、そういう言葉ではありませんよ。キリスト教は言葉の宗教と言われますからね。ですから勿論言葉も大切です。でも、言葉一つどう用いるかによって子どもも、大人も元気が出たり、傷ついたりするものなのです。と話しました。

特にこの傷つくのは、支配と比較することによってです。兄弟が二人いたとする。お兄ちゃんはこんなに出来たのになんでお前は出来ないのかと言ってごらんなさい。その言葉にどんなに子どもが傷つくことか、支配されるようにして育った子どもはどうなるのか、「お父さん、私はこう思うけれど」「あ~なるほどそう思うのか」とちゃんと受け止めてもらえずに、聞いてもらえず支配されている子どもは、支配されるようにして育てられると、子どもの心の中がどうなるのかという、自分は不十分な者、価値の無いもの、自分はダメだ、自分はダメだ、と思うのです。ですからどこまでいっても自分自身の確かな自信を持つことが出来ず、沢山の重荷を負うことになるのです。 

だから、皆さんよ、大切に、大切にその人にとって益となる言葉、力となる言葉、喜びとなる言葉でもって子育てして下さいね。と申しました。でも、それだけでも足りないのです。

 皆さん、「十字架の言葉」と聖書にあります。十字架の言葉、その意味は、主イエスが話された十字架上の言葉かもしれません。けれど、この十字架の言葉は、言葉を超えていくものですよ。むしろ、何をどう話そうとも、時には比較してしまい、時には支配しまおうとも、その言葉を超えて、あなたの存在がどんなにか愛おしいかと思う愛があるなら、いや、その愛こそが言葉を超えて伝わるのですよと申しました。

 どんな状況にあっても、どんな環境にあっても、伝わるのはその言葉を話す、言葉の背後にある思い、その思いが言葉をかける相手を慈しみ、その人を大切にする思いから出ているのであれば言葉を超えて十分に思いが伝わるのだと思うのです。十字架の言葉は、主イエス・キリストの愛の形です。この愛によって私たちは救われました。

神の救いがここに示された。そのような愛、それが神の力なのだと思います。

  そして、そのような神の力が今のこのような世の中にどうしても必要なメッセージだと思うのです。昨日、息子が聞いてきました。「お父さん、なんか戦争が始まるんじゃないの、どうすれば平和になるの」「う~ん、そうだな、もしかしたら宇宙から敵が攻めて来たら人間は一つになれるかな」「でも、宇宙の敵が来たら、あっというまにやられてしまうかもね。」「そうだね、だからダメだね」

 だから、戦いでは平和は与えられないのです。どうしたら平和が与えられるのか、十字架の言葉の本当の姿である主イエス・キリストは、誰の為でもなく、世界中の神に似せて作られた人間、つまり、全ての人の為の十字架であったということを知ることです。

 私たちは神に似せて作られているのです、だから日本人も、中国人も、アメリカ人も、更にはあらゆる民族、あらゆる宗教をも超えて、主イエス・キリストはユダヤ人も、異邦人をも超えて、神の愛、神の力を示し続けておられることを、私たちはしっかりと受け止めつつ、また、そのことを発信していく神の力が与えられることを願いながら、平和を思い、神の愛に生きながら、この受難週を過ごして参りましょう。

 

 

 


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