日本キリスト教団 大塚平安教会  

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愛に怖れがない

2018-04-22 18:03:00 | 礼拝説教
【ヨハネの手紙一 4章13~21節】
【ヨハネによる福音書13章31~35節】

 本日は、お知らせしておりますように礼拝後、教会総会が開催されます。会員の皆様には総会資料が先週配られましたので、お読みの方もおられるかと思います。主なる神のお働きと皆さまのお祈りの中で、昨年度の一年も守られて過ごすことが出来たと思っております。大塚平安教会の総会資料は本当に立派な資料で、名前は出しませんが、私が洗礼を受けた教会では総会と言いましても手元に殆ど資料らしきものも配られることもなく、あっという間に終わっていたことを思いますと、資料を見ただけでもすごいなと思います。資料を見てみますと、それぞれの会が一年間、本当に一生懸命に奉仕して下さり、豊かな成果を上げて下さっていることが良く分かります。
 
 その中で私が昨年一年、思うように伸びないままに終わったかなと思っているのが、週報の裏面に印刷されていますが、テレフォン・メッセージの働きだろうと思うのです。
 
 テレフォン・メッセージは既に鈴木伸治先生の時代に行われていたわけですが、私が赴任して参りまして、そのまま受け継いだわけですが、どうも年々聞いて下さる方の数が減っていくのです。ここ2~3年は特にその数が減っていっているのがわかります。何が悪いのかなと考えていたのですが、今の時代、携帯電話が完全に普及しまして、まさに一人に一台の時代のようになってですね、誰でも聞こうと思えば聞けるはずだと思うのですが、けれど逆にメールだけで事を済ましてしまうようになっていますから、電話をかけるということ自体が減っているのではないか、そうするとテレフォン・メッセージという伝道方法は時代的にそぐわないのでないか、と、色々と考えたりいたしました。
 
 それで、2018年度は、止めてみようかなと思いまして役員会で相談いたしました。そうしたら、ある役員が「鈴木先生は毎週、メッセージを入れていましたよ。」と言うのです。つまり私よりもずっと頑張っていましたよ、そして、だから、止めるなということです。(笑)
 
 それでですね、私も思い直しまして、2018年度はとにかく、毎週メッセージを入れてみようと決心しました。とはいえ、まだ4月で始まったばかりですが(笑)今週まで、毎週新しいものを入れているわけです。
 
 けれど、毎週メッセージを入れるのはなかなか大変です。何か長く続くコツのようなものはないかと考えました。そこで思いつきましたのが、また週報になりますが、子どもの教会の礼拝の欄の下に掲載されているショート・メッセージ。このショート・メッセージは9時からの礼拝の聖書箇所に添って私が毎週記しているメッセージですけれど、このメッセージは、まだ何か生かし切れていないように感じていたものですから、このメッセージをテレフォン・メッセージ用にアレンジして活用してみようと思いつきました。

 それで、今週の週報には何を記したのかというと、子どもの教会の聖書箇所はルカによる福音書9章23節の御言葉、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とあります。

 先週の礼拝では、主イエスが「私は羊のために命を捨てる」と言われた箇所から御言葉のとり継ぎをさせていただきましたが、この「捨てる」という言葉はとても強い言葉ですと申し上げましたが、その主がルカによる福音書では「わたしについて来たい者は、自分を捨てて」と話されているのです。主イエスも私たちのために命を捨てて、私たちもまた主の後に従うために、自分を捨てて。この自分を捨てるというのもなかなか、強い言葉だと思ったのです。

 自分を捨てるとはどういうことだろうか、そこで思いついたことを週報にも記しましたが、次男のKがまだ3歳ぐらいの頃だったと思うのです。娘が生まれて間もない頃でしたから、次男と私が一緒の布団に寝ていたのですが、Kがひどい風邪をひきまして、咳はするわ、鼻水は出るわ、熱はあるわ、大変でした。私も毎日を忙しく過ごしておりましたので、一緒に寝て風邪を移されたら大変だと思いまして、Kを腕枕するのですが、出来るだけ自分と遠くの方に寄せて、私は自分の腕と反対側に顔を向けて寝ようとしたわけです。

 けれど、そういう時というのは不思議なことに、まあ、泣き止まない。咳はするわ、苦しそうにしているわ、泣き止まないわ、こっちも泣きたい程なのですけれど、いくら待っても泣き止まないものですから、こっちも決心して、風邪が移っても仕方ないとばかりに、顔を向き直して、Kをしっかりと抱きしめると、それが不思議と泣き止んだわけですよ。
 ほどなくしてスヤスヤと寝てしまいましたという話しをですね、まあ、今週は既に話してしまいましたから、皆さん、電話はしなくても良いのです。(笑)

 何を申し上げたいのかと言いますと、「自分を捨てる」とは「捨て身になる」ということではないかと思うのです。捨て身になってこそ、そこで初めて物事が進み、暗闇だと思っていた状況の中に、一筋の光が差し込んでくるのではないかと思います。

 本日は、ヨハネの手紙という箇所を読んでいただきましたが、4章18節には「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」と記されています。つまり、逆に考えれば何かの状況で「恐れ」が起こると、そこに愛が無くなるということではないでしょうか。

 聖書は旧約聖書も、新約聖書も、ひたすらに「恐れるな」と記します。新共同訳聖書の中では、少なくとも44回「恐れるな」と記されてあります。その最初の「恐れるな」は創世記のアブラハムに対して、二度目は申命記の中でイスラエルに対して、三度目は士師記の中で、士師であるギデオンに対して、四度目はサムエルがイスラエルの民に対して「恐れるな」と言うのです。なぜ、恐れるな、と告げるのか、恐れが起こると、そこに愛が無くなるからです。

 ジェラルド・ジャンポルスキーという世界的に知られている精神科医の先生がおられて、先生の著書の中で一番売れているのが薄い本ですが「愛とは、恐れを手放すこと」というタイトルの本があります。

 そこにこう記されています。
「怖れと愛を同時に経験することはできません。どちらの感情を望むかは、つねに私たちが選ぶのです。怖れではなく愛を選び続けることで、人とのかかわりの性質や本質を変えることが出来るのです。」この言葉の意味は本当に深いと思います。

 その著書に、こんな話が記されています。ある時、ジャンポルスキー先生は精神科病の隔離病棟の患者が突然暴れだしたと連絡を受けました。行ってみると、身長が190㎝、体重130㎏はあろうかという男性が暴れているというのです。力ではかないません。ですから遠くで見守るしかないのですが、けれど、見ている内に気が付いて来たそうです。その患者はとても恐れているのではないか。だから先生は話しかけました。「私は医者のジャンポルスキーだ。部屋に入って君の力になりたいが、怖いんだよ。けがをさせられるんじゃないかと思うと怖いし、きみがけがをするんじゃないかというのも怖い、もしかしてきみも怖いんじゃないかと思っているんだがどうだろう。」
すると、その男性は少し大人しくなって、先生の顔を見て言ったそうです。「あんたの言うとおりだよ、俺も怖いんだ」

 最初、二人が話している会話は怒鳴っているかのようだったそうですが、次第に患者の男性が落ち着いてきて、だんだん静かになり、最終的には薬を飲ませることが出来、部屋をでることが出来たとありました。

 この話は医者が上手く患者をおとなしくさせたという面もあると思いますが、実は、医者の方が患者に「怖い」という思いを告げて助けを求めたとき、彼は私と一体になってくれたのだと説明してありました。
 恐れの中では人は一体になれません。一つになれるのはやはり捨て身の愛の力ではないでしょうか。

 愛には恐れがない。なぜなら「神は愛だからです。」先ほど、聖書の中の恐れるなという箇所を申しましたが、聖書の中で、最初に登場する恐れた場面は創世記の3章に記されています。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」というこの場面です。食べてはいけないと言われたエデンの園の木の実を食べた後のことです。

 彼らは知恵の実を食べたと言われますが、人は神が本来望まれなかったところの知恵や知識、それこそが「恐れ」ではないでしょうか。人を愛する知恵ではなく、人を恐れる知恵や知識は同時に神をも恐れるようです。
しかも、その恐れは神から離れていこうとする力ではないでしょうか。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とコリント書にもあります。

 先ほど、ヨハネによる福音書13章を読んでいただきました。ユダが出て言ったという場面から読んでいただきましたが。なぜ、出ていったのかというと、主イエスを裏切るために出ていったのです。この場面はいわゆる最後の晩餐と呼ばれる場面のクライマックスのような場面です。
 主は既に御自分がこれから、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑になるということをご存知だったと思います。けれど、もし、そこから逃れようとしたのなら、まだ時間はあったと思います。しかし、この時、既に主イエスの思いは決まっていました。
 
 そして、いわば弟子たちに遺言のようにして話し始めます。その一つが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
 主イエスの十字架と復活の出来事は、私たちが恐れではなく、愛に生きるようになるためでありました。そして愛とは何かを弟子たちに示すためにも、主はそこから逃げるのではなく、まさに捨て身になって、ご自身を捨てて、愛とは何かを示して下さいました。
 けれど、弟子たちは恐れました。恐れたから皆が逃げてしまいました。でも、それで全てが終わったわけではありません。主イエスは復活され、弟子たちの前に現れて下さいました。その出来事は主イエスご自身の復活であると同時に、弟子たちもまた主の前に死から復活へ、絶望から希望へ、恐れから愛へ、離れていくことから、繋がっていくことへの人生を歩むことになるわけです。

 恐れに生きる人生ではなく、愛を生きる人生を選択して、弟子たちは主イエス・キリストの福音を宣べ伝える人生を歩む一人一人となっていくのです。

 「互いに愛し合いなさい。」この主イエスの掟は、私たちの教会にとっても大切な教えです。今日の教会総会において、私たちは2018年度の歩みを力強く歩みだそうとしています。昨年度は天に召されて行かれた兄弟、姉妹もおられました。けれど、天におられるとしても、地にあるとしても全ては主のもの、その主の栄光をいつでも、どんな時でも宣べ伝える働きを私たちは止めるわけにはいきません。

 昨年より、今年、今年より、来年へと向かって、私たちは神の愛を一方の手でしっかりとつかみ、愛に満ちて、もう片方の手を隣人へと伸ばして互いに愛し合っていきましょう。どんな時も大丈夫と平安へと導いて下さる主に感謝して、主に従って歩んでまいりましょう。

お祈りいたします。
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きいて!きいて!
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