日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

いつでも、どんなときも

2020-09-14 09:49:29 | クリスマス
【詩編74編1~17節】
【ペトロの手紙一 3章13~17節】

 牧師が礼拝で説教する。それは当たり前のことです。私は神学校を卒業して教会に派遣され、数えると25年目を迎えております。25年の中で、来週の礼拝を休みますと告げたことは、恐らく無かったと思います。10数年前に、町田の教会で、幼稚園の運動会で金曜日に足を骨折して、そのまま病院に運ばれて入院したことがありました。

 土曜日の内に、信頼のおける牧師に電話して礼拝説教をお願いしたことがありました。大塚平安教会では、四、五年前にインフルエンザと分かったのが金曜日、朝に病院に行きましてインフルエンザと診断されて、そのまま教会に向かって、週報を作り終えて力尽きました。後はもう寝ているしかありませんでした。
 その時は、教会の役員のどなたかに代わりに説教を受け持っていただこうと思いまして、電話しようとしましたが、誰もが驚き、誰もが断るだろうと推測して、きっと断らないだろう人がいる。今、神学校に通っておられるSさんに、説教してと、無理にお願いして、引き受けますと、言われてからは、安心して、ぐっする寝ることが出来ました。特別伝道礼拝の日に、説教者が来なかった、遅れて来ましたけれども、そんなこともありました。
 
 色々なことがありましたが、礼拝そのものを行わない、そういう時が来るとは思ったことはありませんでした。風邪のような症状が出て、金曜日にPCR検査を受けて、検査結果が月曜日、ですからどうしても礼拝を行うことが出来ないであろう。そのように考えまして、役員の皆さんに協力していただき休みとさせて頂きました。結果としては月曜日の朝に、陰性ですということでホットしたわけですが、でも、その金曜、土曜、日曜と生きているここちがない訳です。
 体の具合も良くなるわけでもなく、特に夜になるとまさに、まんじりともしない。夜、布団に寝ながら、もし陽性ですと言われたらどうなるのかな。
どう見ても軽症でだろうから、病院ではなくホテルに連れて行かれるだろうか、ホテルのご飯は美味しいのだろうか、でも、家族はどうなるのか、教会はどうなるのか、まあ気持ちが落ち着かない。祈って心を落ち着かせる以外にないわけです。
 昔の偉い学者は「牧師は礼拝で説教する。しかし、神は生活の現実の中で説教する」と記しました。その人、その人に与えられているその場所、状況の中で、主なる神がそこで説教して下さる。それは私たちにとって幸いなことだと思います。
 
 今日は詩編の74編を読みました。その16節にこうあります。「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。」
 天地創造の神は、私たちに昼も夜も造って下さった。日曜日の朝、昼の時間に私たちは礼拝を守ります。コロナウィルスの感染拡大を防ぐ努力を行いながらも、静かなこの明るい昼の時間に、穏やかな空気が流れる、初めて来られる方には木の香りがするとさえ言われる礼拝堂で礼拝を献げることが出来る。まことに幸いなことだと思います。神がこの場におられる、そのように感じながら過ごせる礼拝です。

 勿論、ここにも主なる神はおられます。しかし、ここにだけにおられるわけではありません。私たちの生きるその場所、その状況の中におられる。しかも、私たちの昼の人生、すなわち、幸いな時に共にいてくださるのは勿論ですが、しかし、最も神様が共におられるのは、私たちの人生の夜、辛い時、苦しい時にこそおられるのではないでしょうか。
 
 先ほどの学者はこうも伝えました。「病人が深夜12時に寝ている、その病床の夜の時間は、どんな偉大な説教者よりも、神は強力に説教するのである。」
 私はこの言葉が良くわかるような思いがします。私たちの人生の夜にこそ、主なる神は直接的に私たちに語り掛けて下さるのだろうと思います。
 
 私たちの人生の歩み、誰もが願うことですけれど、昼の間、光の中で、光の子として歩んでいけるならばまことに幸いです。しかし、必ずと言える程に、私たちには夜だな、暗いな、先が見えないなと思う時がやって来ます。
 コロナの影響を強く受けながら、今、世界中が混乱の中にある、こんなことになるとは誰も想像していませんでした。旅行関係の会社、レストラン、食堂、ホテル、観光業界の方々などは、経済的にやっていけるかどうか、というところまで追い込まれていると言われます。命の危機とも言えるでしょう。

 それは他人事でもなく、私たちの人生にも大きく影響しているとも言えるでしょう。だから主よ、どうか、私たちに夜を与えないでくださいと祈る必要もあるかもしれません。

 でも、聖書を読みますと「昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです」とあります。「夜もあなたのもの」それは、たとえ、夜が与えられるとしても、夜もまた、主が備えられたものとして、しっかりと夜を生きなさい、ということではないでしょうか。

 しかしなぜ、私たちの人生に夜がやってくるのか、エフェソ書3章には16節にパウロが祈っている御言葉があります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように。」私たちの内なる人が弱る時、内なる土台が弱る時、その人に夜がやって来るのだろうと思います。
 
 先週の礼拝で、韓国の方で、御家族3人がやって来られた。
 その前の前の週にもやって来られましたが、私が具合悪くなる前でしたけれど、電話がありまして、いつも仕事で教会の前を車で通っているから、いつか礼拝に来たいと思っていたというのです。
是非、お出で下さいと申し上げましたが、でも、話を聞いていきますと、どうもコロナの影響で仕事が無くなったというのです。それは大変ですねと申し上げましたら、それで相談ですが、先生、教会でキムチ売れますか?と聞いてくるわけです。キムチですか、まあ、その流れでダメですとも言えず、礼拝終わったら売れると思うから持って来てみてと申しましたら喜んで来て下さいました。皆さん買って下さって、優しいから、喜んで先週も来られました。今日は来てません。
毎週来たら、売れるものも売れなくなるからと、話しましたら、他所の教会でにも行って見ると話していました。

でもね、先週の方々に限らず、教会というところには、色々な人がやって来られます。先日は他所の教会に行っていたけれど、そこで辛い目にあって相談に来ましたという方もおられました。今朝ほども、あるお母さんから、「相談があります、時間ありますか」と言われました。あまり詳しく話せませんけれど、実に色々な方がこの場にやって来られます。なぜやって来られるのか。内なる土台が弱って来るからです。内なる土台が崩れそうになっているからです。
 
 そんな一人一人がやって来られた時に、皆さんならどうされますか?どうぞ、この昼の明るい教会にお出で下さいましたと話されるでしょう。

 先ほど、ペトロの手紙というところを読みました。3章15節にこうあります。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい、」とあります。
 
 皆さんなら「夜だな、暗いなと思っている方よ、ここに来ればキリストを主とあがめる希望があるよ」と伝えて下さるでしょう。主イエス・キリストは人間の最大の夜である、死という暗闇から復活という希望を示して下さいました。人の目から見たら完全にお終いだと思える死、のその先にもまだ希望があると教えて下さいました。
 
 夜だな~と思っている人の多くは希望を見失っています。将来が見えなくなっています。もう無理だと思っています。人はそういった罪を背負っていると言ってもいいかもしれません。神様と出会う前には、私もそういった夜を、ずっと過ごしていました。

 でも、その夜のその先に、神の光を見つけ、昼の明るい礼拝堂でこうして礼拝を献げることが出来る幸いを生きていますと、私たちは伝えることが出来るでありましょう。あなたも共に喜びの笑顔を生きることができると、主にある希望を伝えることが出来るでありましょう。昼も夜も、どんな時も私たちは主の恵の中を過ごして参りましょう。

 お祈りします。
 
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