日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主よ、あなたは私の避けどころ

2019-05-30 15:31:23 | 礼拝説教
【詩編7編1~18節】
【マタイによる福音書5章38~42節】

 詩編の7編を読んでいただきました。1節に小さな文字で表題として状況が記されています。「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの。」

 ベニヤミン人でクシュという人物は旧約聖書には登場しません。ですから、その状況がどうだったのかよくわかりませんが、多くの注解書によりますと、ベニヤミン人といえばダビデの前の王であったサウル王がそうであった。サウル王の父はキシュという名前であった。キシュとクシュは関係がるか、同一人物かもしれない。けれど、それもわかりません。サウル王は、王として当初はダビデの優れた能力を見いだし、大切な家臣として召し抱えますが、その能力、民衆からの人気、実力によって人々の心がダビデに向かうわけです。それを妬むようになり、逆に命を狙うようになります。そこでダビデは逃亡生活となり、いわば、サウルから派遣された敵であるところのクシュが迫って来ている。

 窮地に立たされているダビデが主なる神に対して祈りを献げている詩、それが詩編の7編の内容であろうと考えられます。

 そう考えられるのであって、確かではありません。しかし、主なる神の前に敵に追い詰められ窮地にある者が、そして恐らくダビデが「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします」と祈り求めている状況であることは確かです。
更に「わたしを助け、追い迫る者から救ってください。獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から、だれも奪い返し、助けてくれないのです。」という御言葉から見える状況は、周囲には自分の味方の味方になる者はなく、孤独であり、それ故に尚更、主なる神よ、あなたこそが頼りですと祈っている状況であることもわかります。

 祈りを献げる御言葉から垣間見えてくることは、例えば9節の御言葉を読みますと、「主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと。」とありますが、祈る者自身の潔白さです。

 自分は敵に追われるような悪をしてはいない、命を狙われるようなことはしていない、主よ、あなたはそのことを良く分かっているはずだと訴えているように読み取れます。

 詩編そのものはそれほど長い詩編ではありませんが、この詩編の鍵となる言葉は「正しい」という言葉にあるという説明の文がありました。先ほどの9節にも、「お前は正しい、とがめるところはない」とあります。10節には「神は正しくいます」と記され、12節には「正しく裁く神」とあり、最後の18節には「正しくいます主にわたしは感謝をささげ いと高き神、主の御名をほめ歌います。」という御言葉で締めくくられています。

「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします」と祈れるのは、自分自身は、正しいはずだと信じているし、主なる神もまた正しい方であり、正しい裁きを行い、最終的には神は正しい自分を顧みて下さる、そう信じて祈っているのです。

 神は正しい方である。その通りだと思います。この思いに異論を唱えることは出来ないと思います。けれど、神の正しさとは一体どういうことでしょうか。正しいものを助け、不正な者を罰する、人の正しさはそうだとしても、神の正しさもまたそのようなものなのでしょうか。

 今、昼の祈祷会では、少しずつですが旧約聖書の創世記を読んでいます。先日の読みました箇所は、創世記の19章という箇所でした。神の正しい目に悪と見えるソドムとゴモラの町が硫黄の火で滅ぼされる場面を読みました。

 18章ではソドムとゴモラが滅びるにあたって、主なる神とアブラハムが話をしている場面があります。神がアブラハムに滅びの計画を話すのです。けれど、ソドムにはアブラハムの甥のロトが住んでいますから、驚いて、神様、もし、ソドムの町に50人の正しい者がいるとしたら、それでも滅ぼすのですかと聞きますと、いや、50人いたら私は滅ぼさないと答える。それなら45人ならどうですから、45人でも滅ぼさない、それなら40人では、30人では、20人では、最後には10人の正しい者がいたらどうですか、と尋ねたところ、主はその10人の為には、わたしはソドムを滅ぼさないと告げたのです。

 神様の愛を垣間見る良い話だなと思いますけれど、良く考えると、ソドムに10人の正しい者がいるとしたら、その他の何千、何万という正しくない人を皆、神は赦すと言ったということです。

 このような考え方は、人が考える正しさと重なるものではありません。例えば、学校で40人のクラスの中で、30人が悪さばかりをしているけれど、10人は真面目で一生懸命だから、40人まとめて罪無し、と担任の先生は言うでしょうか。
 逆に、1人、2人だけが悪さしているところで、40人をまとめて先生は叱りつけるのではないでしょうか。神の正しさと、人が考える正しさとは、やはりどこか違うところがあると思います。

 そんなことを思いますと、この詩編の作者も、自分の正しさを神に訴えかけ、敵に対して、正しく裁いて下さるようにと願っていますけれど、しかし、作者の正しさが、人としての正しさを越える所にあるとは思えません。

 「この世の中には、正しい人と、正しくない人がいます。」という言葉を聞くとき、恐らく皆さんが、そうだなと思われるでしょう。思われるでしょうけれど、そう思う時に、意識することもなく、自分は正しい人の部類に入っているはずで、自分は正しくないほうの部類と考えることはありません。自分はやはり正しい、殆ど例外なくそう思うと思う。それが人の思いではないでしょうか。

 けれど、神の前に立たされた時に果たして、最後までそう言い切れるものなのかとも思います。

 私自身のことを思いましても、牧師として、時に気軽に話せる先生だと言われることがあります。それはきっと褒め言葉だと思いますけれど、逆に言えば、凛としたところが無いとか、厳しさが足りないとか、牧師としてのカリスマ性が無いとも言えるでしょう。牧師の中には、教会員が滅多に近づくことも出来ないような厳しさ、威厳を持った先生もおられるし、何事にも確信をもって物事に当たられる先生もおられる。私はもっと見習わなければならないと思わされるのですが、人の性格の違いと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、正直に言えば、私は自分自身がそれほど「正しい人間」だと思っていないところがあります。

 それは不真面目だとか、いい加減だという意味ではなく、神の前において、どれだけ自分が正しいと主張出来るだろうか? 例えばある一つの考え方を、これこそ絶対に正しいと言い切れるのかどうかと思うのです。

 聖書には「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。」(一コリ8章)という御言葉がありますし、

 主イエスも律法を守ることによって神の国に入れると教えていたファリサイ派の人々に対して「もし、見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9章)と話された場面もあります。本来、私たち人間の正しさは神の前にあって、自分は正しいなどと主張出来るものではないように思うのです。

 けれど、だから真に正しいのは主なる神にこそあって、その神の正しさを前にして、私たちは詩編の作者のように「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。」と祈れるのだと思います。私の正しさによってではなく、主なる神の正しさによって、あなたこそ真の避けどころなのです。と訴えられるのです。 

 新約聖書のマタイによる福音書5章38節から読んでいただきました。「復讐してはならない」というタイトルが付けられた箇所であります。主イエスはここで、聞く人々に、そして私たちに「しかし、わたしは言っておく、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求めるものは与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」と教えられました。
 私たちにとっては、殆ど不可能と思えるような驚きの教えであります。

 しかし、主イエスはこの教えによって、神が伝えようとする「正しさ」を伝えようとしたのではないでしょうか。

 更に続く御言葉も少し読みますがこうあります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせて下さるからである」

 ここに、主が伝える所の、神の正しさ、いわば「神の視点」があると思います。神は、この世において、善人であろうと、悪人であろうと、正しい人であろうと、正しくない人であろうと、全ての人に対して愛を注いでおられると教えます。ここに神の正しさが現れているのだと思います。

 けれど、このような主の教えを、人は受け入れることは殆ど出来ませんでした。受け入れるどころか、そのような教えを守ろうとするならば、この世の秩序が乱れ、人の知恵や知識が廃れ、世の中が混乱すると世の指導者は考えました。神の正しさを受け入れることは出来ないと、この世が判断しました。神の正しさではなく、人の、この世の正しさによって、主イエスは捕らえられ裁判にかけられ、十字架刑となり、そこで主イエスは死を迎えることになります。

 しかし、それは人の罪故に、たまたまそうなっていったわけではありません。主イエスが先ほどの御言葉でもって、人々に教え伝えたことを、御自分がそう生きられたのです。主自らが、右の頬を打たれて、尚左の頬を向けられ、下着を取ろうとする者に、上着をも取らせ、一ミリオン進ませようとする者に、自ら進んで二ミリオン歩んでみせたのです。しかし、その神の正しさは、人の怒りとなり、十字架で主イエスは命が取られました。

 けれど、その時、その場を仕切り、すべてを見ていたローマの百人隊長は思わず、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美し、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰っていったと、聖書に記されています。

 神の正しさは、敵であるはずのローマの百人隊長を信仰告白へと導き、つい数時間前に「十字架に付けろ」と叫んでいた群集の胸を打つのです。悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせて下さる神は、その人の状態や立場によらず、神の正しさを示して下さり、そしてそこで神の愛を示して下さいます。

 だから、私たちにとって、この方こそ、「わたしたちの避けどころ」なのです。

 私たちは私たちの正しさを主張します。自分は間違っていないし、ましてや悪人などではない、けれど、人の目の中のおが屑は見えるけれど、自分の目の中の梁は見えていない私たちに対して、神は神の愛の中で、神の正しさでもって裁いて下さる。しかも、その裁きはどこまでも愛の眼差しの中にある。

 詩編の作者は、ダビデは「正しくいます主にわたしは感謝をささげ いと高き神、主の御名をほめ歌います。」という御言葉で詩編7編を締めくくりました。どのような状況、どのような環境のおかれようと、神の正しさに感謝をささげ、御名を褒めたたえる思いを持ってそう記したと思います。私たちもまた、そこから力を得て、この一週間を歩んで参りましょう。
 
 お祈りいたします。



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