日本キリスト教団 大塚平安教会  

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乳飲み子のように

2018-04-29 16:38:53 | 礼拝説教
【ペトロの手紙一 2章1~10節】
【ヨハネによる福音書15章1~11節】

 2週間前の礼拝ではヨハネによる福音書10章を読みましたがこうありました。「私は羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。羊飼いは主イエス、羊は私たちです。私たちのために主イエスは命を捨てるほどだと言われた。実際、主は十字架にかけられ、そして死んで、三日後に蘇られたわけですが、主なる神ご自身が、人のために命を捨てるほどだと言われる。世の中には色々な宗教があり、教祖とか、創始者と言われる歴史的にも偉大な人々が沢山おられますが、でも、なぜキリスト教なのか、私は人のために命がけだとそう言って下さる神は、この方しかおられないと思います。
私たちの為に、「命を捨てる」とおっしゃる程、あなたが大切だというのです。そんな愛によって人は真の救いと出会うのではないでしょうか。
 
 先週の礼拝ではルカによる福音書の9章23節の御言葉をご紹介しました。そこにはこうありました。「それからイエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」主イエスに従う人生は自分を捨てることだと主が教えられた。私たちはどこまで自分を捨てられるでしょうか。

 思いがけないことでしたが、先週の土曜日の夕方、週報を印刷するギリギリで電話連絡がありました。金曜日に教会員のO姉が急に入院して、手術をされたということでありました。
私が教会総会の資料をもって、Oさんご夫妻とお会いしたのは、金曜日の三日程前のことだったと思います。その時Oさんはとてもニコニコしておられました。次の検診に行って何も異常がないと言われたら、もう抗がん剤治療はしなくて良いから、あと一回だから、とニコニコしておられたのです。ですから、良かったね~、頑張ったね~と一緒に喜んだばかりでしたから、本当に驚きました。先週の週報には心臓の手術と記しましたが、私の聞き間違いで腎臓の手術ということでありました。金曜日に手術されて、私は日曜日の礼拝と総会が終わって、月曜日にOさんを訪ねて、腎臓であったことがわかったのですが、実はもう一回、手術をしなければならないと言われているというのです。
それで実際に、医者の判断で次の火曜日に再手術をされたと伺っています。今、安静状態であろうかと思いますけれど、是非、皆さんにもお祈り頂きたいと思います。

 でもね、月曜日にお会いした時にOさんの願いを聞きました。その願いは、私はなんとしも、夫のHさんよりも長く生きたい。夫をしっかり自分が送り出して、それからでなければ死ぬに死ねない。だから何があっても頑張る、というのです。その言葉を伺いながら、二人で祈りました。その後、とても強い意志を持って、二度目の手術に臨まれたと聞いています。

 自分を捨てる、それは主イエスが隣人を愛しなさいと教えてくださいましたけれど、既に、自分の体は、自分ではどうしようもないけれど、でも、尚、人を思い続け、そして死ぬのではなく人のために生き続けてやると思える愛、それもまた、自分を捨てるという意味ではないかとも思います。
 そのようにして、主イエスが御自分を捨てられ、またそれ故に真の愛を知り、その愛に生きる者だけが、すなわち私たち自身が、「自分を捨てる」思いに至れる、それはまた、クリスチャンとして生きる私たちに与えられた素晴らしい特権ではないかと思います。

 今日は、先ほどペトロの手紙という箇所を読んでいただきました、2章1節、2節を読みますとこうあります。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけの無い霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
 世の中の多くの方々、すなわちご自身を捨てるほどの方の愛を知らないで過ごしている多くの方々の特徴は、なかなか自分を捨てられないということではないかと思います。

 自分を捨てられないとどうなるのか。聖書にありますように悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口の罪に陥るのではないですか。

 昔のことですが、私が神学校に通っておりました時に、ある学生ととても仲良くなったのです。最近、テレビなどで「腹心の友」という言葉が時々用いられているようで、どうも安倍総理が使ったのでしょうか。言語的にはあまり正しくないようですが、とても仲の良い友達という意味として用いたのでしょう。そんな一時期、腹心の友のようになったのですが、その人と話していると、とにかく人の悪口を話すのです。あの人はこうだ、この人はこうだと、あの先生はこうだ、この先生はあ~だ。そういう話しをずっと聞いていると、人は互いに似てきますからね、いつの間にか、私自身も、一緒になって、あの人はこ~だ。この人はあ~だと話している。
そしてね、人を評価するとか、人の悪口を話すというのは、どんなにか気持ちの良いものなのかを人生で始めて知った思いがしたものです。

 でもね、ふと思ったのです。今は腹心の友だから、私のところにやって来ては、そうやって人の悪口を言っているけれど、でも、他所で、私はどれだけ悪く言われているだろうか、ですからね、気が付かなければならないのです。人の悪口を言う、その時は気持ちが良いかもしれませんけれど、言って損するのは、言われている相手ではなく、言っている本人です。

 人の悪口を聞くでしょう。でもね、聞いている人は思うのです。あ~この人は、自分のことも、他の人にこうやって言うんだなと思うのです。だから、悪口を言う人は最後には人間関係があっちでも、こっちでも悪くなるようです。だからね、言うとするなら、それこそ陰で、あの人は立派だ、あの人は流石だと、一生懸命にほめてあげることですよ。不思議なことに悪口はすぐに伝わるものですが、ほめると伝わらないものです。だからいつでも、どんな時でも、ほめることです。ほめ続けることです。けれど、それがなかなか続かないのです。なぜか。

 悪口を言えるということは、相手よりも、自分が勝っていると思うから言えるわけで、あるいは劣っていると思っても、今度は「ねたみ」という思いが出てきて、結局は悪口を言ってしまうのですが、そのようにして、自分と人を比べて生きると、いつの間にかサタンの策略にはまり、いつの間にか優越感をもって、あるいは劣等感で人を見ていると、そこから神の愛は出てこないのです。自分の思いだけが出て、しかも、あの人はこうだ、この人はあ~だ、ですからね。もう人のことが気になって、気になって仕方がない。

 だから、どうするのか、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口、一言でいえば、プライドと言う言葉かもしれません。そんなものは捨てなさいと聖書は告げるのです。

 捨ててどうするのか、「生まれたばかに乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」と告げるです。

 「混じりけのない」とは穀物の中に異物が入らないという意味だとありました。例えば、ご飯を食べているとする。その時、ご飯の中に、砂が一粒でも混じっていたら口の中でジャリっとすると、嫌な気持ちになるものです。もうそのお茶碗のご飯全部が嫌になってしまう思いにもなる。でも、そうならないように、大切なのは「霊の乳」を慕い求めなさいというのです。

 ここで用いられている「霊」は、もともとはロゴスというギリシャ語に由来するとありました。ロゴスとは聖書では「言葉」と訳されます。特に漢字では、「言」という言葉一つで言葉と読ませることもいたします。それはただの言葉ではなく、神の御言葉であり、神そのものだと言っても良いかもしれません。霊の乳とは、「御言葉の乳」と訳すこともできますし、「神の乳」、「神のミルク」ともいえる。あるいはもっと言えば、「キリストにかなう乳」、「キリストのくださる乳」としても良いとありました。

 生まれたばかりの乳飲み子が、母親の母乳を慕い求めて、それを飲み、命が生き生きとして、成長するように、確かに育っていくように、私たちが飲むものは、キリストが下さる乳、キリストの下さる御言葉です。しかもそこにおいて大切なのは、異物が入らない、混ざってはならないということです。キリストの愛の中に悪意やねたみが混ざってはならないのです。

 私たちはキリストを知る前は、この世の考えの中で育ち、成長して来ました。ですから時には、自分と人を比べて、そこで優越感に浸り、劣等感にさいなまれ、プライドが傷つき、また、ねたみに生きて来たものです。けれど主は、そのような私たちのために、ご自身を捨てて下さり、私たちと繋がってくださいました。
 
 だから、私たちも、自分を捨てて、すなわち、自分が抱えている過去のあの事、このことを捨てて、恨みや悲しみを主に任せて、主イエスの救いに向かって成長するために、私はあなたの御言葉を飲みますと、決心することです。
 
 「プラシーボ効果」という言葉があります。もはや治らないと言われていた病気の人がいるとして、もう自分はダメだなと思っていたら、お医者さんがこういった。「この薬は、半年前に外国で開発されて、あなたのような病気の人がどんどん治っているという報告が出ていますよ、まだ日本では認可されていませんが、試してみますか?」と言われて「そういうことなら、是非、飲みたい。」そうやって試してみる人は、治る確率がグンと上がるそうです。薬も確かに効く上に、もうダメだと思っている気持ちが、治るという気持ちに代わる。プラシーボ効果とは、実は薬以上に、人の気持ちによって大きくその人が変わっていくという点なのです。
 
 私の母親が先月で82歳になりました。ご存知のように70代で認知症となり、我が家にやってきました。それでも元気な時は礼拝にも連れてきていましたが、最近は礼拝が大分辛くなってきているように感じ、遠慮させていただいています。
 それでも、母親の良いところは、いつでも前向きな姿勢です。毎朝、朝食を食べながら母親が聞いてくるのです。「今日はどこかに行く日なのかい、行かない日なのかい」、デイサービスが無い日は、「今日はどこにも行かないよ」と言うと、「あ~そりゃ、良かった。私は、もうどこにも行きたくないもの。家にいられるのは幸せだ」と言うのです。
 でもデイサービスの日になると「今日は、外に行く日だよ」と言うわけです。すると母親は何というかというと「今の時代はいい時代だね、私のようなものでも行くところがあるんだから」と言って、ニコニコして出かけていくのです。
 行かない日でもよかったという、行く日でも良かったという、母親の人生を思うと、決して楽な人生ではなかったと思うのですが、でも、母親はどんな時でも、今が一番良いと言いながら、子どもの時から、そう思って、そう思い続けて生きて来たなと思うのです。プラシーボ効果とは、その人の気持ちがどう思うのかによって、人生は大きく変わるということです。Oさんが、私はなんとしても生きると言われると言われたその思いもまた、人は気持ちで生きることを示しているのだと思うのです。

 皆さん、主イエスは「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と話されました。この方を私たちは信じているのです。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに見を結ぶ」と言われる方がおられます。
 私たちが繋がるのは、この方です。この方に繋がるから、自分を捨て、新しい命に生きることが出来るのです。なぜなら、この方がおられるなら、私たちの人生のどんな時でも大丈夫、道は必ず開けるからです。そう信じることが出来るからです。乳飲み子がおっぱいを飲んで大きく成長していくように、私たちは、主なる御言葉を飲み込んで、私たちの人生を確かに育てて参りましょう。
お祈りいたします。
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