日本キリスト教団 大塚平安教会 

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遣わされていく

2017-02-06 15:07:49 | 礼拝説教
イザヤ書6章6節から読んで頂きました。セラフィムという言葉があります。岩波の聖書辞典で調べますと天使の階級には三つありまして、上級天使、中級天使、下級天使と分けられているそうで、セラフィムは上級天使の中でも炎の神として最上級の天使ということのようです。
 もっというと、私たちを個人的に守って下さる天使だとも言われているようです。私たちは、それぞれに固有の人生があり、固有の生き方、それゆえにそれぞれのタラントがあり、必要があり、状況が与えられているわけですが、その必要、状況をよく分かってなお、そこで力を与え、エネルギーを下さり、時には慰め、赦し、方向を示してくださる神の使い、ですから新約聖書で言えば、聖霊なる神のようにして、私たちの人生と共にいて下さる天使、それがセラフィムなのだと思います。

 そのような神の使いが私たちの人生を助けます。人といいますのは、子どもが大人になっていく、それはどういうことかというと「自立する」ということでしょう。与えられている状況の中にあっても、身近な人から、先輩からより適切なアドヴァイスを聞くとしても、その状況に振り回されることなく、その状況に最もふさわしい対応が出来るようになっていく、そのようにして大人になっていくわけですが、そのような生き方のために必要なことは何か、本日はそんな思いを持ってイザヤ書から考えていければと思うのですが、

 聖書には「セラフィムがイザヤの口に火を触れさせて言った」とあります。この火とは何か、それは「助け」あるいは「赦し」という意味のようです。口とは言葉です。キリスト教は言葉の宗教であると言われますが、どのような言葉を用いるのかによって、人は力を得て立ち上がることもできるし、がっくりと力を落とすこともあるのです。
 主イエスは「外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚すのである。」と話されました。今、インフルエンザが大流行していると言われていますが、互いに用心しなければなりませんけれど、もっと用心が必要なのは、人の中から、すなわち人口から出て来る言葉のようです。

 私たちの人生に必要なものは何か、色々と上げることは出来るでしょう。お金も必要ですし、健康も必要ですし、友達も必要ですし、思えばあれもこれも必要なものがあると思います。けれど、何よりも必要なもの、大切なものは言葉ではないでしょうか。

 どこのお宅もそうであろうとは思いますけれど、我が家でも一番盛り上がるのは食事の時です。家内が一生懸命に食事を作る、その食事が出来上がる頃には、どこからともしれずに、不思議と人が集まって来るのです。息子、娘もおばあちゃんも集まり、夕食は週の半分は皆一緒に食事が出来ます。本当に幸いだと思います。
 そこで今日あったあのこと、このこと、子どもたちが話したりする。調子にのって私が話し出しますと、あ、その話前も聞いた、これで何回目とか指摘されてしまうのですが(笑)、そのような非難に負けず、最後まで話してみたり、つまらない冗談を言い合ったり、笑いあう中で、子どもが思わず、「あ~我が家はいいなぁ」と言ってくれたりしますと、何が無いとしても、物では表すことの出来ない幸せとはこういうことだろうと思います。

 本日は午後から、「キリスト教の死生観」について一緒に学び、分かち合うことになっておりますが、私たちが生きる中で、生きてきた中でそれぞれに忘れられないと思う方がいると思います。その忘れられない人、人生の中で直接関わった方でもいいですし、歴史上の人物でもいいですし、自分もあのような人のように生きたい、あのような人生観を持って生きていきたいと思っている方がおられると思うのです。そしてその人を思い出す時に、その人が話した言葉、その人が記した言葉こそが、私たちの人生において忘れられないものとなっているのではないでしょうか。
 なぜ、忘れられないのかというと、その言葉は言葉だけで終わらず、実体、すなわち自分の人生に生きているからです。
昨年の10月末から12月末まで次男のKが2か月ほど学校に行かないで、自宅におりました。その事情についてここで話すことは致しませんが、その2か月間、色々なことをKなりに考えたようです。多感な年齢ですから、私もそれほど多くの言葉を交わすこともなく、じっと見守るしかないかなと思っておりました。それでも一つのきっかけとなりましたのは、ある日の日曜日の朝の事でした。Kはどうもその日の礼拝には出たくないと思っていたらしいのです。けれど、それでも、私が牧師室から電話しまして、礼拝出たらどうだと話したのです。

でも、それは大体いつものことです。他の子どもたちにも、いつも礼拝は出なさいと話すのです。
 その時のKも、電話口で、このことがあるから、あの事をしなければならないからと出られない口実を上げていましたが、それでも礼拝来なさいよと、まあ、私は厳しくは言えないタイプなので、優しく話しかけたのですけれども、突然、言葉のニュアンスが変わって「あ、そう、出た方がいいの、そうか、出ようかな。じゃあ、行くよ」そう言って礼拝にやって来ました。
 
その後、私はそんなことはすっかり忘れていましたが、Kが学校に戻りまして、校長先生に話したそうです。「あの時、父親が、熱心に礼拝に出ないさいと勧めてくれて、その熱心さを聞いていたら、こんなに自分を思ってくれているんだと思って感動した」というのです。
皆さん、だから礼拝出ましょう。

自分ではいつものことでも、そのいつものことに実体が伴う時、相手の心が動かされることがあって、その心動かされた言葉が、その人の内に実体となるのではないでしょうか。
 
 イザヤ書6章が記された時代は、どんな時代であったのかというと、イスラエルが最も良かった、恵まれたと考えられているダビデ王、ソロモン王という時代、紀元前1000年頃からソロモン王の後の後継者争いで、国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダという国となりまして、それぞれの王が立てられるのですが、南ユダの王にウジヤ王という王様が立てられました。別名アザルヤ王とも呼ばれますが、「主は私の力」という意味を持つ名前を持った王様です。この王様がまた良い王様として記されています。神様も大いに祝福して、戦いに行けば勝利し、戦うだけでなく農業にも力を入れ、今で言えば外交、内政共に力を入れて、国がどんどん豊かになっていく、そのようにしてソロモン以降でも最も良い状況だったかもしれない程になるのですが、しかし、年を重ねて召されていくわけです。
 
王が変わると、国も変わります。今、アメリカの大統領が変わりまして、アメリカのみならず、日本も、西欧社会も、世界中がどうなるのかと非常に心配な状況が続いておりますけれど、ウジヤ王が死んでしまった。そもそもイザヤ書6書は、1節を見ますと、はっきりと「ウジヤ王が死んだ年のことである」と記されます。
 さあ、これからどうなるのかと人々が不安に思っていた、その頃に、イザヤが天に挙げられて、天の会議のような場面となり、一つの席にイザヤが座らされて、セラフィムがやって来て、イザヤの口に火を触れて、触れた後に、主が語りだします。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わっていくだろうか。」と問いかけた時に、火に触れた口、すなわち、助けられ、赦された口が、イザヤの口が「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と語りだした、そういう場面となっているのです。

 自分が、これからの新しい王と共に、この口でもって主の民を導くために、実体のある言葉でもって語り掛けるようにと、遣わされようとしているのです。とはいえ、南ユダという国は、イザヤの願いとは違い、歴史的には残念ながら更に混迷を深めることにもなります。けれど、だから諦めるのでもなく、絶望するのでもなく、どんな状況の中にあっても、なお、主の御言葉を語り続けるのだと続くのです。
 皆さん、私たちは勿論イザヤではありません。預言者でもありません。でも、やっぱり私たちも、神さまによって遣わされているのではないですか。

 読んで頂いたローマの信徒への手紙の1章18節からのタイトルは「人類の罪」と付けられています。先週の礼拝でも話しましたけれど、ヤコブ書に「世の友」となることは「神の敵」になることだと記されています。世の友とは、神を知りながらなお、神を神とせず、感謝することもなく、誰かの上に立つことこそが大事、勝つか負けるか、強いか弱いかで世の中が決まると思っているような人々が世を支配しようとする、それこそ「世の友」となることではありませんか。
そして、その先はむなしい思いにふけり、こころが鈍くなり、一層暗くなっていくだけの人生ではないでしょうか。

 ある所に、信仰生活の長い大変穏やかな、又、笑顔の似合うご婦人がいたそうです。教会の為に働き、一生懸命に伝道していました。けれど、ある日牧師に手紙をよこして来た。その内容は、自分の兄弟が事業に失敗して、負債を抱えたまま姿をくらましてしまったこと。その為に、一緒に住んでいたお父さんだけが残され、自分が引き取る事にしたこと。しかし、そのお父さんが、娘の所に来て緊張が解けて、安心したのか、すっかり寝込んでしまったこと。看病を自分も一生懸命やっていたのだけれども、自分自身が疲れ果てて、自分も寝込むはめになったこと。次々と思いもがけない不幸が起こってくる。けれど、その不幸を不幸だと嘆くのではなく、その中で一番自分が悲しいと思うのは、そういう体験の中で、自分の言葉がとても悪くなっていくことだとそう書いてありました。自分の置かれた状況の中で、疲れが出て文句の言葉が出てくる、呟きが出てくる、不機嫌になってくる。そしてそれは当然のことだと思う。
 自分はこんなに苦労しているのだから、不満が出て、そして人に当たって、更に自分が悪いとは思っていない。しかし、その根底において神がいなくなってしまっているということに、このご婦人は気づいて、そのことがもっとも悲しいと書かれていたそうです。
神様が本当に神様なら、この自分の置かれている状況をみれば、神様の方からサービスしてくれてもいいじゃないか、それが神様だろうと思うのです。その思いが間違っていないと思うからこそ、言葉が悪くなるのです。そして神様をないがしろにする時、やっぱり主イエスを十字架にかけ、神を殺そうとするのではないでしょうか。
 しかし、それならば当然のごとく神の怒りはそのような、信じていると思っていながら、実は自分が主人となってしまっている人々に向けられるべきでしたが、その怒りはその人々には向けられず、全ての怒りが、愛する独り子イエスに向けられ、不信心と不義な人々は死なず、死んだのは主イエス・キリストでありました。 
 皆さん、だから私たちは赦されているのです。その許しは徹底的な赦してであり、更にだから、皆さん、私たちは遣わされているのです。神さまの赦しと和解の福音を携えて生きていくようにと主の御言葉を宣べ伝える者として遣わされているのです。そのような人生を感謝をもって、喜びを持って歩んで参りましょう。


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