日本キリスト教団 大塚平安教会 

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人生の中心となる方

2017-05-09 13:51:20 | 礼拝説教
【ネヘミヤ記2章1~18節 コリントの信徒への手紙一 12章1~13節】
 
 
今日の説教のタイトルを「人生の中心となる方」といたしました。過ぐる4月16日のイースター礼拝において、お二人の方が洗礼を受けられました。感謝な時を過ごしましたが、洗礼を受けるとはどういう意味があるのか、きっと多くのことが言えるのだと思いますが、でも、本当に大切なことはたった一つだと思います。「イエスは主である」と信じることです。読んで頂きましたコリントの信徒への手紙12章3節に記されています。『ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』
 聖霊によって与えられる信仰、「イエスは主である」この信仰をもって洗礼を受けるのです。主イエスが、この方こそが、私たちの人生に具体的に関わりを持っていて下さっている、と信じるのです。

 皆さん、GWをどう過ごされたでしょうか。私達菊池家は、特別どこにも行くことなく、毎日、朝、昼、晩、朝、昼、晩と家族6人が皆で集まり、食事をするというGWでした。でも、金曜日の昼にですね、気が付きました。おばあちゃんがいなかったのです。おばあちゃんどうしたと騒ぎになったのですが、その日はデイ・サービスの日で、なんと家族の中でおばあちゃんだけが出かけていたと言う「落ち」だったのですが、その日の夕食に、長男がいきなり、お父さん、ソクラテスとか、プラトンのことを教えてくれと言うのです。大学の授業の中で、先生がそんな話をしたらしいのです。

 ですからソクラテスの「イデア論」がどうしたとか、アリストテレスの「原因論」がどうしたとか私も知っているつもりの話をいたしました。実際の所はあまり詳しくも知りませんが、それでも私も調子に乗って色々と話しました。結局大分長く話しましたが、哲学は結論がありませんので楽しいのです。
哲学とは、例えば人がどう生きればよりよく幸せに生きられるのか、という問いが立てられる、そこからスタートしまして、善とは何か、道徳とは何か、自由とは何か、家族とは何か、社会とは何か、政治とは何か、国家とは何か、そうやって一つ一つを突き詰めながら、定義づけながら更に具体的にどうすれば戦争の無い世界を作りだせるのか、貧困をなくすためにはどうするのかと、色々と考え続ける作業を致します。
 
 この色々と考える作業によって、人類は、法律や政治経済のみならず、天文学とか、自然科学とか、医学といった多くの分野において発展することが出来たとも言えるでしょう。長い教会の歴史も少なからず、哲学的思考の影響を受けて、繰り返し、繰り返し、信じるとはどういうことか、考えられて来たとも言えると思います。

 けれど、哲学と宗教とは決定的に違うところがあります。哲学はどこまでも考えることによって発展していく学問ですが、宗教もまた、どこまでも考えていくことが大切だと思いますが、でも、どこかで決断していく、決心することが求められるのです。
主なる神、主イエス・キリスト、十字架に付けられ、でも三日の後に復活された、この方に自分はかけて生きていこう、「イエスは主である」と信じよう。そのような決心が促されます。

 コリント書の今日は12章を読んで頂きましたが、13章は有名な「愛」というタイトルが付けられた箇所その13節に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」とありますように、神の愛を受けて、どんな状況の中にあっても、この愛に生きる決心が求められているのだと思います。

 私たちは「イエスは主である」と受け入れ、決心して、洗礼を受けます。そこから信仰生活、教会生活が本格的にスタートするわけです。けれどまた、信仰は一つであるとしても、人それぞれが考え方もあるわけで、ですから哲学者は一つ一つの言葉や思いを定義づけて行く作業を行うのですけれど、聖書はその違いを、神様から与えられた一人ひとりの賜物だと言うのです。その賜物は多様であり、例えば今日行われる任職式のように、ある人は役員として選ばれ、ある人は子どもの教会の奉仕者として立てられ、ある人は奏楽者として、また、ある人は聖歌隊として、ある人は祈る人として、それぞれに多くの役割が神様から与えられ、私たちの大塚平安教会という共同体が作りあげられているのだということでしょう。

 読んで頂いたコリント書12章4節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」とあります。人はそれぞれに与えられた賜物があります。私は牧師としてこの年、22年目を迎えています。この22年間を振り返りますと、私自身がずっと、どこかでもがいて来たように思います。
 牧師として立てられたと思い、決心して神学校に入ることが許されましたけれど、卒業も許され、任地が与えられ、今もこうして話すことが許されていますけれど、尚、この22年目において、思うことは、私自身がどこまでも、牧師として十分だと思えることがありません。

 自分にも何か賜物が与えられているはずだと思いまして、哲学の学びをする。でもせいぜい息子に哲学の話を幾らか話せるぐらいのものです。若い頃には牧師は、語学が出来なければダメだろうと思いながら、随分勉強したつもりですが、それも今となっては、中学生の娘がパパは良く出来ると褒めてくれる程度のものです。音楽に至っては、歌が上手いわけでもなく、いつまでも初心者の域を出ることがありません。結局の所、何一つ十分と思えるようなことが無いないと思うしかありません。でも、年齢だけはしっかりと重ねていくのです。

 勿論、まだまだ、人生これからと思っていますけれど、そんな中にあって更に思わされることは「賜物にはいろいろあります」という御言葉です。私に何か神様から与えられた賜物があるとするならば、それはきっと「神様に対して誠実に生きていきたい。」と思い続けられていることかなと思います。
 
 今、祈祷会でコリント書を読んでいますが、1章27節に「神は世の無学な者を選ばれました。」とありますし、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。」とあります。この御言葉を私は深く思います。いくら考えても自分自身の中に何か誇れるものはありません。

 GW前にお葬式で花巻に帰ったでしょう。何年かぶりにね、花巻教会の方ともお会い出来ました。私たち夫婦を見つけて、教会の皆さんが駆け寄るようにして集まって下さいました。でもね、話しかけられているのはほぼ、家内ですよ。私は横に立って、添え物のようにしてニコニコしているだけです。ひとしきり家内と話し終わった後に、教会の方がこちらを向き直して、こう言われました。「先生、今、どこにいるの?」こうですからね。

 でもだからこそ、主なる神は私を選んで下さったのだろうと思います。誇るものが無いとは良いものです。だから全能なる神にこそ信頼出来るのではありませんか。パウロは「わたしは弱い時にこそ強い」と話しましたが、色々とある方は逆に大変かもしれません。

 私は何も無く、誇るものもありません。でも、だから永遠なる主なる神が、自分の人生となって下さって、自分の人生のヴィジョンを立てて下さって、完成させて下さると信じることが出来るのではありませんか。皆さん、私たちはどこまでも不十分な者ではありませんか。学力だけでもなく、健康のこと、家族のこと、財産のころ、人間関係のこと、これまでの人生を振り返って誰一人として悩まなかったと思える方はいないでしょう。人は不十分だからです。でも、それで良いのです。その悩みを通して、主なる神が私たちの信仰を、更に強くして下さるのだと私は思います。

 旧約聖書のネヘミヤ書という箇所を読んで頂きました。ネヘミヤ書はエズラ記と並んで、あの50年に亘るバビロン捕囚の時代が過ぎて、自分達の故郷イスラエルに帰ることが出来ると希望を持って歩んでいこう、進んでいこうとしている物語です。ネヘミヤが色々と策を練って、故郷へ帰還していこうとする場面を読んで頂きました。ですから彼らは言ってみれば、信仰を継承してといよりは、新たな信仰を持って、新しいヴィジョンを持って帰ろうとしている人々です。苦労に苦労を重ねた人生であったと思いますが、信仰によって支えられている。その喜びが伝わる箇所でもあります。人には出来ないが、神にはなんでも出来るという信仰を持って歩んでいるその姿を読むことが出来る良い聖書箇所でもあります。
今、この時、この時代で、与えられた賜物をしっかりと磨き、信仰を持って精一杯を生きようとするその姿、今の時代に求められている姿ではないでしょうか。

 コリント書の続く5節には「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。」とあります。務めとは働きということです。務めというよりもむしろ奉仕という意味のようですが、つまりはミッションということです。与えられている使命が色々とあるということです。人には使命がある。

 今日は礼拝後、新しいメンバーでの初めての役員会を行いますが、役員会で職務分掌を行います。そこで誰が何の役割を担うのか話し合われます。それぞれに書記として、財務として、伝道として、教育として、様々な側面から教会を支える役割を分かち合うわけです。それぞれの務めが与えられます。それぞれに大変な働きです。その働きの力となる御言葉は、丁度一か月前の礼拝で取り上げられた聖書箇所となりますが「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命の献げるために来た」(マタイ20章28節)という御言葉ではないでしょうか。
主イエスご自身のヴィジョンがここに示されていると思います。

 私たちが、どこで腹が立つのかというと、このことも、あのことも誰かにしてもらおう、してもらおうと思うところで腹が立つのです。だから、そうではなくて、この人の為に自分が出来ること、あの人のために自分が出来ることは何かなと考えてみることではないでしょうか。
結婚する二人がいるとして、上手くいくカップルと上手くいかないカップルがあると言われます。なぜ上手くいかないのか、この人はお父さんみたいな人だと思い、相手はこの人はお母さんのような人だと思って結婚すると上手くいかないのです。なぜか、どんなに無理を言ってもいいよ、いいよと言ってくれるお父さんのような人、少々怠けても、汚しても笑って許してくれるお母さんのような人と思って結婚するわけです。でも、そんな都合の良い相手はいませんから、こんなはずではなかったと思うようです。上手くいくカップルは、この人の為に自分は何が出来るかと互いに考えることが出来る。だから喧嘩も少なく、長く一緒に生きていけるのだと、時々、若い方にも話します。だから大切なことは、この役割が、自分に与えられている使命ならば、としっかりと受け止めることが出来る。勿論、なんでこんなことを私がしなければならいのかと思うものです。

 でもね、主イエスこそが、私たちの罪を背負って十字架に付けられたではありませんか。主イエスがご自分の使命、ミッションに生きられたように、私たちも、私たちなりのミッションとヴィジョンを持って、神にまた、人に仕えるところで神様の祝福が見えてくるのではないでしょうか。

 パウロは更にコリント書の続きの6節で、「働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」と記します。改めてコリント書を読みますと、パウロは4節、5節、6節で、「賜物にはいろいろと」あり、「務めにはいろいろと」あり、「働きにもいろいろと」あると告げています。そして、それらの働きは同じ霊であり、同じ主であり、同じ神だというのです。この聖書箇所はキリスト教が三位一体なる神として表現している根拠の最も古い形で記されているとも言われますが、その父なる神と、子なる神の主イエスが、私たちには聖霊なる神となられて、私たちの人生の中心となられて、私たちの体に宿っておられるということでしょう。

 私達一人ひとりがその賜物を持ち、それぞれの務めを持ち、働きを持ちながら、自らが神の宮として生きていく、そこに私たちの人生が繰り広げられるのだということでしょう。

 私たちは聖霊に満たされて、私たちの人生に主なる神が与えて下さったミッションと、ヴィジョンをより確かなものにするためにも、私たちの人生の主は私ではなく、私を造られた神こそが主です。と信じる時、もうそこに聖霊の業が力強くあなたを導き、豊かな、喜びに満ちた人生を示されることでありましょう。「イエスは主である」大切なのは言葉以上に、生き方かもしれません。

「あなたは学歴も無く、過去にもいろいろな失敗をしているのにも係わらず、どうしてそんなに喜び、笑顔の生活をされているのですか」と尋ねられたら、どう答えますか。そう「はい、私の人生の中心はイエス様だからです」と答えられることでしょう。

                                                          お祈りいたしましょう。



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