日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主の鍛錬を生きる

2019-09-15 18:01:56 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編22編23~32節】
【ヘブライ人への手紙12章1~7節】

 先週は「子どもの教会」との合同礼拝を献げました。子どもたちと一緒の礼拝、詩編115編13節に「主を畏れる人を祝福し 大きな人も小さな人も祝福してください」とあります。大きな人も小さな人も。それは背の高さとか、体の大きさというよりは、大人も子供も、おじいちゃん、おばあちゃんから、お父さん、お母さん、青年、少年、赤ちゃんに至るまで、教会という場所は、一人一人の人生と共に歩む場所としてある、そんな思いを新たにする良い機会であったと思います。

 大分前になりますけれど、「大草原の小さな家」という人気のドラマがありました。古き良きアメリカの開拓時代、インガルス一家が主人公で、家族、また地域で起こる様々な困難を乗り越えていく、家族愛や人間愛を考えさせられるドラマ。と、ネットで調べましたら(笑)そう紹介されていました。
 
 私はあまりそのドラマを熱心に見ていたわけではありませんので、感動した場面などを話すことは出来ませんけれど、だた、その主人公の家族や、近くの町とかで何らかの問題や、事件が起こると、人々が皆、教会に集まって話し合いをしていた場面だけが脳裏に残っています。何かがあるととにかく教会に集まる、アメリカの開拓時代ですから、公民館とか、コミュニティセンターがあったわけではないでしょう。市役所の相談窓口があるわけでもない。
 集まるところは、とにかく教会です。そこで地域の問題、課題について話し合いをする。勿論そこに牧師も加わり、どう解決していくのかを皆で相談する。話がまとまらず、ついエキサイトする場面もあったように思います。それでも、私は、教会は、本来はそういう場所として機能していたのだということを強く思わされております。
 
 人と人とが集まるところ、地域、社会だけでなく、家族の中でさえ、インガルス一家の中だけでもなく、私達のそれぞれの家族の中にあってでさえ、実に様々な出来事が起こります。親になってつくづくと分かるのは、子供一人が成長し、大人になっていく、それまで親は、子供にはわからない苦労をどれほどするか、大変な思いをするかということです。

 週報の子どもの教会のプログラムの下に毎週、文章を載せていますが、今日の文章は主の祈りの中にある、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という御言葉についてです。子供が大人になる意味は、その人自身が、自分で日毎の糧を得られるようになることではないかと記しました。現代という時代、中々、日毎の糧を、自分で得ることが出来ず、困り、悩んでいる若者が多いと言われます。
 大人になりきれず、独り立ち出来ずに苦しんでいる、本人も辛いでしょうし、見守る親も中々苦労するわけです。それだけでもなく、学校に行かないとか、行っても悪さをしてしまって親が頭を下げにいくとか、勉強についていけないとか、イジメる、イジメられるとか、実に様々なことが起こります。
 
 子どもだけでもない、親も全く同じです。先日テレビを見ていましたら、母親と父親がどれほどの割合で家事を行っているのかという統計があって、殆どの家事を、母親が圧倒的に行っているという結果が表になって出ていました。
それを見せながら主婦の皆さんに街頭インタビューをしていたのですが、ある小学生位の子供を連れていたお母さんが、家のことは100%自分がしているというのです。そして、そのことを子供に強く主張していて、お父さんがいかに協力的でないかを、とうとうと話していました。たまたま、私達は夫婦で見ていたのでが、子どもにあれほどお父さんはひどいと言い続けたら、子どもはどんな思いで聞いているのか心配だね、と話しました。

 苦しみ、悩みは、時として思いがけない病気になるということもあります。もう一年程前になりますか、幼稚園の若いお母さんが思いがけず癌にかかり、小さい子どもたちを残して召されたという出来事がありました。

 私毎ですけれど、実は今週、明後日の火曜日に、胸のCTを撮ることになっています。以前から血圧が高く、ちょっと調子が悪い、気になる症状がありましので行きつけの医者に行って話してみましたら、海老名総合病院でCTを撮って来いというのです。それで病院に行きまして、手続きをしながら、看護師さんに「生まれて初めてCTを撮るのですが、大丈夫でしょうか。」と話しましたら、看護師さんは「CTなら大丈夫ですよと」言うものですから、いやCTではなく、私が大丈夫かなと思っているんですが(笑)と話しましたら、笑って「大丈夫ですよ」と言われました。根拠が無くても、そう言われると不思議に安心するものです。

 何か、色々と申し上げましたが、何を申し上げたいのかと言いますと人、一人の人生を思っても、その歩みには、勿論、楽しい事や、嬉しい事が沢山ありながらも、それと同じ位か、それ以上に辛く、苦しいこと、悩みごと、病気、困難を抱えながら歩んでいるものだと思うのです。

 今日は詩編の22編の23節から、いわば後半の箇所から読んで頂きました。詩編の22編、先週も申し上げましたけれど、前半は、詩編の著者の実に苦しい、辛い状況が記されています。2節以降を読みますとこうある。「わたしの神よ、わたしの神よ なぜ、わたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ 昼は、呼び求めても答えてくださらないのか。夜も、黙ることをお許しにならない。」
この詩編の著者が、何らかの原因、理由があって苦しい立場にあることは確実です。12節には「わたしを遠く離れないでください 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」とあります。この状況は敵が攻めて来ている状況ではないかと言われます。18節では「骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め」とあります。この人は、重い病気ではないのかと考える人もいます。いずれにしても、この著者は、主なる神にさえ見捨てられたと思う程の状況をなんとか生きていた。そんな状況を詩に記したのでしょう。

 けれど、今日読んで頂いた箇所からはその内容が変わりまして、23節以降にはこう記されます。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすみません。御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。」
 私が持っている聖書の一つには、23節の前にこう記されています。「あ~、あなたは、私に、答えてくださった。」感嘆文の形で記されています。喜びが強く伝わる文章が記されていました。

 明らかに、状況が良くなってきたのです。願っていた健康が回復して元気になったのか、敵との戦いに勝利したか、少なくとも敵は去って行ったのであろうと思われます。彼は祈り、助けを求め、神様を信じ戦い、そして勝利しました。その感謝の思いを綴る、詩編の後半の御言葉が続きます。

 祈りは聴かれる。幸いが与えられたのです。著者は祈り、神はその声を聴き、神の業が働き、それに感謝を献げる、ですから、色々と記してあっても、考えてみると、実にシンプルな構成によってこの22編は記されているということも出来るでしょう。

 けれど、詩編の著者が伝えたかったことはそれだけでもないはずです。今日、私は23節の御言葉を思わされています。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え 集会の中であなたを賛美します。」とあります。鍵となる御言葉は、「御名を語り伝え」ることです。どこで語り伝えるのか、集会の中でとありますが、明らかに信仰を持つ者の集まりの中で語り伝え、賛美を献げている、つまり礼拝の中で、自分の身に起こったこと、辛く、苦しく、見捨てられたかと思う程であったが、主は自分と共におられた。主は誉むべきかなと喜びをもって信仰の「証し」を語り続けている状況を思わされます。

 ここで、詩編の作者は自分の信仰が立派だったからとか、信じ続けていたから救われたと言っているわけではありません。自分を誇るのではなく、殆ど絶望的な状況、神は自分を見捨てられたと言わざるを得ない、その中にあって、全く自分の力は及ばない中で、神の業が働き、今、自分はこの場に立ち、この場で、救いを求める者から、救いを宣べ伝える者へと変わったのだと語り続けているのです。そのような思いを込めて記しているのだと思います。
 
 新約聖書からはヘブライ人への手紙12章から読んで頂きました。「主による鍛錬」というタイトルが付けられています。

 ヘブライ人への手紙は、恐らく一つの説教として語られたのではないかとも考えられています。時代的には、キリスト教迫害の厳しい時代であったろうと思われます。
 時には殉教者を出し、時には、迫害の中で、その苦しさの中で、教会から離れ、神のもとから離れた人々も多くいた時代であったと言われます。信仰を持って生き抜くには大変な時代、私達が置かれている境遇とは大きく違っている状況です。ですから、ヘブライ書の12章は、1節には「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。信仰生活とは、忍耐をもって走り抜くこと。
 マラソンランナーがゴールを目指して走り抜くように、信仰生活を走り抜くこと。その為に必要なことは、「信仰の創始者また、完成者であるイエス」を見つめることだと記してあります。この方は、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りなったのです。

 主イエスこそが、どれほどの忍耐を持って、苦しみを持って十字架刑にされながらも尚神の、私たちに対する愛を示されようとされたか、だから私たちはこの方を見つけ続けて、私達に与えられている苦難や試練を、しかしそれを、「主の鍛錬として」受け止め、その苦難の先にある神の栄光の輝きに導かれるようにして走り抜いていこうではないか、そうヘブライ人への手紙は告げているのです。

 8月に休暇をいただき、スイスに行きました。願っていたことの一つは、凡そ500年前に始まった、ジュネーブの宗教改革について、改めて心を寄せたいと考えていました。ジュネーブの宗教改革記念公園には、宗教改革に貢献した4人の像が作られています。真ん中にカルバンの像があります。右端にイギリスのスコットランドで活躍したジョン・ノックスという宗教改革者の像がありました。ノックスは優れた説教者であったと言われます。

 その説教の中で、主イエスが荒れ野で40日間の断食をして祈り続けていた時に、空腹になっていた時の話があります。サタンが現れて「お前が神の子なら、この石がパンに変わるように命じたらどうか」と誘惑します。主イエスはその時、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とサタンに告げました。ノックスはこのサタンの誘惑は、神を試してみたらどうだという誘惑にとどまらず、イエスよ、お前は神の子だというけれど、その父である神に、見捨てられているのだ、と告げた言葉であったと説明しました。
 
 それは、そのまま一体どこで、どのようにして、私達が神の鍛錬を受けているのかを示しているとも言えるでしょう。私達の人生の中にあって、主なる神は、わたしを見捨てられたのかとまで思う時、なぜ、自分だけがこれほどに苦しまなければならないのかと思う時、しかし、それはいつの日か、神の鍛錬であったと知る時が来る。

 詩編22編の作者が、苦しみのその先に、神の祝福をいただき、その出来事を人々に語り伝え続けたように、信仰を持つことによって迫害を受け、殉教者を出しながらも、しかし、信仰の鍛錬として受け止め、神に鍛えられていると信じた人々によって教会の信仰がつながれて来たように、私達もまた、そのような先達の信仰にならいながら、与えられた人生を走り抜いて参りましょう。

お祈りいたします。


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