日本キリスト教団 大塚平安教会  

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言葉と経験

2018-01-15 10:21:27 | 礼拝説教
【マルコによる福音書1章9~11節】

「言葉と経験」

 もう既に昨年となりますが、12月の暮れに、あまり理由も定かではないのですが、一冊の本に興味を持ちまして、カトリックの神父で來住英俊という先生が書かれた本を取り寄せて読んでおりました。タイトルが「キリスト教は役に立つのか」というタイトル、内容としてはとても役に立つという文章ですから、もう少し違うタイトルにしたらもっと売れた本だったかもしれません。(笑)

 暮れごろだったと思います。その本を読んでおりました時に、來住先生がクリスマス、お正月ということもあり、テレビでお寺のお坊さんや、教会の牧師、神父、神社の神主を招いて、楽しく宗教を知るようなバラエティ仕立ての番組がありまして、出演しておられて驚きましたけれど、その話し方や、教養の深さに更に感心して、著作も熱心に読ませて頂きました。

 その本の中で、森有正という人がどんなにか「経験」を大切にしたのかという話がありました。森有正は1911年、明治の終わり頃の生まれですが、家柄としては当時で既に三代目のクリスチャンであって、祖父は政治家、文部大臣を務めた森有礼(ありのり)、父は森(もり)明(あきら)牧師、有正本人は、東大の仏文科を卒業しまして、長くフランスで生活して、そこで著作活動をしながら生計を立て、暮らしています。そんなフランスの体験や思想から感じ取ったのだと思います。「経験」という言葉の意味を大切に考えていたというのです。

なるほどと思いながら、私も改めて今度は森有正の「いかに生きるか」という本を手にとって読んでみました。確かに「経験」を大切にしていることが良く分かります。例えば、こんな文章が記されています。

「人間の尊厳や人格という問題は、言葉から出発したらだめだということです。人間の尊厳とは何ぞやというところから、人格とは何ぞやというところから、出発したらだめなのです。必ずそれは争いのもとになるのです。いや、人格はこうだ、いや、そうではない、必ず反対派が出てきます。こういう点が人間の尊厳だというと、いや、そうではないというのが必ず出てきます。以前、漫画で見たのですが、平和論が盛んなころ、カフェに張り札がしてあって、「平和問題だけは論ずることをおやめください」と書いてあるのです。いちばんけんかしてはいけない問題で、けんかをするわけです。そのように、この問題を考える場合に、この定義はいったい何だ、人間の尊厳の定義とはいったい何だ。人格の定義は何だというところから出発したら、これは絶対に人格にも人間の尊厳にも行き着きません。」

 つまり、言葉だけが上滑りするような状況で論議しても、あまり意味がないということを伝えているのだと思います。例えば、「正義」という言葉がある、正義とは何かと話し出したとしたら、争いが起きるということです。なるほどと思います。

 先週の礼拝で既にお知らせしましたように、私たちの教会員であるS兄が1月7日に召されました。先週の水曜日、木曜日と前夜式、葬儀が執り行われまして、御遺族と共に、また教会の皆さんも参列して頂いて、お別れの時を持ちました。改めてご遺族の上に神様の慰めを願います。前夜式の際に、S兄が以前に記したご自分の証の文書を紹介させて頂きました。

 S兄がまだ、8歳、9歳の頃に、両親とも牧師でありまして、当時、戦前の話ですが、満州国にキリスト教伝道の為に、家族で赴いたというのです。そして教会で熱心に伝道活動をされていたのだと思いますけれど、ある時、当時の日本基督教団から通知が届いた。時局に応じて聖日礼拝には講壇の日の丸を掲げ、君が代を歌い、東に向かって宮城を遥拝し、天皇を崇めてから礼拝を守るようにとの通知です。
 けれど、両親は、それは自分達の信仰に反するという思いから守らなかったので、両親が逮捕されたというのです。その後、教会は解散、閉鎖させられるのですが、それでも、釈放された両親はそこを孤児収容所として使用しながら、戦争孤児を助け、そして敗戦、帰国に至るのです。

 そのような経験を通してS兄はこう記しています。「その建物を孤児収容所として帰国迄、社会福祉に生きた両親、孤児たちと共に日本に引き上げることが出来たのも主の恵みでした。この時代を生きた両親の信仰から教えられます。「すべての人は上に立つ権威に従うべきである。なぜなら神によらない権威はないからである。」(ローマ書13章)

 この世にあっては、この世の事柄に従うが、どうしても譲れない事、神以外のものを神とする事には反対し、信仰の上から強固にそれを守って生き、そして聖書を方時も離さず、絶えず祈りを捧げていた両親でありました。」

 何が本当に大切なことなのか、Sさんがその御自分の人生の中で、直接経験した両親の生き方、信仰のあり方、持ち方、それらの出来事を通してSさんにとって「すべての人は上に立つ権威に従うべきである」と言う言葉が、その権威とは何かが、明らかにされているのだと思います。このような経験の一つ一つが大切であり、経験が言葉の意味を明らかにするのだと森有正は指摘しているわけです。経験が言葉を作るのであって、先に言葉があるのではないというのです。

 Sさんの葬儀を執り行う前に、私は、御遺族を交えて、葬儀を取り仕切って下さる担当の方と相談いたしました。一般的な式場ですので、キリスト教式の葬儀の経験は少ないと思いましたので、こちらから話を進めて行きましたけれど、ひとしきり相談が終わりそうになった時に、担当の方が、何かの資料を見ながら、恐らく以前に行った葬儀の資料ではないかと思うのですが、おもむろに「聖餐式はされますか?」と聞いてきました。びっくりしました。葬儀に聖餐式をするのだろうか?という驚きもそうですが、キリスト教について殆ど知っているとは思えない方が「聖餐式」という言葉を用いられたのがとても違和感があって、凄く驚きました。
 この人はなぜ「聖餐式」を知っているのか、言葉だけは知っているのか、その内容を知っているのか、どんな思いでそう話したのか、聞いてみれば良かったと後で思いましたが、経験を伴わない言葉が先に来るとはこういう事なのかもしれません。

 本日、読まれました聖書箇所の一つはマルコによる福音書の1章9~11節です。主イエスがバブテスマのヨハネから洗礼を受けるという場面です。バプテスマのヨハネは、荒れ野に現われて、ヨルダン川のほとりで、人々に対して悔い改めの洗礼を授けていた。この働きは一つの宗教改革運動であり、上手くいっていたと思われます。
 その働きに多くの人々が感銘を受け、共感してユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けていました。そこに主イエスもやって来て、ヨハネから洗礼を受けたのです。

 聖書的な説明をするとすれば、人の子として、誕生された神の子、主イエスご自身は罪を犯さない方でありました。ですから罪の赦しを得させる為の洗礼は本来必要無かったはずです。むしろ、逆に御自分がヨハネに対して洗礼を授けるべきであったのに、ヨハネから洗礼を受けられた。それは主イエスご自身が、私たちの誰よりも先に、ご自身が洗礼を受け、教会員名簿に記される名前の最初の方となられた。すなわち、神の子が、私たちの信仰の兄弟となられるためであった、そこに大きな意味がある、と言えるでしょう。

 だから、まだ、洗礼を受けておられない皆さんよ、洗礼はどんなに意味があって、洗礼を受けることによって、罪に死んで、新しい命に生きることが出来るのです。と牧師は礼拝説教でも、求道者の皆さんに対しても、時に応じて何度も何度も話をするわけです。勿論、それがどんなにか大切であるかと思いますし、嘘偽りのない思いから話をいたします。

 けれどまた、私は、主イエスが洗礼を受けられたその意味は、やっぱりご自身が「経験」をされたことに意味があったのではないかと思わされます。当時、洗礼式は、一般的に行われていたわけではありません。当時洗礼式が行われるのは、ユダヤ人以外の異邦人が、ユダヤ教に改宗する時に、異邦人に対する洗礼式があったと言われていますけれど、生まれながらのユダヤ人は洗礼式を受ける必要はありませんでした。実際にユダヤ人の多くは洗礼を受けたこともなかったでしょうし、ですから、このヨハネの運動は新しい運動として注目を集めたとも言えると思います。

 その中で、主イエス・キリストが洗礼を受けられた。その「経験」が洗礼という言葉と出会うのです。経験と言葉が出会う時、その出来事と、言葉はより堅固となって、その人の人生を導くものとなっていく、主イエスが洗礼を受けられたこの時、主はまた新に御自分のこれからの歩みについて思いを馳せていたに違いないと私は思います。

 ですから、一体洗礼式とは何か、罪の赦しとは何か、洗礼によって古い自分に死んで、新しい復活の命に生きるは何か、悔い改めとは何か、あるいは礼拝とは何か、このことを幾度も説明するとしても、その説明を聞く側に、まだ経験が少なかったり、薄かったりする方にとっては、言葉と経験との出会いがまだ多くありませんから、良く分からない場合もありますし、雄弁に語り過ぎると、逆に大切な経験を妨げることになるかもしれません。その人にとって、大切な養いともなる経験を待つ、そのような時期もとても大切だとも思います。

 このような森有正が伝えるような「経験」を大切にすること。専門的な言葉では「実存主義」という言葉で説明されたりします。

 けれど、それではキリスト教は実存主義なのかといえば,それは明確に違います。経験が言葉と結びつく時、より堅固になることは確かですが、キリスト教は「言葉」の宗教であると説明しますのは、何よりも先に「言葉」があったからです。ヨハネによる福音書の1章1節に「初めに言があった。」と記されます。この言とは、もともとロゴスというギリシャ語ですと話しますけれど、このロゴスを日本語に訳すのに、いずれの学者も苦労したようです。けれど新共同訳聖書は、一般的な言葉の葉を抜いて言という一言で言葉と読ませました。

 樹木があるとして、根を張って幹となり枝が伸び、葉が茂る、樹木にとって葉は光合成をするためにどうしても必要なものですが、しかし、幹がなければ葉も無いように、言葉も、葉の一文字はとって、言一つで言葉としたのは意味があると思います。

 なぜなら、この言こそが、「命をもたらす力だからです。」ここにこそ、私たちの命の根源があります。人がどのような経験をするのか、しかし、経験は場合によって、様々な結果をもたらします。

 S兄が、その幼い頃の経験によって、真の神こそ、どの権威にも勝る方であると確信を持つことが出来たのも、先に経験があったのではなく、先に言があって、言がS兄の経験を通して導いて下さったからだと思うのです。

 この言が導かない経験は、時には、神を恨み、人を恨み、社会や自分自身を嫌う原因ともなりかねません。人は様々な経験をして、神を知ることになります。しかし、その経験の更に前に、主なる神が、私たちのどんな状況の中にあって、初めに言があったと告げ続ける。この言と、経験がぶつかる所で、より確かな信仰が与えられるのではないでしょうか。

 その言が、ヨハネの下に来て、洗礼を受けられた、キリスト者の誰よりも先に洗礼を受けられた時、水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降って来るのをごらんになりました。すると天から声が聞こえて来ました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
この言葉によって何が起こったのか?天の国と地上が繋がったということです。

 これまで、人は人、天は天であったのが、主イエス・キリストの洗礼によって、神の国と人の世が一つになったということです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ですから、この言葉は、主イエスのみならず、私たち一人ひとりにも告げられている御言葉です。

 私たちのいかなる経験をも越えて、どのような体験にも先だって、神が私たちと共におられる。神の圧倒的な愛の御言葉が、私たちと、私たちの世界に宣言されているのです。この御言葉を知ることです。すなわち、私たちの価値を私たちが自分で決めてはならないということです。自分の経験を通して物事を見る時に、もし、それだけであったなら私たちは、時には信仰深くなったり、逆に、この世を恨み、呪うことすらしてしまうかもしれません。

 けれど、そうではない、あなたも、あなたも私の愛する子、この言葉に聞き従うことです。自分のそのままが神様に受け入れられていることを知る時に、起こって来る出来事は、私たちの全ての経験が神の宝へと変えられていくということです。そのような経験こそ必要です。

 神我と共におられる。そのことを受け入れ、感謝をもってこの一週間も過ごしてまいりましょう。
 
 お祈りします。

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