日本キリスト教団 大塚平安教会 

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母の力強さ

2018-01-05 11:23:18 | 礼拝説教
【サムエル記上2章1~10節】 
【ルカによる福音書1章26~49節】


 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日、こうして12月24日の朝、クリスマス礼拝を皆さんと共に迎えられますことを感謝します。

 この12月、私は何度も何度もクリスマスの話をさせて頂きました。その時、その時、その場、その場に相応しいお話をと願いながら準備して、私ならではの話をさせて頂きましたが、二日前の金曜日は、かねてから予定しておりました少年院でのクリスマス礼拝というよりは、クリスマス講和をさせて頂きました。
 用意されている時間は30分、話をする前に、責任のある方が前に出まして、少年たちに語り掛けました。「今から教会の牧師先生から、クリスマスの話をして頂きます。皆さん、私が今日皆さんに言いたいのは「よく聞く」ということです。「皆さん、良く聞いて下さい。」というのです。
 そう言われて、話し始める話の、話しづらいことと言ったらなかったです。(笑)
 
 でも、この12月のクリスマス礼拝の中で、唯一と言っても良い、原稿を用意しないで、30分話をさせて頂きました。実際の所、聞いている少年の皆さんも、その周りで聞いている法務教官の方々も、そんなに聖書に記されているクリスマスの物語を知っているわけではないと想定されますので、一連のクリスマスの話をさせて頂きながら、後はそこにどんな神様の愛を見るのか、感じるのかその話をすればあっという間に30分が過ぎていきます。
 
 しかも、今日はマリアがエリサベトを訪ねた箇所を読んで頂きましたが、本来なら祭司ザカリアとエリサベトの話があって、いよいよクリスマスの出来事へと進んでいくわけですが、とても、そこからの話は出来ません。それらのほぼ全てを省略して、どうしてもマリアの告知の場面からの話になるわけです。
 おとめマリアの下に、天の使いのガブリエルが登場しまして、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と告げるのです。当初マリアはその言葉の意味を理解せずに、一体なんのことか分からずに考え込んでしまいます。
 天の使いは続けて、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって、男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と言うのです。マリアは驚いて、「わたしは男の人を知りませんのに」と抵抗を試みますが、更に天の使いは「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。神に出来ないことは何一つない」と譲らず、マリアはその言葉の全てを受け入れて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と神様のお役に立てることを受け入れる決心をする。

 私はこの12月何度も、何度もこの箇所を読みましたが、でも何度読んでも、とても美しい場面だと思わされます。カトリック教会ではマリアに対する信仰というのでしょうか。時には主イエスよりも人気があると言われます。この場面のような純粋な心を持つマリアの姿を感じて、人はその心を捕えられてしまうのだろうとも思います。
 
 少年院では、これまで礼拝の中でも何度も申し上げて参りましたが、私自身が生まれて来た経緯を話しました。母親が18歳、父親が30歳で結婚して、母が19歳で兄を産んだこと。それから5年、二人目の子どもをと願って過ごしていたのですが、思いがけなく母親が結核となり、治療をしながら過ごしていたその頃に、お腹の中に二人目の子どもが宿っていることが分かったこと。既に薬も服用していましたし、胎の子に何らかの影響があると周囲の人々は考えて、父親を含めて、その命は諦めて、自分の命を優先させることを母に勧めたようですが、その勧めを母は受け入れず、たとえどんな子供が誕生して来ようと私は産んで育てますと言って、その二人目を産んだこと。

 その二人目の子どもが私になるわけですが、お陰様で現在まで、私自身、本当に大いなる方に生かされているという思いが消えることはありません。自分の体に新しい命を宿す、男性には、その生涯を通じて一度も経験しない経験を女性は経験し、そしてそのことを通して、男性が思う以上に、その子に対する愛情の深さを母親は持っているものだと思います、という話を一生懸命にさせて頂きました。

 人は、だから何によって生きるのか、尽きることの無い、無尽蔵、無条件の愛、母が子に持つような何の条件も付けないところの愛情によってこそ生きるのではないのかという話をさせて頂きました。何よりも、主なる神から与えられるところの、無条件の愛を感じて成長していって欲しいと願いながら話をさせて頂きました。

 その話を聞きながら、泣きながら聞いておられた方が1人おられて、その方が最初に「みんなよく聞くように」と言っておられた方でした。(笑)その方が一番真剣に聞いておられたのかもしれません。

 皆さん、一人の女性が一つの命を宿す、その出来事は現在では医学的に、科学的にどうなっているのかを説明することは出来るでしょう。現代であれば、女性であれ、男性であれ、不妊治療によって子どもを授かることが出来る、幼稚園のお母さん方の中にも、時としてそのようにして子どもを授かったのですという話を伺ったこともあります。でもね、大切なことはどのようにして授かったのかということも、勿論大切ですが、人は産まれたことによって生きるわけですが、でも、人は愛情によって成長するということではないでしょうか。

 子どもを授かる、その大きな喜びの場面を、旧約聖書のサムエル記という場面からも読んで頂きました。ハンナという女性、夫はエルカナという名前です。エルカナには妻がハンナの他にペニナという女性がいたとあります。そして、ペニナにはエルカナとの間に子どもを授かっており、ですから余計にハンナは辛かっただろうと思います。

 自分に子どもが授からないことを嘆き、憂いていたハンナは神殿で一生懸命に祈りました。あまりにも長い祈りであったために、祭司のエリが、祈っているのではなくて、酔っぱらっているのではないかと思う程に、熱心に、夢中になって祈っていたのでしょう。エリもその姿に感動して、「安心しなさい、神様はかならずその願いを叶えて下さるであろう」と告げ、その通りついに、ハンナにサムエルという男の子を授かるのです。

 サムエルは後に、祭司エリの弟子となり、エリの後を継いで、イスラエルの国を導く指導者となり、サウル王に油を注ぎ、ダビデ王に油を注ぎ、イスラエルを大いなる国へと導く働きをなしていくわけですけれど、ハンナはサムエルが誕生したことを本当に喜んで、大変有名なハンナの祈りと呼ばれる祈りを捧げます。その祈りの箇所を今日は読んで頂きました。

 「主にあってわたしの心は喜び、主にあって私は角を高くあげる。」という言葉からはじまるハンナの祈りです。

 主にあって、わたしの心は喜ぶのです。これまでのハンナの思いはどうして、主は私を顧みて下さらないのかという思いだったでしょう。こんなにも祈っているのに、こんなにも願っているのに、なぜ、私の思いの通りにならないのか。なぜ、私の願いの通りにならないのか。なんでこんなに辛い思いをしなければならないのか。

 皆さん、私も今がその時だ、辛いなぁと思いながら過ごされている方もおられると思いますし、あ~振り返ればあの時がそうだったと思われる方もいらっしゃると思います。私達に試練が与えられる、苦難が与えられる、そんな時には、神などいるものかとも思う時もあります、世の中は自分の思う通りには行かないものだし、あたかもその試練の原因は、自分以外のものにあると考えて、諦めていく人も多いのです。
 
 ある本を読んでいましたら、「人生の最大の悲劇は『自分が不幸であるのは、いつもまわりや環境や育ちが不十分であったから』と言って、逃げてしまうことです」という文章がありました。

 自分が不幸なのは、自分以外の他所に原因があると言い続けている人のところには、なかなか祝福がやって来ないようです。

 ハンナの物語で、もしかしたら一番大切なところは、あの神殿で長い祈りをささげた後、祭司エリと会話をした後、こんな御言葉が続きます。「彼女の表情はもはや前のようではなかった。」もはや、前のような深い悩み、辛い悲しみを通り越して、そして、私の願い、祈り、思いを主は最も良いようにして下さる、そういう確信を持つことが出来た瞬間の御言葉です。愛する子サムエルが与えられる前に既に、ハンナはそのような喜びに生きることが出来たのだと思います。

 長い祈りの後で、主なる神から与えられた信仰は、願いが叶う前からすでに感謝する信仰、であったと言えるのだと思います。
 
 願って、願って、その願いが叶えられる喜び、その喜びはハンナ、夫のエルカナ、祭司エリにとっても大いなる喜びであり、互いに笑顔で幼子サムエルを抱きかかえたでありましょう。

 ここで、クリスマスのマリアに戻りたいと思いますが、マリアにとって、願って、願って、願って御子イエスを授かったわけではありません。むしろ、マリアにとってみれば、御子を授かるのは、全く思ってもいない出来事でした。だから、驚きと戸惑いと不安に包まれました。けれど、その全てを受け入れて、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と天に使いに応答した時に、天の使いは去っていったとあります。
 
 その後、マリアはどうしたのか、本来なら、夫となるヨセフの所へ、この出来事を告げにいかなければならないはずだと思います。けれど、マリアはヨセフではなく、エリサベトの所へ向いました。なぜ、そうしたのか、カトリックの方には少し申し訳なく思いますけれど、マリアの心にはまだまだ、大きな不安があったからだと思うのです。
 
 もともと、マリアとエリサベトは親類でした。ですから、マリアも、あのエリサベトが思いがけないことに子どもを宿したと既に聞いていたことでしょう。あのザカリアとエリサベトの夫妻に子どもが授かったらしいよ。驚いたね、もうそんな年齢は超えていたはずなのにね、親類の間でも評判になっていたかもしれません。マリアも驚いたでしょうが、でも喜んだことでしょう。いずれにしても、そのことと自分がどうかかわるのかなどとは考えてみることは無かったのではないでしょうか。

 けれど、天の使いが現れて、「恵まれた方、おめでとう」と言われた時、自分が神の御子イエスを宿ったことを知らされた時、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と告げた時、マリアどうしても、エリサベトの所に行きたいと願ったのだと思います。1章39節に「マリアはでかけて、急いで山里に向い、ユダの町に行った」とあります。マリアは急ぎました。なぜ急いだのでしょうか、この出来事を本当に、心から喜びたいと思ったからではないでしょうか。

 この時、最初に夫となるヨセフにこの話をしたとしても、今、この状態で、共に喜び合える望みは殆ど無かったと思います。実際、マタイによる福音書によれば、ヨセフはこのことを知って、密かに別れようとしたと記されている。マリアはこの出来事を通して、喜んでくれるはずの人は、エリサベトしかいない、直観でそう感じたかもしれません。
 
 だから、マリアは急ぎました。そしてザカリアの家に入って、エリサベトに挨拶をしたときに、マリアの挨拶をエリサベトが聞いた時に、すなわち、自分の身に起こったことをマリアが告げた時に、エリサベトの胎の子は踊ったというのです。

 エリサベトは聖霊に満たされて声高らかに告げました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶の声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 このマリアとエリサベトとの出会いの場面、聖書で、あるいはクリスマスで大きく取り上げられるのは少ないと思われます。でもとても大切だと思います。この出会いによって、はじめてマリアはこの身に起こったことを心から喜べる思いに至ったのではないでしょうか。
 
 悲しみは一人で悲しむことが出来ます。泣くことも一人で泣くことが出来ます。でも、喜びは一人で喜ぶことは難しいのです。一緒になって喜んでくれる人がどうしても必要で、そしてその為にも主なる神は、マリアにエリサベトを備えて下さっていたのだと思うのです。実際、エリサベトも本当は夫のザカリアと共に喜びたかったに違いありません。けれど、ザカリアは信じられないと思ったために、子どもが生まれるまでは口が利けなくなると天の使いに言われていました。

 だから、余計にここでエリサベトも喜びを爆発させているのです。マリアと共に、自分に宿った子を大いに喜ぶことが出来た、喜びに喜びを重ねる素敵な時間を二人は過ごしたに違いありません。

 その喜びに満たされて、マリアは、心を込めてマリアの賛歌を歌いました。旧約聖書ではハンナが、新約聖書にはマリアが母となる、その喜びを爆発させるようにして歌い上げるのです。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」マグニフィカートと呼ばれるこの賛歌、マグニフィカートとは主を大きくするという意味です。神を大きくし、だから私は小さくなる、けれどそれこそ私の喜び、こんな小さい私をも神様は目に留めて下さったのですから。

 皆さん、この2017年のクリスマスにおいて、私達もまた、私達の喜びは神を大きくすることではないでしょうか。

 そして、神を大きくする喜びを分かち合える一人ひとりと、今ここに主なる神の御計画を喜び合いたいと願います。

 私たちが生きるこの世のクリスマスは、神を大きくしようとするよりは、自分達がいかに大きくなるのか、如何に成功するのか、如何に偉大になろうとしているのか、そのような姿ばかりが目に付くように感じるのは私だけではないと思います。だからこそ、私たちはマリアの喜び、エリサベトの喜びと、共に御子イエスがこの世に誕生されたこの喜びを共に分かち合うためにも、これからも一層、主に感謝して、このクリスマスを過ごして参りましょう。                       

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