日本キリスト教団 大塚平安教会  

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子育ての心 第1回 離婚は法に適うのか

2018-05-08 08:55:16 | 子育ての心
  「離婚は法に適うのか」

 「子育ての心」の冒頭で、いきなり離婚の話しから恐縮ですが、聖書に、こう記されています。

「『ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻と離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。」(マルコによる福音書10章2節)

 ファリサイ派の人々とは、現代でいうところの法律家であり、宗教学者のことです。ファリサイという言葉は「分かたれている」という意味があります。あなたと私は違うという意味です。「私たちは真面目で、あなたがたとは違います。」そんな皮肉が込められているのかもしれません。

 「律法」とは法律のことです。英語でいえば、どちらもLaw です。聖書が意味する律法とは、「神様から授かった教え」という意味で用いられています。現代の民主主義政治の中で、人の手による法とは少し意味が違います。とは言え、どちらも人間世界が安全で円滑に生きていけるように考えられた「決まり事」であることには違いありません。ファリサイ派とは、その「律法」の番人のような人達だったのです。
 昔の話しですから、政教分離などありません。ですから、宗教的指導者であり、且つ政治的、社会的指導者という側面もありました。当時のイスラエルの国会にあたる「70人議会」と呼ばれる議員メンバーに何人ものファリサイ派の人々が選ばれていました。

 現代は離婚するカップルが増える傾向にあるようです。少し古い資料ですが、厚生労働省の記録によると、2002年に離婚件数が29万組となり、一つのピークを迎えています。それ以降は、経済面、教育面等、複雑な社会状況の影響、また、大きな自然災害の影響もあるのでしょうか、緩やかな減少傾向にあるようです。それでも、2016年には凡そ21万7千組が離婚しました。1970年代の2.5倍以上のカップルが離婚していると統計は示しています。

 そんな社会になっているのは、結婚式を司ることもある牧師としては大変残念です。無理して我慢しながら一緒にいるより、仲良く離婚するほうが良い。といった雰囲気を感じますし、「離婚」そのものが社会に受け入れられるようになりました。それは必ずしも悪いとは言えないと思いますが、だから余計に離婚が増えて来ているとも言えるわけで、微妙な思いがします。その背景を考えると結婚そのものが軽んじられる社会になっているからとも言えるのではないでしょうか。
 
 知人の家に、アメリカの女子高生がホームステイしたことがありました。ホストの知人に彼女はアメリカの故郷には友達が10人いて、そのうち8組の親は離婚していると話していたそうです。

 ある宣教師夫婦と仲良くなり色々な話をしているうちに、アメリカの両親や兄弟は、あなたがたはいつ離婚するの?と普通に尋ねられると戸惑いながら言っているのを思い出します。

 ヘレン・フィッシャーという人類学者は夫婦の離婚は4年目が危険と唱えています 。フィンランドの統計等を示しながら説明しています。アメリカではもっと早く、2~3年が危険なようです。恋愛結婚して大体4年すると、結婚当初の恋愛感情が次第に薄れてくる。更に別の異性へと気持ちが移っていく。動物学的には不自然ではないそうです。当然のことながら、年齢的に若い世代にそのような傾向が多く現れるようです。 たとえ子どもがいる夫婦でも、案外障害ともならず普通に離婚し、そして、更に再婚すると記されています。つまり、動物学的に生殖能力が高い年代層であると、より優れた男性、女性に目移りする、不倫する、離婚する、再婚するというパターンが現代社会の、主に先進国と呼ばれる国の中で起こっていることなのでしょう。
ある側面から見れば、なるほどとも感じます。特に経済的側面、本能的な側面から考えると説得力を感じます。けれど、彼女は人類学者ですから、どうしても人間を動物として見る視点が強調されすぎているようにも感じます。

 私は人間を考える場合には、「生」や「性」も大切ですが、もう一つの「聖」の側面を正しく捉えないといけないと思っています。動物的な側面からの見方をすると、あたかも、離婚することは合理性があり、不自然ではない、と考えてしまいそうになるからです。
 子孫が繁栄する為に、つまり動物的「生」に求められていることは何か?沢山の、しかも能力の高い子孫を残すことへの希求、確かにそれは動物的な面、本能と言えるかもしれません。その面だけが強調されるとすれば、「性」としての人間がクローズアップされなければなりません。

 けれど、「聖」としての人間、つまり、「人の微妙に揺れ動く心」についての側面はそれほど簡単に割り切れるものではないと私は思います。確かに、結婚も離婚も法的には一つの制度ですから、その背景には社会情勢や状況、文化、思想が入り組んでいることでしょう。古い旧約聖書の時代であっても、イエスが誕生され、地上に生きられた2000年前の時代でも離婚は一つの必然的な法であったことは間違いありません。 

 私は結婚20年となった今も、妻を愛する気持ちが薄れているとは思いません。むしろ無能で凡庸とも思える私を、夫として受け入れてくれている妻に感謝するばかりです。勿論、日常生活の中で些細な喧嘩をするとしても、それによって離婚が頭によぎることは、まあ考えられません。二人の間には真面目に「聖」なるものを感じます。

 結婚する前のことですが、私が神様の導きのままに、自分が牧師として立てられているのかもしれないと思いながらも、今後、神様の福音を担っていけるのだろうか?そんな思いの中で一心に祈りを捧げ、「神様、私のものは全てあなたのもの、私の人生は全てあなたのもの、ですからあなたの導きのままに私を用いて下さい」と熱心に祈りながら、けれど、その祈りの隅で願っていたのは、傲慢にも「でも、出来れば伴侶だけは私に選ばせて下さい」そんなひどい祈りをしておりました。

 けれど、そんな祈りをも神様は聞き入れて下さったと思います。というより、私が願った以上の伴侶が与えられたと思います。結果的にはやはり、神様の方が何枚も上であったと本気で思います。だから、いつも私の妻でありながら、神様から預かっている方としか思えないのです。それがとても健全な夫婦生活をさせて頂いている秘訣だとも思っています。

 しかし、これからの日本が、益々「離婚」は当たり前となり、もしそうなっていくとしたら、やっぱりどこかで、何かが違ってはいないか?と思うのは私だけでしょうか。何よりも、生まれて来る子ども達に対する愛情や責任が置き去りにされていく現実を私たちは忘れてしまってはいけないと思います。

 さて、聖書に戻りますが、どうしてファリサイ派の人々がイエスに「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と尋ねたのかというと、イエスの時代よりも、もっと古い時代に定められた律法にはこう定められていました。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気にいらなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24章1節)男女関係には、いつの時代も結婚と離婚は最大の問題なのかもしれません。
 この律法の何が問題かというと、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」という部分です。現代の法律の専門家も、同じ法律でありながら、それをどのように解釈するかで意見が分かれ、司法の手に委ねられるように、神様から与えられた律法についても同様の状態だったようです。律法学者によって解釈が随分と違っていたようです。妻の「恥ずべきこと」とは何か?「恥ずべきこと」の明確な一つは、子どもが授からないことだったでしょう。古代の話しですから、子どもが授からない責任が、男性の側に問われることは殆ど無かったのではないでしょうか。女性の責任として扱われたと考えられます。子どもが授からない、それは離縁するに値する最も「恥ずべきこと」でした。

 更に「恥ずべきこと」について、ある律法学者は妻が他の男性と関係を持つ、つまり、「不倫関係、浮気関係」にある状態であると説明しました。それは当然離縁状を書けると説明したようです。しかしまた、ある律法学者は、例えば、妻がまずい食事、焦げたおかずなどを食卓に出したとすれば、それもまた、「恥ずべき」ことであると解釈して、離縁状を書くことが出来るとしたようです。更には、夫が自分の妻よりも、美しいと感じる女性に心が移ってしまった、そこで男性は離縁しようと考えて、何か妻に対して「恥ずべきこと」を主張して離縁状を出す。それも可能だったようです。

 解釈に大きな幅があります。結局のとことは、恐らく現代とは全く違う思考回路の中で、私たちには考えられない程の男性優位社会の中で、圧倒的に夫には有利に、妻には不利に律法が用いられていたのです。夫の思い通りに物事が運べるように出来ていたということでしょう。そもそも、妻が夫に「離縁状」を突き付けることは出来ませんでしたし、「離縁状」そのものが妻に対する配慮であったと言われています。離縁状を持たない元妻は再婚出来ないのです。「離縁状」は、妻が再婚出来るようにと配慮の中で、夫が渡して、今の夫とは正式に別れましたという証明書のような役割を果たしたのではないでしょうか。

 男女関係はいつの時代も複雑なものです。ファリサイ派の学者達の間でも、「離縁」することについては、考え方にも幅があり、案外厄介な問題ではなかったでしょうか。そんな厄介な問題をイエスに問うたのでした。ですから、問うた後の聖書の言葉は「イエスを試そうとしたのである」と書かれてあります。

 試された側のイエスは答えました。「モーセはあなたたちに何と命じたか」

 モーセとは、これまた古い時代の人物ですが、聖書について知らない人でも、むしろ映画などではよく知られています。1956年に作成されたモーセを主人公とした「十戒」 は壮大なハリウッドのスペクタル映画として知られ現代でも見ることが出来ます。「ベン・ハ―」などにも出演しているチャールトン・ヘストン演じるモーセや、ユル・ブリンナーなどが活躍しています。まだ見たことがない方は是非、お勧めの映画です。

 ここで、モーセの話しに深入りしますと、先に進みませんので少し急ぎますが、モーセは神様から、シナイ山の山頂で「十戒」を受け取った本人であり、自分たちは神の民と信じていたイスラエル民族の指導者です。「十戒」は文字通り、十の戒めが書かれた文章ですが、律法の中心でもあり、その他、沢山の細かい律法が聖書に記されています。その律法はモーセが神様から基本的には、口伝によって伝えられたことになっています。勿論、当時の羊皮紙とか、パピルス紙にも書き写され、その完全なものは残っていませんが、断片が現代でも時々、新たに発見されることもあるようです。
 
 そのモーセが律法の中では、「離縁することは許されている」とファリサイ派の人々は答えました。つまりファリサイ派の人々が問うたのは、「離縁」が良いのか、悪いのか、ではなく、どのような状態なら離婚出来るのか、という一つ踏み込んだ質問だったと思われます。離婚出来るか、出来ないかではないのです。

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