日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2021年2月21日(日) ビデオ礼拝 説教題「応答される神」

2021-02-21 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月21日【受難節第1主日 荒野の誘惑】

黙 祷

招 詞 詩編118編22~23節

「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」

讃 美 509番「光の子になるため」 菊池典子姉




聖 書 

旧約聖書 詩編99編1~9節

1 主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。地よ、震えよ。2 主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。3 御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。

4 力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め ヤコブに対する裁きと恵みの御業を 御自ら、成し遂げられる。5 我らの神、主をあがめよ。その足台に向かってひれ伏せ。主は聖なる方。

6 主の祭司からはモーセとアロンが 御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと 主は彼らに答えられた。
7 神は雲の柱から語りかけ 彼らに掟と定めを賜り 彼らはそれを守った。
8 我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神 彼らの咎には報いる神であった。
9 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。

新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章12~15節

12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。15 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。

説  教  「応答される神」 菊池丈博牧師



以下 原稿となります。

応答される神

 今週もコロナウィルス感染予防の観点からビデオ礼拝という形で、私たちの教会は礼拝を守ります。映像を通してという礼拝ですが、その場、その場にあって神様の恵みがしっかりと与えられますように願っています。

 今週は詩編99編から「応答される神」というタイトルとしました。私たちの問いかけに対して応答して下さる神の姿、それは主なる神を信じる者にとって何よりの力となり、何よりも励ましとなるのだろうと思います。

 先日、私は家内と共に市役所に行ってきました。ここのところ説教で何度か話しをしていますが、私の母親が家で転びまして、大腿骨を折って入院しました。それで毎月の入院費用やら、介護の問題やら、相談にと思いまして二人で出かけました。
 最初に、この課であろうと思う箇所で相談しましたら、入院費用の件でしたら、違う番号の所に行ってくださいと言われ、そうですか分かりましたと言われた番号の所で相談をしました。
話を聞いてくださった方が、それなら手続きすれば幾らか補助が出ますよということで、書類を用意していただいた。用意するのに時間が少しかかりますと言われて、介護保険の相談もあるのですがと、話しましたら、それはこの課ではありませんから、違う所に行ってくださいと言われて、そうですか分かりましたと、家内に行かせまして、私は書類を待っておりました。
暫く待って呼ばれて、よく調べたら補助は出ませんでしたと言われ、驚いて家内の所に行きましたら、介護の部署で話をしておりました。
そこで一通り説明を受けた後に、母親の今後の生活について相談しようとしましたら、その相談はここではなく、あちらの番号の箇所に行ってくださいと言われ、そうですか分かりましたと、言われた所に行って、母親の状況を話しながら、困っていますと相談して来ました。そこで相談を受けた方は、親身になって聞いてくださいましたけれど、結局のところ、私たちが知っている知識以上のことは何も得ることが出来ず、大分長く市役所にいましたけれども、来た時の状況と一つの変化もなく家に帰って来たわけであります。

 帰りの車の中で、一人の母親について、何か所も行かなければならないんだねと笑って話しました。また、改めて老後のための蓄えとか備えが必要だということだけは良く分かりました。

 とはいえ、今日申し上げたいことは、縦割り行政がどうの、という問題とかではなく、どの箇所に行っても、対応して下さった方が、親切だったなあと思うのです。今はそういう時代なのかもしれません。きっと優しく対応するような教育を受けているのかもしれません。

 こちらとしては、困っているわけですから、時には厳しい言葉も出たりします。つい感情的になることもあります。そんな人たちが恐らく毎日来るであろうとも思います。でも、感情的にならずに、一生懸命に対応して下さろうとする姿は、ちょっとだけでも癒された思いで帰ることが出来ました。

 悩みが解決するかどうかも大切ですけれど、解決しないとしても話を聞いてもらえる、きちんと応答してもらえる、それだけでも随分と心が軽くなると改めて思います。

 神様をたとえるならば父親のようだと言われます。神様の愛は、母親の愛に一番近いとも言われます。元気な頃の母親は、子ども達に、時々、お父さん、お母さんって本当にいいんだろうねぇと言っておりました。
母親は幼い頃に父を亡くし、母を失い、祖父に育てられていましたから、父の愛、母の愛を知りません。近所の友達を見て、母親がいる、父親がいる家庭を見ていて、羨ましかっただろうと思います。何が羨ましいかというと、お父さんと呼ぶと、「何だい」と答えてくれる。お母さんと声をかけると「なあに」と答えてくれる、これが本当に羨ましかっただろうと思うのです。
父がいて、母がいる、私たちは普段それが当たり前だと思っています。でも当たり前には感動が生まれず、感謝することもありません。誰かが、「親の老後を見るというのは、命をかけた親の最後の子育てだ」と話していました。それも一理あるかなとは思います。当たり前が当たり前ではなく、ありがたいと思いながら、これからも、母親を見ていければと今は思っています。

 人はそのようにして、「何だい」、「なあに」と言って、自分に応答してくれる人を探しながら、生きているのではないでしょうか。
主なる神は天地創造に際して、アダムを造り、アダムに応答する者としてエバを造られました。私はそのことはとても大切だと思っています。

 先週はオリンピック、パラリンピック組織委員会の会長選出の問題が、ホットな話題でした。発端は森会長の不用意な発言から始まりました。女性を蔑視するような発言だと大分騒がれました。思っていることと、話していることは一致していると考えれば、騒がれても仕方ないかと思います。けれど、森会長の存在をも否定するようなコメントも多かったのではないでしょうか。コロナ禍の中で、今、日本中の人々が、世界中の人々が、ギリギリを生きている状況で、誰もが上手な応答が出来なくなってきているのかもしれません。

 だからこそ、主なる神を信じる私たちは、父親のように、母親のようにして、私たちの思いと言葉にしっかりと応答して下さる方の思いを受け止めて、今の時代を生きていく大切さを思います。

 今日、与えられた詩編99編6節から改めで読みます。「主の祭司からはモーセとアロンが、御名を呼ぶ者からはサムエルが、主を呼ぶと主は彼らに答えられた。神は雲の柱から語り掛け 彼らに掟と定めを賜り 彼らはそれを守った。我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦す神 彼らの咎には報いる神であった。」

 モーセは出エジプト記に登場するイスラエルの指導者です。主なる神に見出されて、怯むモーセに対して、神みずからがモーセを励まし、力を与え、勇気を与え、そして兄のアロンと共に、エジプトで奴隷とされ苦労していたイスラエルを導き、出エジプトを果たし、その後40年に亘って、荒野の中、イスラエルを導きました。しかし、その導きは主なる神の御言葉なしには、なし得ない働きであったことに間違いはありません。
祭司サムエルは、イスラエルの人々が願い求めた、イスラエルの王、最初の王となるサウルに油を注ぎ、また二代目の王となるダビデを見いだし、油を注ぎました。偉大な祭司として知られていますが、また、サムエルの働きも主なる神の御言葉なしにはなし得ない業であったと思います。

 モーセ、アロン、サムエル、旧約聖書に生きた彼らは主なる神の直接的な御言葉を聞きました。その御言葉によってどんなに励まされたかしれません。困った時、悩んだ時、主なる神がしっかりと応答して下さる。これ以上の安心は無かったでしょう。
 今、私たちはそのようにして主なる神の御言葉を聞くことは滅多にありません。私にも主なる神が直接的に語り掛けてくれないかな、と思うことは時々ありますが、聞こえることはありません。
でも、だから、主なる神は主イエス・キリストを私たちに与えてくださり、この方を通して、もっと具体的には聖書の御言葉を通して、私たちに応答されているのではないでしょうか。

 その応答の、より具体的には詩編99編8節にある御言葉「あなたは我らを赦す神」とあります。赦す神の姿こそ、主イエスの姿だと私は思います。なぜ神の愛はお父さんのようで、お母さんのようだと説明するのか、それは、その人が何をしているのか、何をしていないのかで判断するのではなく、その人の存在そのものを愛する、そのような愛だからです。

 私たちはその人が何を言ったのか、何をどう思っているのかで判断してしまいます。正しいか正しくないかを判断するのです。自分は判断出来る、そういう資格を持っていると誰もが自分のことを思う必要もないほどに、そう思っているのです。それが私たちです。人の失言はとても気になりますし、自分はそれを批判出来る立場にあると当然のように思っているのです。それが私たちです。あるいは、反省して悔い改めたら許すかな、そう思っているところもあるではないでしょうか。
 
 聖書が示す愛、主イエスが示すところの愛も、赦す神としての姿です。でもその赦しは、人が思うところの赦しとは全く違った次元ではないかと私は思っています。
カトリック教会のある神父は、「赦しとは水に流すこととは違う」と説明されました。その深い意味を私は理解しきれていないと思いますけれど、そこには悔い改めへと導く大切さが示されているのかもしれません。けれど、あえて申しますけれど、自分の罪を、罪として認めたところから神の赦しが発出されるのではないと私は思っています。
主イエス・キリストが伝えようとする赦しは、きっともっと違うところにあって、たとえるなら、主イエスの服の裾にさえ触れれば、あるいは癒されるかもしれないと思い、そのことをした女性が癒されたように、姦淫の罪で連れて来られた女性に対して、最後には誰も石を投げないようにしたばかりか、主イエスも自分も投げないと言って下さったように、神の赦しは、その人が何をやっているのか、何をどう思っているのかではなく、圧倒的で、一方的で、決定的な、そして十字架刑という命がけの「赦し」なのです。
 そのような赦しの体験を通して、人は神の愛を知るのではないでしょうか。

 その赦しは、恐らく人には出来ない業であるかもしれません。でも、人には出来なくとも神には出来ると主は教えておられました。だから私たちは主なる神の確かな赦しの「応答」を受けて、そこから、そうかまた生きていける、そうか、また元気にやっていこう、と何度転んでも、転びそうになっても、立ち上がってまた一歩を歩いていけるのです。

 そのようにして、私たちは元気に過ごして参りましょう。お祈りします。



  


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