日本キリスト教団 大塚平安教会  

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人の罪を救う方

2018-03-19 10:30:53 | 礼拝説教
【マルコ福音書8章27~33節】

「人の罪を救う方」

 最近、本屋さんに行きますとタイトルに「何とかの哲学」という言葉の本が多いと感じます。例えば、前回にもご紹介しましたのが、「ジブリアニメで哲学する」という本でありました。子どもが好きな「となりのトトロ」という映画ありますが、タイトルの通り、「となり」という言葉の意味がどんなにか大切かと記してありました。
 その文章を読みながら、私は、聖書に記されている「良きサマリア人の譬え」を思い出したのですが、山で追いはぎに襲われた人の隣人となってくれたのは、祭司でもなく、レビ人でもなく、その地域で嫌われていたサマリア人であった。あなたもそのようにして人の隣人として、すなわち「となり」として生きていきなさいと言われた場面を思い起こしながら読みました。

 その後に購入しましたのが、「愛とためらいの哲学」という本です。この本はベストセラーにもなりました「嫌われる勇気」という本の著者でもある、岸見一郎さんという方が記されたものです。
 岸見さんは、アドラーという心理学者の研究者でもありますが、人間の具体的な愛の形について、もっというなら恋愛について、あるいは夫婦関係について、つまりは男女の関係について、けれど、最近は、男性が男性を、女性が女性をという関係もありますから、男女というだけではなく、大切なのは一対一の関係について記されているのが特徴です。

 文章の中にこんな言葉がありました。「私たちは一人で成し遂げることができる課題、あるいは、多人数で成し遂げる課題については教育を受けて来ましたが、二人で行う課題については何も教えられてこなかったのです。」とありました。この季節、受験シーズンで、学校に合格するために、必死に頑張っていた若者が多いと思います。目標に向かって、一人で頑張ることが出来る。あるいは逆に学校でも30人なら30人、40人なら40人という具合にクラス単位で物事を考えることは教わるのです。教会でも、4月の末には総会がありますが、そこで話し合われることは教会の一年間の計画であり、目標であったりします。ですから大きなまとまりとして考えることは案外経験するものです。

 ところが、一体一、つまり「あなたとわたし」という関係について教わることは、学校でも、家庭でも殆どないというのです。もしかしたら、特に日本社会では殆どそういう機会が無いようにも思います。

 よき配偶者という意味で使用される「ベターハーフ」という言葉がありますが、この言葉の由来はギリシャ神話の喜劇的な場面とのことです。もともと人間は二人で一人で、つまり、二人の背中がくっついて背中合わせのようにして暮らしていたというのです。ところがこの人間は、わがままで、強情なところもあったので、ゼウスという神が怒りまして、二人を引き裂いて、別々にしてしまった。だから二人は離されたもう一人を探し、その一人を見つけると喜んで結婚するのだというのです。だからベターハーフというのだそうです。

 全く聖書的な話しではありませんけれど、人の愛を考える時にはなるほどと思うような話かもしれません。

 今週の火曜日には幼稚園の「聖書に親しむ会」がありますし、金曜日には「発展 聖書に親しむ会」が予定されていますけれど、若い夫婦、家族の、特にお母さん方が集まる集会ですが、良く自分の夫が家事に、育児に協力してくれないという相談を受けます。時には夫の悪口合戦のようになることもあります。そんなことを聞いていますと、自分のベターハーフはこの人こそ、そうだと思って結婚したはずが、子どもが産まれてみると、子どもこそがベターハーフになっているケースがよくあると思います。
 そうなると、もはや夫は必要ではありませんから、時には邪魔とさえ感じるのかもしれません。けれど、夫のほうは相変わらず、自分と妻の互いの背中はくっついていると思っていますから、片方がそう思っても、片方が思わないと関係が上手くいかない、崩れていくという方向になるのではないか、そんなことを思わされます。

 さてここでキリスト教という宗教観を考えます時に、キリスト教が私たちの信仰として大切にする信仰のあり方として、この一対一という関係性があるのではないでしょうか。今、「私たちの信仰」と申し上げましたけれど、正確に言うなら、私の信仰、もっと言うなら、主なる神と自分との関係はどうか、が問われているのではないでしょうか。
 
 本日は、マルコによる福音書の8章から読んで頂きました。ペトロが主イエスに対して「あなたはメシアです」と答えられた場面を読んで頂きました。なぜ、そう答えたのか、主イエスは、弟子たちと旅の途中にありました。フィリポ・カイサリア地方と呼ばれる地域におられた時の話しです。その地域は緑が濃く、豊かな自然に恵まれた地域だったようです。その旅の中で、主が弟子たちに尋ねられました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」
 
 弟子たちは、互いに「洗礼者ヨハネだ」と言っている者もいれば、旧約聖書の偉大な預言者である「エリヤだ」という人もいますし、あるいは「預言者の一人」として捉えている人もいますと答えます。
 
 そこで、主が改めて弟子たちに問うのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」人のことではなく、あなたがたは私をどう思うのか。この時、弟子たちが問われたのは、あなたと私の関係は、一対一の関係はどうなっているのかということです。

 数日前に、教会のチャイムが鳴りまして玄関に出て参りましたら、ある70代位と思われる年配の男性の方がおられました。出て行きましたら「あなたが教会の牧師ですか」と尋ねられまして、そうですがと答えましたら、ちょっと驚かれたようでした。何年になりますかと聞かれましたので、8年位になりますと答えましたが、あ~、もうそんなになるのですかと改めて驚かれました。
 
 話を伺っておりましたら、かなり以前、よくわかりませんが、恐らく乙幡先生ではないかと思うのですが、もっと前の時代の頃に教会か、幼稚園と関係があって、その頃に来られていた方だったと思われます。割合にお近くにお住まいのようですが良く分かりません。とにかく、教会が綺麗になって、大きくなっているのに気が付いて寄ってみたというのです。ですからよくお出で下さいましたと、話しを伺いましたが、話される言葉の端々に、「私は信者ではありませんが」、「私は信者ではありませんが」と何度も言われるのです。((笑)ですから、「今からでも、全く遅くありませんから、是非、礼拝にお出で下さい」と申し上げておきました。(笑)
 
 皆さん、「私は信者ではありませんが」という言葉は、私はやはり、一つのその人の思いだと思います。自分は主なる神との関係はないけれど、ということでしょう。勿論、だからダメという訳でもありません。教会に来られると言うだけでも、本当はありがたいことです。

 主イエスが聖書の中で一番大切な教えは何ですかと問われた時に、「神を愛する事、隣人を愛する事」と答えられたように、何年も教会や、幼稚園に来ていなかったけれど、ふと思い出して寄って下さる。感謝なことですし有難いことです。隣人を愛する愛のある姿だと思います。
 
 ただ、私たちとしては、そこで終わってしまわないようにしなければならないと改めて思います。
 
 マルコによる福音書の続きを読みますと、主は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められ」ました。しかも、そこのことをはっきりとお話になられた。すると、ペトロは主をわきにお連れして、いさめ始めました。イエス様、メシアともあろう方が、そのような弱気では困ります。私たちも弟子としての気持ちが萎えてしまいますから、そのようなことは言わないようにしてもらいたい」そんな話をしたのでしょうか。

 主は、振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」強い言葉だと思います。人間の事を思う。この「思う」とは、「ひとつのことを思い続ける。いつも同じ方向を向いている思いを抱く」という意味があります。私たちの悩みは、いつも人間のことを思っての悩みです。人に方向が向いているのです。

 最初に紹介したアドラーという心理学者が教えるのは、人の悩みは、全て対人関係にあると言い切ります。対人とは自分以外の人のことですが、アドラーは、自分と自分との関係をも対人関係に含まれると教えます。つまり、自分が人からどう思われているのかがとても気になり、他人の評価が自分の評価ともなるということです。他人から評価されれば自分も自分を評価する、他人が評価しなければ、自分も自分を評価しない。そして、不思議なことに、自分が自分を愛する量と同じ量でもって、人を愛することが出来るのだそうです。
 
 名前は申し上げませんが、太平洋戦争の敗戦の後、戦後のキリスト教の復興のために、働かられたある著名な先生の説教を読んでおりましたら、自分が牧師としてとても自信が無いと語られている文章がありました。自分は、言葉によって人をつまずかせ、作為の無さすぎによる罪を負い、他者の罪を共に負って、共にキリストからの執り成しの祈りをいただこうと思っても、多くの場合その時期を失ってしまう。責任の所在を自他共に期待するも、糠に釘のような状況になっているし、牧師として時期の見極めが遅く、人心の期待に対して、後手に後手にと、まわる愚かさを抱えているのです。私にとってこれ以上の切実な問題はありません。と告げておられた。

 けれど、だからと言って、その先生は自分がダメな牧師で、能力がないことに悩み、もう辞めたいと言っているわけではないのです。むしろ、それは自分自身の問題であるので、その問題にかかずらうことは避けますと告げて、主の福音宣教に没頭していくのです。

 そして、実際には後に牧師だけにとどまらず、後進の指導者として、また、大学の学長までも歴任されておられます。そのような先生でさえ、自分自身の中に自信を見出すことは容易でないと告げられる、正直な思いを告げられています。けれどなぜ、それでもなお、主イエスの福音を語り続けることが出来るのか?

 改めて思いますが、使徒パウロも同じような事を言っているのではないでしょうか。コリントの信徒への手紙の中で、自分がどれほど、弱さがあり、欠けがあるのかを告げつつも、しかしそれでもなお、主が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ、大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」コリントの信徒への手紙二 12章に記されている御言葉です。

 主イエスはペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間の事を思っている。」と告げています。神の福音、神の導き、神の祝福、神の平和、神の平安のことを思わず、人の評価と、自分の力の無さに打ち崩れる時、私たちはそこで、主なる神を見失う危機に陥ります。だから、あたかもサタンの罠に陥らないように気を付けなければなりません。
 
 これから、私たちは月の最初の主日ですから、聖餐式を執り行います。この聖餐式は主イエスの体としてのパンと、主の血としての杯を受けて、主が自分と共なって下さり、神と私の関係が、大きな祝福と、限りない希望と、喜びで出来ていることを忘れないようにと教会の礼拝の最も最初から行われている儀式です。この聖餐は洗礼を受けた方が、受けられるようになっています。ですから、私は、是非、ここに集われる方、全員の方が聖餐を受けられますようにと、洗礼式へと、あるいは信仰告白式へと進まれるようにと願いつつ執り行います。
 
 人が何と言おうと、誰がどうであろうと、神と私の一対一の関係によって、わたしはいつも、祝福され、力与えられ、罪赦された者として人生を生きていこうと新たに決心される方が1人でも与えられますように願います。「あなたこそメシアです。」と告げる方が1人でも導かれますようにと願います。また、その為に主が命を懸けて、私たちを支えられたことを忘れることなく、この3月も共々に過ごしてまいりましょう。

                                                              お祈りします。
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