日本キリスト教団 大塚平安教会 

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いつまでも、どこまでも

2018-12-09 16:13:53 | 礼拝説教
【創世記25章1~11節】
【エフェソの信徒への手紙4章22~24節】

「いつまでも、どこまでも」

 2018年度、大塚平安教会の召天者記念礼拝において、旧約聖書 創世記25章が読まれました。信仰の父と称えられるアブラハムが天に召されて行った場面が記されています。アブラハムがなぜ「信仰の父」と言われるのか。創世記12章に記されていますように、このアブラハムからイスラエルの歴史が始まったからと言えると思います。
 
 主はハランという町に家族と共にいたアブラハムに声をかけました。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める」そのような神の呼びかけに、アブラハムは応答するようにして、アブラハム75歳、妻のサラが65歳の時に、甥のロトと共に神の示す土地、カナンの土地を目指して旅に出ました。まだ見ていないけれど、神に対する信仰によって、神の御言葉を信じて旅に出た。
 そこからイスラエルの歴史が始まるのだと聖書は告げています。そして実際にアブラハムは多くの苦難を乗り越えながら、独り子イサクが与えられ、イサクからヤコブがヤコブから12人の子どもたちが与えられ、イスラエルが繁栄していくことになります。私たちの良く知るところでもあります。
 
 けれど、そのようにして生きたアブラハムの晩年はどうであったのか、またどのようにして死を迎えたのか。私たちはそのような個所にあまり関心が向かなかったかもしれません。その最後の場面が記されているのが創世記25章という箇所になります。 
 アブラハムの晩年と言いましても、いつから晩年と呼べるのか、難しいと思いますが、少なくともアブラハムは175歳で天に召されたことがわかります。主なる神の呼びかけから丁度100年生きました。妻のサラはアブラハムより先に召されています。
 
 サラの死については創世記23章に記されています。サラの生涯は127年であったとあります。サラはアブラハムより10歳年下ですから、サラが召されたとき、アブラハムは137歳でありました。ですからそれから38年の間、アブラハムはサラを亡くして一人寂しくまさに晩年を過ごしたであろうか。誰もがそう思うかもしれません。

 けれど、創世記25章に記されている出来事は、そこからアブラハムは悲しみの中で祈り、静かに生きて死にました、と記しているわけではありません。

 むしろ、驚きと言っても良い、なんと「アブラハムは再び妻をめとった。」とあります。ケトラという女性と結婚した。結婚したばかりか、アブラハムとケトラとの間に、6人の子どもが誕生しています。

 子どもの教会のキャンプや、地域教会のバーベキュー大会などで、互いの交わりを深めるために、「アブラハムには7人の子」という歌がありまして、その歌と共にダンスを踊らされる。私はあの踊りが大分苦手で、運動音痴ですから、最後ま
でついていけないのです。

 それよりもその歌を初めて聞いた時に、なんとバカな歌を歌うものだと思っておりました。アブラハムには独り子イサクしかいないはずだと思っていたからです。ですからこんなバカな歌を教会のキャンプで歌うなんてと思ったのですが、私のほうが理解不足でした。アブラハムには7人の子、でも本当はハガルという女性との間に生まれたイシュマエルという子どももいますから8人の子であるはずなのですが(笑)きっと踊りきれないからなのかもしれません。(笑)

 いずれにしてもサラの死後、恐らくあまり時を移さず、アブラハムはケトラと再婚をして6人の子どもが授かっている。ですから決して晩年とは呼べないと思います。むしろ晩年と呼べるよう時は無かったと思われます。とはいえアブラハムもサラに対して少し薄情ではなかったかと思わないでもない。けれど、私はそこにこそ、アブラハムの信仰と、生き方、人生観があったのではないかとも思うのです。

 アブラハムはいつまでも過去に生きようとしませんでした。サラと共に歩んだ人生の中で、その人生の旅の中で学んだことの大切な一つは、人は過去にとらわれ、過去のあのこと、この事に生きてしまうと、自分の人生を前に進めることが出来なくなる、ということではないでしょうか。

 神様に与えられている地上の人生は限られています。その限られている人生をどう生きるのか、私たちに与えられている課題でもありますが、その課題に対してアブラハムは前に進み、前進していくことを求めました。これが彼の信仰の姿だと思います。そして、その歩みを神様は祝福して下さった。

 新約聖書 エフェソの信徒への手紙4章22節から読んで頂きましたがそこには「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって作られた新しい人を身に着け」とあります。その意味は、あなた方は、あなたがたの過去のあのこと、このことに生きるなということではないでしょうか。生きていると色々なことが起こります。楽しいこと、嬉しいことばかりではありません。むしろ悲しいこと、辛いことの方がずっと多いとさえ感じます。そしてなにより悲しみを感じるのは、家族の死であり、長く連れ添った人の死であろうかとも思います。

 しかし、その死に立ち向かい、その死を乗り越え、むしろ故人の思い、信仰を受け継ぎながら、前を向いて自分の人生を歩もうと、アブラハムはそう生きようとしたのだと思います。

 更にまた、ヘブライ人への手紙11章8節からの箇所を読みますとこうあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されるとこれに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐものであるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」とあります。

 この御言葉が意味していることの一つに、アブラハムはヘブライ書にもしるされていますが、「約束されたものを手に入れなかった」ということです。

 神が約束されたもの、それはカナンの土地です。もともとアブラハムとサラとの旅はこの約束の土地を目指したものでした。その旅の中で、時にはエジプトに滞在したり、今でいえばパレスチナ地方のゲラル人と呼ばれる土地に滞在したりしながら、それでも滞在の多くは受け継ぐはずの土地であったカナンの土地であったと思いますが、アブラハムはいつでも、どの土地でも寄留者でした。生涯において、その土地において、寄留者であり続けました。

 アブラハムが手に入れた確かな土地は、妻のサラが召されたとき、ヘト人と呼ばれる人々の間に住んでいたのですが、ヘトの人々に頼み込みます。「わたしは、あなたがたの所に一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」と願って、銀400シェケルを支払い、墓の為の洞穴とその前の畑を買い取ったとあります。これがアブラハムが本当に所有した土地の全てです。

 ですから、アブラハムは主なる神に対して訴え出ることも出来たかもしれません。神様、約束が違うではありませんか。あなたは私にカナンの土地を約束して下さったはずだ。けれど、今のこの時も、いつも幕屋住まいです。これは約束違反ではありませんか。」そう訴え出ることも出来たでしょう。実際、アブラハムが召された時に、息子のイサクとイシュマエルが協力して、妻のサラが葬られた自分の土地に葬ります。それでアブラハムの生涯は幕を閉じることになります。

 一体、主なる神はアブラハムに対して約束を守らなかったのでしょうか。熊本県の教会で牧師をしておられる米村英二という先生はこの問に対して優れた答えを示しています。「第一は、約束されたと私たちが思っているような形で、神の約束が実現されることはないということです。人生に対する私たちの期待は裏切られるでしょう。人生は失望の連続です。」とあります。かなり厳しい説明だと思います。しかし、第二に、「にもかかわらず、私たちの想像もしなかった形で、その約束は実現されるだろうということです。」このように記してあります。

 実際、アブラハムは主なる神に対して約束が違うではありませんかと不服や苦情を訴えるような場面はありません。あるいはその約束が本当に実現するであろうと期待し続けていた様子も見られません。

 米村先生は、アブラハムは、年齢とともに神が自分に約束されたものが、土地や財産、仕事の成功といった外面的なものではなく、もっと内面的で永続的なものであることがわかってきたのではないかと記しています。そしてアブラハムが求め、求めていたのは「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」ではなかったと教えておられます。

 もともと、主イエス・キリストその方の歩みもまた、私たちに告げておられる祝福の福音は「永遠の命」です。主の弟子たちをはじめとする多くのイスラエルの群衆は、主イエスに新しい国の栄光を夢見ました。メシアと呼ばれた人々はこれまでの歴史の中で、大きな国と闘い、その国を破り、独立国として自分達の国を造り上げてきた人々である。そのような英雄と主イエスを重ね合わせたと思います。そのような指導者としての主イエスに期待したと思います。しかし、そのような期待にあまりにも敏感に反応した時の政治的、宗教的支配者は主イエスを捕らえ、十字架刑へと進みます。

 その時、主はなにも反論もしません。主イエスに大きな期待を寄せていた群衆にとってみれば、あたかも簡単に期待を裏切られた形となり、希望から失望、そして怒りとなって「十字架につけろ」という叫びとなっていったのではないでしょうか。まさに「約束されたと私たちが思っているような形で、神の約束が実現されることはない。」そのままの出来事であったと思います。主イエスは十字架にかけられ、そして誰もがそれで終わったと思いました。

 しかし、そこから神の「にもかかわらず」の出来事が始まりました。「私たちの想像しなかった形で」すなわち、三日目の朝早く、復活という出来事によって、神の約束は実現されたわけでありました。復活された主と出会った婦人たち、弟子のペトロをはじめとする十二人の弟子たち。それからコリント書によれば、次いで五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、次いで、弟のヤコブに、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私、パウロにも現れて下さいました。復活の主イエスと出会い、聖霊を受けた弟子たちは、そして何よりもパウロこそは、「にもかかわらず、私たちの想像もしなかった形で、その約束は実現される」出来事をその人生において体験したのだと思います。だからこそパウロは告げるのです。「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」ことだ。神によって過去に生きるのではなく、新しい人を身に着ける。それが信仰者の歩みだと思います。

 私たちが迷いの中にいると、以前は良かったなと思う。過去のあのこと、このことは良かったなと思う。前に進むのではなく過去に戻ろうとする力が働くのでしょう。けれど、私たちは今日見てきましたように、アブラハムの信仰のように、パウロの信仰のように、なによりも主イエスが私たちに指し示して下さった。十字架と復活の出来事を通して、全ての罪が赦された者として、「前に」と進んで参りたいと思います。

 そして、そのような生き方を、信仰を杖として歩んで来られた先達を偲びつつ、この時主なる神に感謝して過ごして参りましょう。
 お祈りしましょう。
 

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