日本キリスト教団 大塚平安教会  

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心のまっすぐな人

2019-06-02 18:28:45 | 礼拝説教
【詩編11編1~7節】
【ヨハネの手紙一 1章5~10節】


 今朝9時からの、子どもの教会、ファミリー礼拝では、次週のペンテコステ礼拝に向かって、使徒言行録の1章が読まれました。主イエスは十字架の死から三日の後、復活され、40日間弟子たちと共に、おられ、それから天に昇って行かれた。2019年、今年でいえば、主の昇天日は5月30日、先週の木曜日となります。
 
 主は弟子たちに、聖霊を与える約束をして、天に昇って行かれたのですが、天に昇り、聖霊が降るまでの10日間は、復活の主もいなければ、聖霊も降って来ていない。いわば、この地上に神がおられない状況の10日間とも言えるでしょう。弟子たちは真に不安な状況を過ごしていたでありましょう。
 
 けれど、だからこそ主の弟子たちは共々に集い、必死に祈りを捧げました。弟子たちだけではなく、主イエスの母マリア、主の兄弟、女性も男性も一緒になって熱心に祈りを捧げた様子が記されています。その数は120人とあります。

 主イエスの地上でのお働きは真に素晴らしいものでありました。病の人々を癒し、悪霊に取りつかれていた人々を解放し、貧しい人々に福音を語り、神の国の到来を告げ、休む暇もなく働かれました。ですから主の回りにはいつも民衆が集まり、人々は主イエスに大きな期待をかけました。けれど、時の指導者は、その様子を妬み、恨み、怒り、ついに主を捕らえ罪人として十字架に架けてしまいます。これで全てが終わったと、時の指導者は安堵し、弟子たちは散り散りになります。しかし、主は復活され、弟子たちは喜びましたが、「復活の出来事?そんなバカなこと」と、最初から信じない人々もいたでしょう。更にその後、40日経ち、主は天に昇られていかれた。

 私は、ここでも、主の元から去った人々は大勢いたのではないかと思います。イエス様は結局、私たちの所から離れてしまったのではないか。そう感じた人もいたのではないでしょうか。

 けれど、主イエスと出会い、主イエスに触れ、しかし、主イエスが捕らえられ、十字架に架けられ死んだとしても、更には、三日の後の復活を自分のものとして受け止め、復活から40日後の主の昇天を経験し、尚、主イエスこそ、私たちの救い主、この方こそが、私たちを導いて下さる方と信じて、祈った120人がいました。その一人一人がどんな人たちであったのか、よく分かりません。

 しかし、想像を膨らませるとすれば、その中には直接の弟子たちだけではなく、「今夜、わたしはあなたの所に泊まる」と言われ、感動を持って心を入れ替えたザアカイの姿があったかもしれない。せめて、この白い衣にさえ触れさえすればと願って、やっとの思いで主イエスの衣に触れて、その瞬間12年の出血の悩みから解放された女性がいたかもしれません。38年の間、病気を患い、あのベトザタの池に一番に入れさえすればと願いながらも、適わないですごしていた男に、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ癒された人もいたかもしれません。しかし、それはわかりません。
 
 けれど、この120人が、主イエスの状況がどんな時であっても、尚、主を信じ、主から離れず、主を見上げ、主に向かってまっすぐに歩んだ120人であり、そこには男も女といった性別の差もなく、年齢の差もなく、既にこの時、男と女が共に同じ場所で祈ることさえ許されなかったユダヤ教という宗教の壁を越えようとしていた120人であったと思います。

 今日は、詩編11編を読んでいただきました。この詩編を読む時に、感じられるのは、主なる神に従い、主に対して「まっすぐに生きよう」としている、そのような信仰に生きようと願っている人が記した詩であろうと思われることです。
 
 しかし、3節を読みますとこうあります。「世の秩序が覆っているのに 主に従う人に何ができようか」と。この著者は、先ほどの120人のように、主に従い、主の教えにまっすぐに生きようと願っているに、この人の知人であるのか、友であるのか、詩編を記した彼に忠告するのです。「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ 闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに 主に従う人に何ができようか。」

 「世の秩序が覆っている状態」、一体どのような状態に置かれていたのであろうか、その詳細はわかりません。しかし、はっきりわかることは「主に従う人に何が出来ようか」とあざ笑う人々がこの世を支配している、そのような状況が起こっていたということでしょう。しかも、「闇の中から心のまっすぐな人を射ようと狙っている」命の危機にさえ置かれている状態であることも推測されます。だから著者の友は「鳥のように山へ逃れよ。」と伝えるのです。

 人の世にあって、しかも神を神としない人々が世を支配するような中で、「逃げる」これは一つの大切な自分を守る行動の一つであろうと思います。
 
 皆様がご存知のように、先日、5月28日の朝、登戸の駅で大変残念な、また悲しい事件が起こりました。突然刃物を持った男が、待ちゆく人々を切りつけ、更には、通学バスを待っていた小学生の列に向かい、切りつけたというのです。その間、わずか十数秒であった聞きました。逃げる暇もないほどの短い間に、二人の命が奪われ、18名の方々が傷害を負ったと言われています。犯人の男も自分で自害し、なぜ、そのような事件を起こしたのか、起こさなければならなかったのか事の真相はわからないまま、しかし、色々な側面から、ニュースや評論家がコメントを出しているようです。

 犯人の男の成育歴なども紹介されていて、幾らかの同情の余地があるのかもしれません。犯人自身が自分なりに「この世の秩序が覆っている」と感じていたかもしれません。しかし、だから自分も世の秩序を覆して、人を切りつけて良いという論理は全く成り立ちません。
 
 切り付けられた小学生たちは、「カリタス小学校」に通っていた子どもたちであったと報道されていました。カトリックの系列の学校ですが、カリタスとはラテン語で、「愛」という意味があります。ギリシャ語で言えば「アガペー」神の愛という意味です。神の愛に包まれて成長していって欲しいと願う思いを込めて、命名されたのではないでしょうか。
 
 犯人は長い間の、引きこもりであったとも言われているようです。そこで改めて思わされることは、悲しい事件、やるせない出来事の多くが、神と人、そして、人と人、との関係が切れてしまっている状況で起こるのではないのかということです。
 
 先ほど、新約聖書ではヨハネの手紙の一を読んでいただきました。1章5節から読んでいただきましたが、改めて5節から7節を読みますとこう記されています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、お互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」

 ここに「神は光であり」とあります。「闇は全くない」とあります。そしてその光の中を私たちが歩むのであれば、お互いに交わりを持ち、御子イエスの血によって清められると記されている。

 大切な言葉は「交わり」という言葉です。ギリシャ語ではコイノーニアと申しますが、ギリシャ語の中でも、最も美しい言葉の一つと言われています。コイノーニア、交わり、それは例えば、結婚関係を現す言葉として、女性と男性との社会生活において、あるいは大きく言えば、国家的、政治的な交わり、関係を作ることとして、友情の本質を現す言葉として、共同体、協力という意味を現す言葉として用いられた御言葉です。

 何よりも、宗教的な意味においては、神と人とのコイノーニア、交わりが表されます。先ほど使徒言行録の場面で120人の男性、女性が一緒になって祈りを捧げていた場面もまた、そこに神と人、人と人との豊かなコイノーニア、交わりが表現されていると思います。
 男性も女性も、性別を越えて、子どもも、年配者も、年齢を越えて祈りを献げることが出来る。
 
 パウロはガラテヤ書(3章28節)という箇所で、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と記しました。この御言葉の状況は、主なる神による、真の光に包まれながら、まさに世の秩序が覆って、神の秩序が現れた時にこそ起こり得るのではないでしょうか。

 そして、その神の秩序を私たちはこの教会において、表していきたいものだと思います。

 花巻教会におりました時のことです。1人の青年が教会を尋ねて来られた。少し陰のある青年だなと感じながら話を伺いましたが、信仰について色々と疑問を持って話をしたかったのだろうと思います。
ご自身の仕事の関係上、色々な町に行き、様々な教会を尋ねるのだそうです。そして、勿論、どこの教会も、良くいらっしゃいましたと言って歓迎してくれるそうです。 

 けれど、何度か同じ教会を尋ねてみて、色々と関係を持つうちに、わかってくる事がある。それはどの教会に行っても、どうもそのようなのですが、信仰を持っている人と、信仰を持っていない人と一体どこが違うのだろうか、見た感じ、話した感じ、何か違うものがあるのかというと、そうでもない。礼拝に出席してみても、そんなにみんなが嬉しそうにしているわけでもない、どういう事なのでしょうか。そもそも神様っているのでしょうか。そういう質問をされたことがありました。
 そんな質問をされるとドキっとします。一瞬答えに詰まる思いですが、けれども私はこう答えました。「それは、本当に残念な事でした。けれどももう心配はありません。是非、私達のこの教会の礼拝に出席してみて下さい。礼拝に出ている皆さんの顔は、神様の光りを浴びてみんな輝いていますよ」と話しをしたことがあります。その後、その青年は暫くの間、花巻教会に喜んで出席して下さいました。

 皆さん、「教会に人が来ない」とか、「若い人がいない」といって嘆いている場合ではありません。是非、嘆きの顔ではなく、喜びの顔でもって、この教会は神の闇の無い光の教会ですと、胸を張って私たち生きていきたいものです。この世の秩序に丸め込まれてしまうと、神の教会までが、その世の秩序に飲み込まれそうになり、人を差別し、共に祈れず、互いに非難し、福音の御言葉が告げられない、そのような教会があるとしたら、なんと残念なことでしょうか。

 私たちはこの世ではなく、神の秩序の中を、どんな状況に陥ったとしても、共に集い祈り続けたあの120人の人々のように、主の御顔に照らされながら、祝福をしっかりと受け止めながら、主なる神、主イエス・キリストに対して「まっすぐな心」を持って生きて参りたいと願うものであります。

お祈りいたします。


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