【イザヤ書50章4~7節】
【マルコによる福音書14章32~41節】
本日は受難週の礼拝です。先ほど9時からの子どもの教会では、伝統的に受難週の礼拝で読まれるマルコによる福音書11章から、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された場面を読んで礼拝を守りました。今日は、私が説教当番ではありませんでしたが、先日その箇所を改めて読み直しました。読み直す中で、分かっていたようで分かっていなかったなぁと改めて思わされたことがありました。
単純なことですが、主イエスは、なぜ子ロバに乗ってエルサレムに入られたのかということです。馬ではなくロバであった、しかもロバの子であった。それは真の「平和の主」という姿を人々に見せるためであった。そのように思っておりましたが、それだけでは足りない、もともと、なぜ、主イエスがエルサレムに入られようとした時に、エルサレムの人々は棕梠の葉を敷いて、自分達の着物まで敷いて大歓迎して迎えたのか。
棕梠の葉を敷く、自分達の着る物を敷く、その様子は現代に照らし合わせるとすれば、例えばレッドカーペットを敷いたような様子ではないでしょうか。
先日アメリカで行われたアカデミー賞で、日本の「ドライブ・マイカー」が栄誉ある賞を受賞したことで話題となっていましたが、女優さん、俳優さんが会場に入る際に、通路にレッドカーペットが敷かれていて、その上を歩いては入ることが栄誉だと言われます。
多くの女優さん、俳優さんがいつかは自分もその上をと願っているでしょう。あるいは国が国賓として招いた国の元首、要人が飛行機を降りた際に敷かれるのもレッドカーペットです。調べましたら、このような習慣は紀元前5世紀までにも遡れるようです。
主イエスがエルサレムに入城する、棕梠の葉を敷いて、着物まで敷いて、人々は大歓迎して出迎えた。なぜ、そうしたのか、主イエスが特別な業をなされ、神の国を宣べ伝えておられる、そのような噂がエルサレムにも流れてきていたのでしょう。この方は、これから私たちの国の王となられる方ではないか、ローマ帝国にも打ち勝つ、我らのヒーローとなる方ではないか。そのような大きな期待を膨らませて迎えた、最高、最大の迎え方をしたのだと思います。
けれど、主はそのような人の思いを知っていて、だから、馬でもなく、ロバに乗って、しかもロバの子に乗って入られた。まだ誰も乗せたことのない子ロバです。ロバはフラフラ、ヨロヨロと歩いていたと思われます。その姿はあるいは笑いを誘うような様子であったかもしれません。
それは、主イエスが伝えようとする神の国と、人間の思う神の国の姿との大きな違いが、エルサレム入城の場面に記されたのではないか、改めてそのように思いながら読んだわけでありました。
先ほど、読んでいただいた場面、主イエスがゲッセマネで祈っている場面もまた、神の思いと人の思い、その違いがはっきりと読み取れる箇所であると思います。
何によってその違いが明らかになるのかと言えば、祈りの姿によってです。
主イエスがエルサレムに入られて行われた最初の出来事は、エルサレムの神殿で、両替人の台や鳩売りの腰かけをひっくり返されて「わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われた場面です。人々はその姿に驚いたと思います。この方こそ、我らのヒーローと思っていたけれど、一体これはどうしたことか、少し様子が違うと感じたでありましょう。
けれど、主イエスは人からどう思われようとも、この神殿は祈りの家である、そこから外れてはならないのだと教えようとされたのでしょう。大切なのは、神殿が祈りの家である、それは建物というより、そこで祈る者の姿勢が問われているということでしょう。
エルサレム入城から数日経ち、過越しの祭りとなり、主は弟子たちと共に過越しの食事をされました。食事は酵母を入れないパン、苦菜と呼ばれる野菜、火で焼いた羊です。規定ではそれらは必ず食べきらなければなりません。ワインを飲み、弟子達のお腹は膨らみ、気分良く過ごしていたでしょう。ユダが出て行ったことも弟子たちは大きな関心を払いませんでした。
食事の後、主イエスは弟子たちと共にゲッセマネと呼ばれる場所に移り、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて更に奥に進み、自らが祈りの家となったかのように、地面にひれ伏すほどの祈りを捧げられました。これからすぐに起るであろう、ユダの裏切り、逮捕、裁判、そして十字架、そのことを既にご存知であった主は、悶える程の祈りを献げました。「悶える」の元々の意味は「人々から捨てられている」という意味のようです。
けれど、弟子の三人は寝ていたというのです。鎌倉雪ノ下教会で牧師をしておられた加藤常昭先生の説教集がありますが、その説教を読みましたら、こんな言葉がありました。「主イエスは、目を覚まして祈っているようにと言われた。弟子たちは、目を覚ましていられなかった。眠ってしまった。ある神学者が、そのことについてこう書いた。『なぜ弟子たちは眠れたのだろうか。自分を信じていたからである』」そう記されてありました。
弟子たちは過越しの食事、羊の肉で満腹の上に、少しの酔いも手伝っていたでしょう。とても眠かったろうと思います。眠いだけでなく実際に眠ってしまった。なぜ眠ってしまったのか、『自分を信じていたからである』私はこの言葉は人の思いを良く言い当てているように思います。
コロナ禍となって、どの教会も大変な状況を歩んで来ましたが、今、どことは言えませんけれど、ある割合に大きな教会の主任牧師と副牧師と二人がユーチューブに撮って、教会員向けに、信仰についての話をすることにしたそうです。その一回目を見ていましたら、一回目なのに既に質問が来ていて、その質問は「牧師は家でも祈っているのですか」という質問でした。主任の牧師が読み上げたのです。ですから若い副牧師が答えなければならないのですが、明らかに驚いたようになって言葉が出なくなった。見ていてちょっと笑いました。どこの教会かは言えませんが、主任の先生が上手にフォローしていて、その掛け合いが愉快でありました。私は人が、どこかで自分に自信があると思っているとしたら、神よりも、自分を信じている者は、いつの間にか自分で祈らなくなるのではないかと改めて思いました。
自分でどのように祈らなくなるのかというと、主イエスが祈ったように「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったような、自分自身の全てを傾けて祈る姿勢が無くなってくるということでしょう。
主は三度祈られましたが、弟子たちは三度とも眠ってしまいました。一度の失敗を悔いて、二度目からは主と共に祈ったのではなく、二度目も三度目も弟子たちは眠さに負けたのです。その姿は人の罪がどれほど重いのか、それ故に主イエスは、益々真剣に、益々悶える程の祈りを献げなければならなかったことが分かります。
人は神の前にあって、十分に祈ることも出来ず、目を覚ますことも出来ず、神の御心に従うことも出来ず、その姿は、人には少しの足りないところがある、どころではない。どんなに大きな罪を負っているのか、人の思いと、神の思いの違いがこれほどに明らかにされた場面も無い程であるとさえ感じます。
その為に、いよいよ主イエスはその人の罪を負うために、十字架への歩みを、主の御心のままに受け入れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、血を流し、死んでいかれました。その死は私たちの罪故なのです。
私たちは主イエスの死が、私たちの罪故であることを忘れてはならないと思います。
今、私たちの社会は現実に起こった、起こっている戦争に心が翻弄されています。武器を持ち、ミサイル、爆弾によって、何百、何千、何万人というウクライナの人々も、ロシアの兵士も死んでいる現実を知らされています。知らされる報道を見ていますと、まさに言葉が出て来ません。私自身、戦争についても情報をこれまで何度も聞かされ、伝えられて、教えられて来ましたが、心で思っていた何倍もの凄惨さ、次々と起る悲惨な状況を知らされます。神様はおられないのかと呻きたくなるほどです。何より人はこれほどまでに残酷になれるのかと思う。そして人の罪の深さ、主さを思わざるを得ません。
殆ど絶望に近い感覚にさえ陥りますけれど、今、このような状態であるからこそ、私たちは共々に神に祈ることを忘れてはならないと思う。
自分に自信がある者は祈らなくなると申しましたが、また、一方では、絶望している者も祈らなくなるのです。だから、祈りは諦めていないという証しでもあります。どのような状況においても、暗闇の中でも、主なる神が光を指し示し、私たちが歩む道を、歩む人生を指し示してくださる、だから絶望せず、十字架の死から復活の命を示された方に希望を繋ぎ、生きる中にあって、祈らなくなる罠に陥ることなく、この方を見つめて私たちは生きていくしかその道はありません。
来たる次週のイースターに向けて、主の復活に臨みをつないで、私たちは共々にこの週も過ごして参りましょう。
お祈りします。
【マルコによる福音書14章32~41節】
本日は受難週の礼拝です。先ほど9時からの子どもの教会では、伝統的に受難週の礼拝で読まれるマルコによる福音書11章から、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された場面を読んで礼拝を守りました。今日は、私が説教当番ではありませんでしたが、先日その箇所を改めて読み直しました。読み直す中で、分かっていたようで分かっていなかったなぁと改めて思わされたことがありました。
単純なことですが、主イエスは、なぜ子ロバに乗ってエルサレムに入られたのかということです。馬ではなくロバであった、しかもロバの子であった。それは真の「平和の主」という姿を人々に見せるためであった。そのように思っておりましたが、それだけでは足りない、もともと、なぜ、主イエスがエルサレムに入られようとした時に、エルサレムの人々は棕梠の葉を敷いて、自分達の着物まで敷いて大歓迎して迎えたのか。
棕梠の葉を敷く、自分達の着る物を敷く、その様子は現代に照らし合わせるとすれば、例えばレッドカーペットを敷いたような様子ではないでしょうか。
先日アメリカで行われたアカデミー賞で、日本の「ドライブ・マイカー」が栄誉ある賞を受賞したことで話題となっていましたが、女優さん、俳優さんが会場に入る際に、通路にレッドカーペットが敷かれていて、その上を歩いては入ることが栄誉だと言われます。
多くの女優さん、俳優さんがいつかは自分もその上をと願っているでしょう。あるいは国が国賓として招いた国の元首、要人が飛行機を降りた際に敷かれるのもレッドカーペットです。調べましたら、このような習慣は紀元前5世紀までにも遡れるようです。
主イエスがエルサレムに入城する、棕梠の葉を敷いて、着物まで敷いて、人々は大歓迎して出迎えた。なぜ、そうしたのか、主イエスが特別な業をなされ、神の国を宣べ伝えておられる、そのような噂がエルサレムにも流れてきていたのでしょう。この方は、これから私たちの国の王となられる方ではないか、ローマ帝国にも打ち勝つ、我らのヒーローとなる方ではないか。そのような大きな期待を膨らませて迎えた、最高、最大の迎え方をしたのだと思います。
けれど、主はそのような人の思いを知っていて、だから、馬でもなく、ロバに乗って、しかもロバの子に乗って入られた。まだ誰も乗せたことのない子ロバです。ロバはフラフラ、ヨロヨロと歩いていたと思われます。その姿はあるいは笑いを誘うような様子であったかもしれません。
それは、主イエスが伝えようとする神の国と、人間の思う神の国の姿との大きな違いが、エルサレム入城の場面に記されたのではないか、改めてそのように思いながら読んだわけでありました。
先ほど、読んでいただいた場面、主イエスがゲッセマネで祈っている場面もまた、神の思いと人の思い、その違いがはっきりと読み取れる箇所であると思います。
何によってその違いが明らかになるのかと言えば、祈りの姿によってです。
主イエスがエルサレムに入られて行われた最初の出来事は、エルサレムの神殿で、両替人の台や鳩売りの腰かけをひっくり返されて「わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われた場面です。人々はその姿に驚いたと思います。この方こそ、我らのヒーローと思っていたけれど、一体これはどうしたことか、少し様子が違うと感じたでありましょう。
けれど、主イエスは人からどう思われようとも、この神殿は祈りの家である、そこから外れてはならないのだと教えようとされたのでしょう。大切なのは、神殿が祈りの家である、それは建物というより、そこで祈る者の姿勢が問われているということでしょう。
エルサレム入城から数日経ち、過越しの祭りとなり、主は弟子たちと共に過越しの食事をされました。食事は酵母を入れないパン、苦菜と呼ばれる野菜、火で焼いた羊です。規定ではそれらは必ず食べきらなければなりません。ワインを飲み、弟子達のお腹は膨らみ、気分良く過ごしていたでしょう。ユダが出て行ったことも弟子たちは大きな関心を払いませんでした。
食事の後、主イエスは弟子たちと共にゲッセマネと呼ばれる場所に移り、特にペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて更に奥に進み、自らが祈りの家となったかのように、地面にひれ伏すほどの祈りを捧げられました。これからすぐに起るであろう、ユダの裏切り、逮捕、裁判、そして十字架、そのことを既にご存知であった主は、悶える程の祈りを献げました。「悶える」の元々の意味は「人々から捨てられている」という意味のようです。
けれど、弟子の三人は寝ていたというのです。鎌倉雪ノ下教会で牧師をしておられた加藤常昭先生の説教集がありますが、その説教を読みましたら、こんな言葉がありました。「主イエスは、目を覚まして祈っているようにと言われた。弟子たちは、目を覚ましていられなかった。眠ってしまった。ある神学者が、そのことについてこう書いた。『なぜ弟子たちは眠れたのだろうか。自分を信じていたからである』」そう記されてありました。
弟子たちは過越しの食事、羊の肉で満腹の上に、少しの酔いも手伝っていたでしょう。とても眠かったろうと思います。眠いだけでなく実際に眠ってしまった。なぜ眠ってしまったのか、『自分を信じていたからである』私はこの言葉は人の思いを良く言い当てているように思います。
コロナ禍となって、どの教会も大変な状況を歩んで来ましたが、今、どことは言えませんけれど、ある割合に大きな教会の主任牧師と副牧師と二人がユーチューブに撮って、教会員向けに、信仰についての話をすることにしたそうです。その一回目を見ていましたら、一回目なのに既に質問が来ていて、その質問は「牧師は家でも祈っているのですか」という質問でした。主任の牧師が読み上げたのです。ですから若い副牧師が答えなければならないのですが、明らかに驚いたようになって言葉が出なくなった。見ていてちょっと笑いました。どこの教会かは言えませんが、主任の先生が上手にフォローしていて、その掛け合いが愉快でありました。私は人が、どこかで自分に自信があると思っているとしたら、神よりも、自分を信じている者は、いつの間にか自分で祈らなくなるのではないかと改めて思いました。
自分でどのように祈らなくなるのかというと、主イエスが祈ったように「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったような、自分自身の全てを傾けて祈る姿勢が無くなってくるということでしょう。
主は三度祈られましたが、弟子たちは三度とも眠ってしまいました。一度の失敗を悔いて、二度目からは主と共に祈ったのではなく、二度目も三度目も弟子たちは眠さに負けたのです。その姿は人の罪がどれほど重いのか、それ故に主イエスは、益々真剣に、益々悶える程の祈りを献げなければならなかったことが分かります。
人は神の前にあって、十分に祈ることも出来ず、目を覚ますことも出来ず、神の御心に従うことも出来ず、その姿は、人には少しの足りないところがある、どころではない。どんなに大きな罪を負っているのか、人の思いと、神の思いの違いがこれほどに明らかにされた場面も無い程であるとさえ感じます。
その為に、いよいよ主イエスはその人の罪を負うために、十字架への歩みを、主の御心のままに受け入れ、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられ、血を流し、死んでいかれました。その死は私たちの罪故なのです。
私たちは主イエスの死が、私たちの罪故であることを忘れてはならないと思います。
今、私たちの社会は現実に起こった、起こっている戦争に心が翻弄されています。武器を持ち、ミサイル、爆弾によって、何百、何千、何万人というウクライナの人々も、ロシアの兵士も死んでいる現実を知らされています。知らされる報道を見ていますと、まさに言葉が出て来ません。私自身、戦争についても情報をこれまで何度も聞かされ、伝えられて、教えられて来ましたが、心で思っていた何倍もの凄惨さ、次々と起る悲惨な状況を知らされます。神様はおられないのかと呻きたくなるほどです。何より人はこれほどまでに残酷になれるのかと思う。そして人の罪の深さ、主さを思わざるを得ません。
殆ど絶望に近い感覚にさえ陥りますけれど、今、このような状態であるからこそ、私たちは共々に神に祈ることを忘れてはならないと思う。
自分に自信がある者は祈らなくなると申しましたが、また、一方では、絶望している者も祈らなくなるのです。だから、祈りは諦めていないという証しでもあります。どのような状況においても、暗闇の中でも、主なる神が光を指し示し、私たちが歩む道を、歩む人生を指し示してくださる、だから絶望せず、十字架の死から復活の命を示された方に希望を繋ぎ、生きる中にあって、祈らなくなる罠に陥ることなく、この方を見つめて私たちは生きていくしかその道はありません。
来たる次週のイースターに向けて、主の復活に臨みをつないで、私たちは共々にこの週も過ごして参りましょう。
お祈りします。